2008年11月28日

名取栄一翁伝:5完

名取栄一翁伝5完
没後50年、足跡は今5
統制下、沼津市長に:政策の最大課題は合併
 「沼津市トノ合併ハ純農村ノ機構ヲ破壊スルモノニシテ絶対二好マザル所ナリ駿東郡大岡村上石田区」ー。沼津市明治史料館に、こんな合併反対決議書(昭和十五年)が残されている。当時の沼津市長は名取栄一翁だった。
 戦後施行の地方自治法、公職選挙法以前、市長は市議の中から間接選挙で選出されていた。十年から市議を務めていた名取翁は、市長派、反市長派、中立派の三派による意見交換の上、全会一致で次期市長に推された。
 名取翁は当初、「器ではない」と固辞したが、議会や経済界、地元大手町町内会の再三の説得を受け受諾。十五年二月、第七代沼津市長に就任した。六十八歳だった。
 名取市長は戦時統制の中、出征将兵の遺・家族援護などに尽くすとともに、近隣町村との合併を最大課題に置いた。名取栄一翁伝記は「最大の壁であった愛鷹山組合の改組並びに、門池水利組合の一時清算に成功して、その土台をつくった」としている。
 だが、十五年七月、県当局が強くあっせんした沼津、片浜、静浦、大岡、金岡の五市村合併による会談は、決着がつかず挫折した。九月には大岡村上石田の住民が、反対決議を挙げている。翌十六年、名取市長や各村長の奔走で、いったんは大岡、片浜、金岡が合併に傾いた。名取市長は静浦を除く三村との合併を正式に申し入れたが、情勢は逆転し、四市村合併も暗礁に乗り上げた。
 十六年十一月、名取市長はわずか一年九カ月で辞表を提出した。名取栄一翁伝記は「健康上の理由」とするが、ひ孫の名取正純さん(五〇)=沼津ヤナセ社長=は、「栄一翁の潔癖な性格からして、合併問題の責任をとり辞職したのでは」とみる。
 昭和三十三年十一月九日、石橋湛山葬儀委員長の下、名取翁の葬儀に委員として名を連ねた田上博沼津市議(八三)は慨嘆する。「名取先生にしても湛山先生にしても、当時若かった自分は仰ぎ見るしかなかったが、政策に向かう気迫、出処進退の潔さが強く感じられた」
 名取翁の没後、半世紀。沼津市は今月、新しい市長,を迎えた。栗原裕康新市長は沼津主導の東部合併を最大課題とする。栗原市長は「合併は自分一人の力だけでできるとは思わないが、先人の情熱は受け継ぎたい」と話す。

 【メモ】沼津市の合併片浜、静浦、大岡、金岡との合併は昭和19年。歴代市長の努力に、戦争を控えた総力戦の構築という国家的要請で実現した。その後、30年に愛鷹、大平、内浦、西浦、43年には原町、平成17年は戸田と合併したが、政令市を目指した東部5市4町の研究会は今年2月、破たんしている。
(静新平成20年11月28日「名取栄一翁伝:完」)
  

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2008年11月27日

山田寿太郎氏

 山田さん紫白綬有功章
沼津「寿太郎みかん」生みの親
 県内初「胸いっぱい」
 糖度が高く濃厚な味わいで人気がある沼津市西浦産の高級ミカン「寿太郎みかん」の生みの親、山田寿太郎さん(八二)=同市西浦=がこのほど、大日本農会(総裁・桂宮宜仁親王殿下)の本年度農事功績者表彰で、上位表彰の紫白綬有功章を受章した。同章の受章は県内初。
 山田さんは、昭和五十年に「青島温州」の木で見つけた突然変異を起こした枝から、八年をかけ、皮の色が濃く味も優れた新品種「寿太郎温州」を開発した。独自の摘果方法や枝の管理技術を確立し、新品種の普及に努めてきた。
 消費者の人気が高く、市場でも高値で取引されるため、寿太郎温州の開発はミカン産地としての西浦の活性化に大きく貢献した。平成十九年度には、西浦柑橘(かんきつ)共選場の取扱量六千九百二十四トンのうち、寿太郎温州は二千九百九十八トンと全取扱量に占める割合は43%に上り、品種別で最多となっている。
 山田さんは受章を受け「もったいなくて胸がいっぱい。消費者はいいものが分かる。これからは本当にうまいものでなくては売れない」と語った。
(静新平成20年11月27日(木)朝刊)
  

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2008年11月27日

 名取栄一翁伝4

 名取栄一翁伝4
 石橋湛山会
 東部政財界が後押し

 先月七日、大正ロマン漂う木造建築、沼津市千本郷林の「沼津倶楽部」がレストランとして再オープンした。ここはかつて、県内選出代議士で唯一、首相となった石橋湛山を育てた「湛山会」の拠点の一つだった。
 山梨県出身の石橋湛山の静岡第二選挙区(当時)での担ぎ出しを持ちかけたのは、終戦後、初めて行われた総選挙で当選しながら、公職追放となった佐藤虎次郎(元旧清水市長)だったとされる。
 解散風が強まった昭和二十二年一月、佐藤は沼津市大手町の名取栄一邸を訪れ、石橋の静岡二区での出馬を相談、同じ山梨出身の名取翁を中心とする沼津政財界の支援を要請した。石橋は当時大蔵大臣だったが、東京の選挙区で落選していた。
 快諾した名取翁はその翌日、沼津や御殿場、下田などの政財界を仕切る「名取門下」の幹部を名取邸に集めた。「石橋さんを担ぎ、静岡県から総理を出そう」
 同年三月、石橋は本籍を名取邸に移し自由党公認として出馬。名取翁は選挙直前に公職追放の身となったが、県東部の保守が結集して石橋はトップ当選した。
 「湛山会」重鎮だった父親の死後、名取翁に目をかけられた勝亦一強沼津観光協会長(七三)は「当時は東部政財界に大物が多かったが、あれだけ集められたのは名取翁だったからこそ」とみる。
 三十一年十二月、石橋は首相の座を射止める。翌年一月、沼津駅前に朝から数千人が集まったお国入りパレードで、名取翁はオープンカーに石橋首相と並んで座った。
 石橋の代議士五期はさまざまな起伏があった。利益誘導を行わず、演説は大所高所に立った内容がほとんど。若手市議として選挙戦に加わった田上博沼津市議(八三)は「世界平和のため、私が日米ソ中を同盟させるーと街頭演説した時は驚いた」と懐かしむ。
 名取翁は三十三年に没するまで石橋を支え続けた。名取栄一翁伝記は「名取翁は石橋氏のために次々と土地を売り、全財産を投げ出したといってもよかった」と記す。
 石橋は在任二カ月で病気のため首相の座を降りた。湛山会は石橋湛山の引退後、自然消滅した。やはり父親が湛山会主要メンバーだった沼津倶楽部理事長の林茂樹乗運寺住職(七〇)は「名取翁の大きな人柄、湛山先生の高潔さは絶対忘れてはならない」と、沼津倶楽部の再出発とともに湛山会で培われた政治風土、文化の流れの再興を願う。

 【メモ】石橋湛山(いしばし・たんざん)1884ー1973年(明治17ー昭和48年)。東京生まれ、1歳で山梨県に。早大卒後、東京毎日新聞社などを経て41年東洋経済新報社社長。47年静岡2区で衆院初当選。56年12月に首相となったが脳梗塞を発症し翌年2月辞任。63年の総選挙で落選し政界引退した。
(静新平成20年11月27日「名取栄一翁伝4」)
  

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2008年11月27日

西周

西周の学問と沼津:四方一瀰
 十一月十六日、沼津駅前に香陵ライオンズクラブが西周の記念碑を建立した。同クラブは今までも、畏友大場俊雄君をはじめ、会員の方々が長年にわたり、沼津兵学校や西周の顕彰に努め、明治初年、日本の近代文化が沼津の地に輝いたことを広く沼津市民に弘めてきた。
 沼津兵学校については昨年、熊沢恵理子、樋口雄彦の二人の新進気鋭の学者が大著を刊行している。沼津兵学校に比べて西周の名はまだ知られていないが、十二日の本紙に、栗田昌彦氏が周到・綿密な紹介文を寄せられた。
 西は近代日本の初頭を飾り、その後の我が国の帆近代的・科学的な学問・思想の方向付けをし、思考の法則をも打ち立てるなど、凡人には成しがたい不朽の業績を残した。彼が作った「哲学」「定義」「概念」「理想」「抽象」「主観」「肯定」「本能」など新しい概念・用語が今日、日常的に用いられていることからも知られる。
 しかも、その西の画期的な思索が、沼津で、しかも今は道路となってしまったイーラdeの西端の一九番屋敷で生み出されたのである。いわば、我が国の近代的学問や、思想・科学的研究は沼津で、その「あまねガード」上り口の西の住居から生まれたと言うことができよう。
 確かに西が沼津に在住した期間は二年足らずで、大きな著書を世に問うてはいない。この時期は、新しい学校=沼津兵学校の組織づくり・人材育成や教育課程の編成・学校経営に忙殺されており、学問的著書を世に問う情況ではなかった。
 ではこの時期、西の思想や学問は等閑に付されていたのだろうか。否、である。
 明治三年九月に沼津を去った西は、その翌月には、東京に育英舎を創設し、『百学連環』で、もろもろの学問を「普通学」と「殊別学」に大分し、「殊別学」を、さらに「心理上学」と「物理上学」に専門分化して学問領域を明確にするが、しかも、それら個別の学問を哲学によって統一的組織的に考察しようとする壮大な学問体系の構築を意図した講義を行っている。
 これは公務や健康上の問題で完成はできなかった。柳田泉が、それが大成していれば「明治文明における日本人の学問的業績の最大な一つとして、おそらくは世界に誇れるものとなっていたであろう」と述べた画期的なものであった。
 この宏壮な学問体系が離沼後の多忙な一カ月の間に構築されたと見ることは不可能であり、沼津で想が練られていたのである。
 この学問構築のため、日本にも中国にもなかった思考の形式である「論理学」を沼津兵学校で初めて講義し、明治二年、〔沼津で「学原稿本」を起稿。やがて『致知啓蒙」として出版している。三年には近代的な思想のもとに国学・儒学を批判した「復某氏書」を記し、さらに言葉を正しく伝えるために日本語文法論「ことばのいしずゑ」も沼津で作られたと考えられている。
 そのほか、沼津で政律(法律学・政治学)・史道(論理学・哲学・文学・歴史学)・医学・利用(数学・物理学・化学・経済学)を包摂した、我が国最初の総合大学構想「沼津学校追加掟書」・「文武学校基本井規則書」(津和野藩主に提出)が練られた。
 このように、封建社会から近代社会への転換期に画期的な日本文化構築の役割を果たした西の主要な業績は、沼津で創出されたと見られるのである。
 (元国士舘大学教授.沼津史談会会長、松下町)
(沼朝平成20年11月27日「言いたいほうだい」)
  

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2008年11月26日

阪野鑑氏

日展新入選の書家
阪野 鑑(さかのかん)さん(沼津市)

 本年度の日展で、二〇〇五年に続く二回目の出品により、新入選を果たした。入選作「蘇軾詩三首」は、十二月七日まで東京・六本木の国立新美術館で開かれている日展に展示されている。三十一歳。
 ー新入選の感想を聞かせてください。
 「やっと書道家としての入り口に立つことができた。これをスタートラインに、精進を重ねていく」
 ー書との出合いは。
 「沼津市内の書道教室に小一から高一まで通った。詳しくは覚えていないが市や県のコンクールなどで褒められたことが、書で生きようと思うきっかけになった。大学を卒業後、会社勤めを続けながら独学。師事する人を探し、〇一年に江口大象先生(日展会員)への入門が許されてから、勉強が本格化した」
 ーどんな作風を目指していますか。
 「あまり前衛的な方向は考えていない。漢詩をはじめ古典をしっかり勉強し、それを背景に現代にそぐう制作活動をしていきたい」

三十日まで沼津市下香貫島郷の珈舎で初個展を開いている。
(静新平成20年11月26日「この人」)
  

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2008年11月26日

渡辺妙子氏

佐野美術館館長
 渡辺妙子氏(わたなべたえこ)(71)
 「景観も資源ととらえて」
 ーこの美術館の使命をどう考えていますか。
 「技術者であり実業家であった生みの親・佐野隆一翁も美術品を自分にインスピレーションを与えてくれるものととらえていました。まずは作家のエネルギーと"言葉"が凝縮された作品を選ぶこと。基本構想にもうたった『地域とともに歩む』という点では、来館者への解説をはじめとするボランティア制度や、近隣高校生と同伴者の見学を無料にする入館協約制度などがあります」
 ー伊豆の観光活性化への提案は。
 「観光資源として景観整備の重要性を感じます。ヨーロッパでは街並み自体がアートなんですね。車社会を考えれば、まずは道路を美しくすることから始めてはどうでしょうか。表示や看板のデザインを統制するとか。さらに山里に手を入れて美しい景観をつくることも伊豆なら可能でしょう」
 ー広域合併へのお考えを聞かせてください。
 「沼津に住み、三島で仕事をしている立場から見ても両市が結び付くべきだと思います。沼津の長い海岸線は素晴らしい財産だし、食の面で魚は大きな吸引力。一方で三島は三嶋大社をはじめとする伝統文化があり、新幹線駅は両市にとっての玄関口です。経済と文化は両方相まって成立します。県東部全体を豊かにするという発想で取り組むべきで、行政区の拡大は優れた人材の確保にもつながるのでは」

 【佐野美術館】三島出身の佐野隆一が私財を投じて昭和41年に開館した。収蔵品は特に日本刀に名品が多い。年7、8回の特別展を開き、それに合わせた体験教室など見るだけではない"生きた美術館"を目指している。三島市中田町。
(静新平成20年11月26日「熱き地域人」)
  

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2008年11月26日

名取栄一翁伝:3

名取栄一翁伝3
没後50年足跡は今3
沼津駅前に13間半道路
地主説得し都市計画



















 JR沼津駅から真っすぐ南に延びる四車線の駅前通り。この広い幹線道路の骨格は大正末期、まだ沼津市内に自動車が六十台ほどしか普及していなかった時代に、市復興部長を務めた名取栄一翁=当時(五四)=の尽力で整備された。
 沼津市史によると同市は大正二年の大火、十三年の我入道大火、十五年の大火に相次ぎ襲われた。中でも十五年十二月の大火は、市役所や警察署、病院なども巻き込んだ。焼失は当時の市全戸数の三分の一におよび、市中心部は焦土と化した。
 市は焼失地の区画整理を基本とした道路拡張・復興計画を決め、これを執行する部署として復興部を新設。市長推薦で民間から名取翁に部長が委嘱された。
 新道路拡張は大幹線を幅十三間半(二四・五㍍)、幹線は十間半などとする画期的な計画だった。だが、地主との換地折衝は難航を極めた。
 「道の真ん中で田植えでもするのか」。通る自動車が一日二十台あるかないかの中、店や住居の移転、減歩を強いる区画整理。大正八年まで区長を務めた足元の追手町(現大手町)から猛反対ののろしが上がった。
 反対者たちは「都市計画反対」「名取復興部長を葬れ」と、むしろ旗を掲げ、名取邸に押しかけた。だが名取翁は「沼津の将来の発展のために」と全区で地主を訪問。粘り強く折衝を重ね、問題を一つ一つ解決した。
 昭和五年ごろ撮影された駅前通りと国道1号線(旧国一通り)の交差点付近の写真を見れば、広い道幅で真ん中に路面電車が通る幹線の完成が分かる。後藤全弘沼津商工会議所会頭は、「(名取翁は)とにかく力があったと聞く。都市整備では、町の骨格を形作った沼津の創業者とも言える」と評価する。
 駅前通り(現さんさん通り)裏手に地元市民が集う会館と神社が建てられた一角がある。「土地の多くは名取翁の寄付」と同町内会の露木博行事務長が教えてくれた。大手町や繭市場(現在の市立図書館)敷地など、多くの土地を所有していたとされる名取翁が子孫に残した不動産は少ない。
 名取翁のひ孫、名取正純さん(五〇)=沼津ヤナセ社長=は、しのんだ。「栄一翁は『財を残そうと思えば残せたが、性分から住むところだけ残し全部譲った。人脈と信用が残せるもののすべてだ』と遺言したと聞く。確かに形はないが、大きな財産を残してくれた」


 【沼津市街地の拡大】市区改正復興事業は、狭小な道路や家屋の乱雑な建て方が大火につながったという反省から断行された。市庁舎が現在の上香貫に完成したのは昭和三年。狩野川への三園橋架橋、上香貫の区画整理などで上香貫方面へ市街地が拡大した。
(静新平成20年11月26日「名取栄一翁3」)
  

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2008年11月25日

中のひとみ氏

県商工会議所女性会連合会会長
 中野ひとみさん(沼津市)
 沼津商工会議所女性会長を務めるとともに、県内十一商議所女性会でつくる連合会(県女連)をまとめる。今月、各会の連携を深める交流会を沼津市内で開催した。パックコミュニケーション社長。六十歳。
 ー県女連の活動内容を聞かせてください。
 「研修や会員相互の交流などを通じて女性経営者として自己研さんし、地域への貢献活動や環境、エネルギー問題などへの取り組みを各会それぞれが進めている」
 ー交流会でどんな成果が得られましたか。
 「女性の力の結集をさらなる前進につなげるため、従来の形式の打破を心掛けた。太鼓や和笛の演奏、和装の着付けなどを取り入れ、対話や臨場感のある新しい交流会のモデルを打ち出せたと思う」、
 ー来年四月に県内で開く関東ブロック大会への抱負を聞かせてください。
 「各会がネットワークを組んで一都八県から集まる約千人をもてなしの心で迎え、県女連の団結力を示したい」

 任期は来年六月まで。無事終えた後は水泳の練習に打ち込みたいという。
(静新平成20年11月25日「この人」)
  

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2008年11月25日

青木登氏

 協和発酵キリン富士工場
 青木登(あおきのぼる)工場長
 患者意識した医薬品開発
 長泉町下土狩の富士工場、研究拠点の富士リサーチパークを含む事業所の責任者。外資系製薬メーカーを経て、協和発酵工業で一貫して研究畑を歩んできた。製剤研究所長から二〇〇七年六月現職に。〇八年十月、キリンファーマとの合併で発足した協和発酵キリンの基幹工場となるよう尽力する。
 ー富士工場の主要製品を聞かせてください。
 「抗がん剤や抗アレルギー剤、降圧薬などの錠剤や注射剤など約八十品目を製造している。需要や営業戦略に応じて生産ラインを切り替え、少量多品種生産を担当する」
 ー長泉町という立地のポイントは何ですか。
 「医薬品製造に欠かせない良質な水が豊富なことが一番。東京本社との交通の便も良く自然も豊かで、首都圏など県外の学生を採用するのにも魅力がある。また、県立静岡がんセンターや国立遺伝学研究所なども近く、ファルマバレーを通じた情報交流も盛んに行われている」
 ー新会社発足で、何に重点的に取り組んでいますか。
 「新会社でも高品質の医薬品を安定供給するマザー工場となるため、医薬品の製造管理および品質管理の基準(GMP)を高いレベルで保つべく業務品質向上活動『JUMP』を進めている。人員配置や作業平準化など改善が必要な課題の掘り起こしを全社員で取り組んでいる」
 ービジネス上の信条は。
 「年間十億錠の薬を作ろうとも一錠一錠の薬効、品質を保証できること。一番大切な人に自信を持って投与できる薬の安全性と品質を確保するため、常に患者さんの存在を強く意識し、患者さんのニーズに合った薬を開発製造していきたい」
 若手社員とお酒を楽しむことがストレス解消。沼津市出身。五十四歳。
(静新平成20年11月25日「ビジネスinシズオカ」)
  

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2008年11月22日

名取栄一翁伝:2

名取栄一翁伝2
没後50年、足跡は今・2
「沼津信用金庫を創設」
 商都、戦災から復興
 昭和三十三年の成人の日。水上直行さん(七〇)=現沼津信用金庫顧問=ら成人式を迎えた沼津信金の五人の行員が、名取邸を訪ねた。初代理事長の名取栄一翁は緊張でコチコチの一人一人に笑いかけながら記念の万年筆を手渡し、「信金というのは、儲けばかりじゃだめなんだ」などと中小企業金融の心得を伝えた。
 沼津市は二十年七月の空襲で中心部のほとんどが焦土となった。戦後、中小企業や商店街の復興に向け、先立つものはなんと言ってもカネ。バラックで仮店舗は建てられても、市中銀行は貸し出し制限がかけられ、商品を仕入れる資金を簡単に貸してくれる機関が少なかった。
 名取翁は「戦災復興のため、何より先に中小企業者を再起させる金融機関をつくるべき」と決意し、市内有力者らと二十五年、沼津信用組合(翌年、信用金庫に)を創設。沼津商工会議所の一角で業務を始めた。
 創立当初は日銭が入る魚市場や青果市場、西浦などの農業組合に協力を求めて預金してもらい、その資金を中小企業や地域の商店に低利で貸し出した。「担保などはほとんど取らなかったそうである」と名取栄一翁伝記は伝える。
 担保を入れればどの銀行でも貸し出すが、戦災で傷んだ中小企業者、商店は入れるべき担保がない。名取翁は「事業場が事業をするのではない。人間が事業をするのだ」と経営者の評価に融資基準の重点を置いた。
 毎朝十時には出勤。給与は辞退した。「和服の着流し姿が定番。いつもニコニコしていたと聞いている」と堀田大洋同信金専務は、会議室に飾られた和服姿の肖像写真を見上げた。
 水上さんは「名取翁は雲上人。二十歳そこそこの行員が話しかけるなんて考えたこともなかったが、取引先からは"名取のおじいさん"と慕われていた」と振り返る。
 沼津信用金庫は商都沼津を復活させ、多くの中小メーカーを育成した。今年一月には御殿場市を本拠とする駿河信用金庫と合併。駿東から北駿全域と伊豆の一部をエリアに、県内八位の預金規模の信用金庫となった。
 合併を前に五十六年発行の「名取栄一翁小伝」を増刷した諏訪部恭一・六代目理事長は「経済競争の中で、信用金庫も収益第一主義に陥りがち。中小企業を取り巻く環境が厳しい今こそ、名取翁の思いをかみしめ、信金の原点に戻るべき」と言葉に力を込めた。
 【沼津信用金庫】本店は沼津市大手町。沼津、御殿場、三島、裾野市などに32店舗。2008年3月期の預金期末残高は3714億円、貸出金は1796億円。
(静新平成20年11月22日「名取栄一翁伝」)
  

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2008年11月21日

名取栄一翁:1

名取栄一翁伝 
 【名取栄一】明治6ー昭和33(1873ー1958)年。山梨県中巨摩郡生まれ。14歳の時、繭仲買の父の招きで御殿場に転住。翌年沼津に。名取商会を創設、沼津信用金庫初代理事長。昭和15年沼津市長

没後50年足跡は今:1
「沼津に築いた製糸産業」 全国有数の繭市場に
 車が激しく行き交う国道414号沿いに立つ沼津市三枚橋町の市立図書館。ここに日本の繭相場を支配した市場があったことを知る人は今は、もう少ない。
 山梨県出身の名取栄一=以降、名取翁=は大正五(一九一六)年、名取商会「沼津繭市場」を沼津駅前に開設(昭和二年、三枚橋に移転)した。先行していた松崎市場との激しい競争を経て、全国相場を左右する市場に急成長させた。
 名取栄一翁伝記は繁栄ぶりをこう記す。「初取引には新聞記者が詰め掛け、結果は全国に報道、あるいは直接横浜の貿易業者に打電された。名取市場は世界中にその名を知られるようになった」
 名取翁は繭市場を興すとともに製糸企業の誘致にも精力的に取り組んだ。「千人挽(ひ)き規模」(沼津市史)などの大規模拠点が沼津繭市場の成長と合わせ計画され、四工場が進出した。
 製糸企業の労務人事担当だった父と幼少時、長野県から沼津に転居してきた沼津信用金庫の堀田大洋専務(六五)は、「長野などから今日は三十人、次は何人と働く人たちを連れてきたと聞いた」と記憶する。
 大正四年から十一年の七年間で沼津の人口は67%増えた。同期間に県が5%増だったことを見れば、企業誘致による人口増の大きさが分かる。
 だが、世界恐慌が日本の製糸業に致命的打撃となった。沼津繭市場も昭和九年、強制合併を余儀なくされ
た。名取翁は実質的に経営に携わったが、戦時統制経済下の十三年、第一線から退いた。
 戦後まで生き残った大製糸工場もやがて相次ぎ閉鎖。このうち二工場の跡には西友、イトーヨーカドーの大型商業施設がそれぞれ立地している。
 「ようやく名取商会出身の名に恥じない会社になれた」。精密板金加工で高度な技術を持つ沼津市の安田製作所社長安田忠博さん(六〇)は、創業者の父・忠雄さんが生前、名取翁が創設、した沼津信用金庫との取引開始を、こう喜んでいたことを懐かしむ。
 名取商会で働き、「名取翁の秘蔵っ子」を自負していた忠雄さんの鉄工所が軌道に乗ったのは四十年代。「それまでどんな苦しい時も沼津信金を頼らなかった。そのくらい名取に対する思い入れが強かった」と忠博社長は振り返る。沼津繭市場を中心に名取翁が築いた産業を、直接引き継ぐ企業は沼津に残されていない。だが、起業精神は受け継がれる。

 沼津繭市場や沼津信用金庫を創設、県政史上唯一の首相石橋湛山を静岡の選挙区に招いた明治から戦後の沼津政財界の重鎮、名取栄一が今月、没後五十年を迎えた。ひ孫の名取正純沼津ヤナセ社長が所有する原稿「名取栄一翁伝記」(未出版)を見ながら、名取翁の足跡と今を探った。(東部総局・海野俊也が担当します)
(静新平成20年11月21日「名取栄一翁伝」)
  

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2008年11月19日

勝又規雄氏

ライオンファイル社長
 勝又規雄氏(かっまたのりお)(65)
 地域ブランドに波及効果
 ー東部、伊豆の観光や地場産業の活性化に何が必要でしょうか。
 「農業、商業、工業などが連携し、各地の特色をアピールする地域ブランドづくり。(商工会長を務める)裾野市はこれという特長を出せない所だったが、地場産品や消費動向などを掘り起こして『すそのモロヘイヤ入り水ギョーザ』を誕生させた。ご当地グルメ人気もあり約二年で全国へ情報発信できた。若手経営者たちが食の裾野ブランド開発を始めるなど、新しい物を作り出そうという雰囲気を醸成する波及効果も生んだ。地域ブランドは外部の注目を集めるだけでなく、内部を活性化する起爆剤になる」
 ー地域振興に富士山を生かすアイデアはありますか。
 「富士山には古来から著名な芸術家や文人が足を運び、着想を得て多くの作品を残している。しかし、富士山周辺に芸術や工芸などを生み出す拠点がない。作家が創作しやすい環境を整えた"巧みの村"のような施設を造り、創作支援や人材発掘などに取り組むことで新しい文化の創造や発信につなげてはどうか」
 ー議論が徐々に高まりをみせている道州制への考えを聞かせてください。
 「数年のうちに国が方針を示すとされ、道州制導入を見据えた東部地域の再編成、合併は避けて通れない。人口三十万人以上の基礎自治体を早く目指す必要がある。東部・伊豆は名古屋中心の東海圏なのか、どこに身を置くことになるのかも重要なこと。静岡と清水の合併では青年会議所が音頭を取り、若い力が推進力となった。若手経済人などが中心となって勉強会を開き、住民が各地域の実態を知ることから始めていくべきだろう」
 【ライオンファイル】昭和39年にライオンファイリングとして設立。63年、裾野市金沢に主力工場移転。平成5年、現社名に。紙製フラットファイルやフォルダーなどを手掛けるファイル総合メーカー。東京都中央区。
(静新平成20年11月19日「熱き地域人」)
  

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2008年11月18日

中国残留孤児3人が帰国会見

中国残留孤児3人が帰国会見
 「家族に会いたい」

 終戦の混乱の中で肉親と別れ、二〇〇八年度に新たに中国残留孤児と認定された女性二人と男性一人が十七日、肉親捜しのため一時帰国した。厚生労働省で記者会見し、「家族に会いたい」と期待を膨らませた。
 終戦後、避難途中に父母と妹、弟を銃で撃たれ、亡くしたという秦永珍さん=推定(七三)=は厚労省の調査で、親族の可能性のある女性が北海道に在住していることが分かり、十九日に対面調査することが決まった。「(会っても)その人が誰なのか分からないかもしれない」と言葉を詰まらせ、「肉親が見つかれば…」と涙をぬぐった。
 康玉芹さん=同(六八)=は「学校に一年も行けず、最近自分の名前を書けるようになった。苦しい一生だった」と振り返ったが、「帰国で苦しさが飛んでしまったような思いだ。弟の消息を知りたい」と笑顔も見せた。
 李義華さん=同(六三)=は「生みの親を捜したいが、育ててくれた養父母への孝行も尽くしたい。生みの親はやむを得ない事情で(私を中国に)置いていったと理解したい」と複雑な胸中を吐露した。
 康さんと李さんは対面調査の予定はなく、親族の申し出や手掛かりとなる情報を待つ。情報提供は厚労省の中国孤児等対策室〈電03(3593)7890〉へ。三人は二十八日まで滞在する。
(静新平成20年11月18日(火)朝刊)


厚生労働省は19日、肉親捜しのため一時帰国している中国残留孤児で、黒竜江省の秦永珍さんについて対面調査の結果、本籍が山形県の高橋定子さん(73)と判明したと発表した。訪日調査した孤児で個人が特定されたのは2年連続で、684人目となる。
 高橋さんは19日午後、父方のいとこに当たる北海道在住の3姉妹と対面。このうち次女の女性(73)が、高橋さんが満州に渡る前に同じ小学校に通い、一緒に遊んだ記憶があった。さらに▽家の状況▽高橋さんの顔が、3姉妹の母親と似ていた▽離別地点、年齢、家族構成が一致した-ことから本人と判明した。

 高橋さんは終戦時に避難する途中、銃撃されたショックで多くの記憶を失ったが、日本の家に海と線路があったことや満州の家に「高橋」と表札があったことを記憶していた。厚労省が保管する資料で避難経路が一致する開拓団を発見し、高橋さん一家とみられる名簿も確認したため、親戚の3姉妹に対面調査を呼びかけた。

 対面調査の後、記者会見した高橋さんは「記憶はよみがえらず、親族という実感は沸かなかったが、うれしくて、とても温かい気持ちになった」と笑顔を見せ、「日本に定住したい気持ちはあるが6人の子供と一緒に帰国したい」と語った。
(msn産経ニュース11月19日)
  

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2008年11月18日

市川誼氏(沼津:現代の名工)

「現代の名工:沼津」
 市は十四日、長年にわたって一つの職業で精進し、優れた技能を習得するとともに後進の模範となっている二十二職種四十三人(男性三十七人、女性六人)を技能功労者として表彰した。いわゆる「現代の名工」を市が顕彰する制度は一九七六年、技能者(職人)の社会的・経済的地位と技能水準の向上を図ることを目的に始まった。表彰基準は、市内在住で主として市内で就職し、対象となる四十六職種のうち同一職種に三十年以上従事する年齢五十五歳以上の技能者。

市川誼氏
 やればやるほど奥は深く
 眼鏡士で受賞の市川誼さん
 眼鏡士で表彰を受けた市川誼(よしみ)さんは、一九四六年三月生まれの六十二歳。大学卒業後、東京渋谷のメガネ、時計、宝石を販売する専門店で三年間修業し、父親が上土町で経営する宝飾・時計・メガネの市川を継ぐため沼津に戻って三十三年になる。
 沼津に戻って間もなく、上土町と通横町を含めた再開発事業計画が浮上。市川さんは沼津あげつち商店街振興組合の青年部員として、各地の再開発ビルを視察するなど若手経営者らと勉強会を重ね、十一年前のナティ誕生に尽力。東急ホテルをテナントとして誘致し、市川もナティ一階に店舗を構えている。
 以前、上土町の店で扱っていた商品に、より専門性を持たせるため、仲見世商店街のマルサン書店宝塚店にメガネサロン市川を出店。現在はマルサン書店の移転にともない仲見世店地階で営業を続ける。
 市川さんは現在、仲見世店のほか会社相手の外商も担当。また、南伊豆町の病院に月二、三回、社員と共に出張し、眼科でメガネの検眼手伝いに携わって六年を迎える。
 東京での修業時代は「朝が早くてきつかった」と振り返り、仕事については「専門でやればやるほど奥が深い」と話す。日本眼鏡技術者協会の認定眼鏡士の資格を持ち、客にきめ細かなサービスを提供している。
 「今までにない見え方、(遠近両用はもとより中近両用、パソコン対応などにより)使い方が良くなった、とお客さんに喜んでもらう時が、私の喜びでもある」と話す。
 同振興組合の理事長を八年間務め今年三月に退任したが、現在も理事として同商店街の活性化に努める。また、同商店街の夫人たちで組織する「あげつちおかみさん会」の活動を手助けするなど、にぎやかな沼津に思いを巡らす。
 家族は母親と妻、長男、長女の五人。趣味はゴルフと読書。
(沼朝平成20年11月18日(火)号)
  

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2008年11月15日

第51回沼津朝日賞:加藤学園高化学部

第51回沼津朝日賞:加藤学園高化学部
 30年間水質の調査と研究
 各賞を受け、高い評価
 同部は、昭和五十三年頃から顧問を務める海野徑(わたる)教諭指導で、市内の都市河川十二カ所の水質調査を春と夏の年二回、継続して実施。
 ほとんどの河川が生活排水によって富栄養化し、自然環境としての役割を果たしていない状況の中で、窒素とリンを除去する高度生活排水処理装置を開発。河川を子ども達が安心して水遊びできるまで浄化しようと、長年、地道な調査・分析、研究・開発を行っている。
 その一方、市のボランティア団体として登録し、環境保全のために尽力。
 これまで、三島南高のビオトープや、三島・バイカモの里の水質調査を手掛けたほか、桃沢川(長泉町)では、地域と合同で汚染の原因を探り、そのデータ結果を基に、処理施設が完成。県環境県知事褒賞を受けた。
 また、裾野市にある団地の下水処理施設老朽化に伴う調査の依頼を受け実施。その成果で高等学校環境大賞優秀賞を、さらに長年にわたる活動が評価され、同賞特別賞を受賞した。
 近年では、ビタミンBを発見した県内出身の世界的科学者・鈴木梅太郎博士の偉業を顕彰し、県内中高生の優れた理科研究を奨励する鈴木梅太郎賞に「製紙スラッジを利用した生活排水処理装置の開発」の研究で受賞。続いて、同研究は、岐阜県先端科学技術体験センターで行われた第16回東海地区高等学校化学発表会に県代表で参加し、奨励賞、討論賞を受けた。
 これまでにも、多くの実績を持つ同部では、日本学生科学賞の環境庁長官賞・一等賞・二等賞をはじめ、数回にわたり山崎賞、理科研究発表県大会最優秀賞を、このほか、工学院大学全国理科科学クラブ論文優秀賞・努力賞、ユネスコ露木賞を受けている。滋賀県で開かれた世界湖沼会議で展示発表も行っている。
 現在は、紙製造の過程で生じるカスの「製紙スラッジ」を利用した新型の処理材を開発中。
 入部を希望し同校に入学を決めた生徒もいて、活動で得た知識を基にOBは理系の大学、医学部へ進学しているという。
(沼朝平成20年11月15日(土)号)
  

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2008年11月15日

第51回沼津朝日賞:杉本健次さん

第51回沼津朝日賞:杉本健次さん
 環境おじさんとして活躍
 公園整備やゴミ分別など
 "原東沖の環境おじさん”の愛称で知られる杉本さん。原東沖公園の整備、草取り、草刈り、芝刈り、植木の剪定、集会所の清掃・管理をはじめ、ゴミ集積所の清掃とゴミの分別指導などを一手に引き受けている。
 活動の始まりは十六年程前、当時の自治会長が同公園で草取りなどを行っているのを見て、役員だった杉本さんは、「自治会長さんにばかりやらせるわけにはいかない」と、退職を機に手伝い始めた。自治会長が代わってからも公園整備を継続し、隣接する集会所やゴミ集積所の清掃もするように。
 公園は、住民による清掃が年に数回行われていたが、木は生い茂って見通しは悪く、公園内が見えにくい状態だった。大量のゴミも捨てられていたが、木を剪定したことで見通しが良くなり、毎日朝夕の清掃活動や定期的な芝刈りできれいに保たれるようになると、ゴミや犬のフンが放置されにくくなったという。
 「家で、ただボサッとしているより、一人でも多くの人に公園に立ち寄ってもらい、『きれいな公園だね』と言われる方が幸せ」だと言い、公園に集まる独居老人らの話し相手にもなっている。
 ゴミの収集日には、必ず早朝から杉本さんがゴミ当番の住民と共に看板立てなどを行って分別を徹底。当番の住民の仕事の都合などを考慮して「会社勤めの人の助けになれば」と、一人で引き受けることも多く、引き継ぎノートには杉本さんへの感謝の言葉が並ぶ。
 ゴミは回収車が持っていく順番に並べ、市収集課の職員は「この集積所はいつもきれいで助かる」と感謝。ゴミ回収後は水をまいて清掃し、赤紙を張られて残ったゴミ袋は、中身を出して分別。
 四年前からは毎日、子ども達の登下校時、通学路に立ち、子ども達にあいさつして交通安全を指導するスクールガードを務め、カーブミラーの清掃なども行う。
 地域住民は誰もが、「地域にとってなくてはならない人」と感謝しており、杉本さんは「人に喜んでもらい、『助かるよ』と言われると、あすも頑張ろうと思える。健康のためにも、体が動く限り続けたい」と話す。
(沼朝平成20年11月15日(土)号)
  

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2008年11月15日

第51回沼津朝日賞:名古屋英男さん

第51回沼津朝日賞:名古屋英男さん
 知的障害者施設の礎築く
 長年にわたり運営に尽力
 名古屋さんは、精神薄弱児者通所更生施設と呼ばれた「沼津のぞみの園」が小規模授産所だった頃から施設運営に尽力。晩年を福祉活動に捧げた故前田武雄さんにグイグイと引き込まれるように、二人三脚で障害児者とその家族が暮らしやすい世の中を目指して施設も制度も確立していない未開の分野に踏み入っていった。
 社会福祉法人沼津のぞみの園(現輝望会)設立のために関係方面に熱心な働き掛けを行い、昭和五十九年に法人化実現にこぎつけた。以来昨年三月まで理事として活躍。
 平成五年から十九年まで保護者会会長を務める一方、市内の知的障害者の親の組織「手をつなぐ親の会」会長を一期務めるなど、忙しい家業にも拘らず、子ども達の将来のために滅私の心で係わってきた。
 さらにのぞみの園への高額寄付や自身が経営するうなぎ店からうなぎ慰問をするなど自ら出来うる事を一つ一つ実践し、積み重ねて法人や施設の運営を軌道にのせていった。
 現在、法人は知的障害者の生活施設である「のぞみの里」やデイサービス施設、グループホーム、通所更生施設を運営。今年四月からは、知的障害児生活施設の市立あしたか学園の指定管理者にもなるなど、名古屋さんの築いた礎のもと、法人としての輪を広げている。
 名古屋さんは「前田先生のお陰」と繰り返しながら障害者に対する社会的偏見や心を閉ざした親達の疲れきった顔を思い浮かべてか、目に涙を浮かべ「沼津のぞみの園」の頃を振り返り、「現状が良いというわけではないが、社会の目が障害のある子に向いてきた事が、やってきたことの成果の表れ」とし、親の会を立ちあげたことで、親の意識も大きく変わり、「障害児を持つことは恥ずかしいことではない」と子どもを外へ出すようになり、次第に親の心も開かれて、我が子だけに留まらないエネルギーを発揮できるようになってきた。
 知的障害児者の将来を見据え、脳梗塞による後遺症を残す不自由な体ながら毎日リハビリに励み、弱者に対するやさしい気遣いは今もやまない。
(沼朝平成20年11月15日(土)号)
  

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2008年11月15日

第51回沼津朝日賞:杉山康監督

第51回沼津朝日賞:杉山康監督
 北京五輪活躍の3選手育て
 指導力を世界で実証
 一九五七年、御殿場市生まれの杉山監督は、日大三島高に入学してから本格的に水泳を始め、進学した日大では水泳部マネージャーを務め、当時、同大コーチで現在NHK解説者の東島新次さんからコーチングを学ぶ。
 卒業後は日大、日大三島高勤務を経て八七年、飛龍高前身の沼津学園高に就職して水泳部監督となり、現在は副教頭に就く。この間、全国レベルの選手を育てるため一年を通して練習できる温水プールの必要性を理事長に訴え、一般校舎の三階に二五㍍、六コース、水深一・二五~一・三五㍍のプールを開設。
 市内はもとより県内外から多くの選手をスカウトして育て、同校を全国高校水泳界で知られる存在に高めた。また、北京五輪で七位入賞した水泳男子八〇〇Mリレーのメンバーに卒業生の松本尚人、物延靖記の両選手が入っていたこともあり、高校のクラブとしては初めて水泳の月刊専門誌に三回にわたって特集されている。
 同監督の指導力に期待して入学した選手達は、高校総体や国体などで活躍し、これまでに個人種目で総体十二回、国体八回、リレー種目で総体三回、国体一回の優勝を飾っている。また、二〇〇二年には、男子四〇〇M自由型で市川洋介さん(現・富士市役所)が日本選手権者となっている。
 これまで同部の卒業生は男女で百八十人を数え、現在の部員は三十人。監督は「五輪選手、できれば日の丸を揚げられる選手を育てること、次いで水泳を野球やサッカーに負けないスポーツに育てること」と夢を語る。
 選手の育成は、第一に人間教育。高校、大学の七年間を育成期間と考え、監督が選手を預かる高校の三年間は基礎作りが中心で、「人間力×競技力=トップアスリート」になるため、大学へ進んで伸びる選手になるよう育てているという。
 選手達は卒業後、水泳名門校の日大や中大、明大、日体大、中京大などに進み、多くが主将等を務めている。
 監督としての一番の喜びは、「卒業生が結婚式に招待してくれること。また学校のプールに顔を出し、私に電話してきて近況を知らせてくれること」だと話す。
(沼朝平成20年11月15日(土)号)

  

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2008年11月15日

第51回沼津朝日賞:宍倉佐敏さん

第51回沼津朝日賞:宍倉佐敏さん
 繊維分析のエキスパート
 文化財の保存修復手掛け
 全国のどの製紙研究所でも難しいといわれる、全ての非木材繊維を判別する知識と経験を持つ、紙の繊維分析のエキスパート。現在、女子美大大学院非常勤講師を務め、繊維分析を専門に行う「宍倉ぺーパー・ラボ」を自宅に開設。日本鑑識学会会員として、全国の研究者や鑑識家に紙の見方などを講義している。
 宍倉さんは日大短大部経済学部を卒業後、特種製紙総合技術研究所の経理として勤務していたが、木材以外の製紙用植物繊維に興味を持ち、顕微鏡を買って自宅で独自
に研究を始め、半年後には研究員として迎えられた。
 以来、製紙用植物繊維の研究を中心に画材用紙、再生紙等の開発に携わり、リトグラフ用紙の機械による製造を全国で初めて実現させた。
 また、植物繊維の研究に合わせ、趣味で紙漉きに取り組み、材料となるトロロアオイや楮(こうぞ)を自宅で栽培し、紙作りを一から行う。
 退職後は、主に美術館等の依頼を受けて、文化財保存修復のための繊維分析分野で活躍。「JISの紙の試験法」の規格にない、宍倉さんが独自に開発した分析法で、JIS規格では六百本以上の繊維で約一㌢四方の紙片が必要になるが、宍倉さんの分析法では繊維十五-二十本という極微量の試料だけで何の繊維かを判別できるという。
 活躍の場は、もっぱら京都や東京で、重要文化財や国宝級の紙質の調査を手掛け現存する世界最古の印刷物として知られる「百万塔陀羅尼」、聖武天皇筆と伝えられる経典「賢愚経」の断簡(切れ切れになった書き物)「大聖武(おおじょうむ)」(奈良時代)、ピカソ晩年の自画像のキャンバス分析も行った。
 また、一昨年、著書「和紙の歴史」を出版。製紙用植物繊維の製法と原材料の変遷をテーマに、調査資料を基に解説。
 大学生や市内の子どもらに紙漉き指導を行っており、来年は沼津史談会で「郷土の紙の歴史」をテーマに講師を務めることも予定している。
 現在、完全には解明されていないという、奈良時代の紙を正確に再現することをライフワークとし、「長年の知識と経験を沼津のためにも役立てたい」と話している。
(沼朝平成20年11月15日(土)号)

  

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2008年11月15日

 第51回沼津朝日賞:佐藤英夫さん

 第51回沼津朝日賞:佐藤英夫さん
 地元先人の偉業を出版
 沼津縁の著者が執筆
 一九三七年一月一日、下河原に生まれた佐藤さんは、東高から法政大に進み、卒業後は東京、大阪、名古屋などでサラリーマン生活を送る。長男ということもあり沼津に戻り、本好きだったため六十八年、沼津駅北口前に「英文堂書店」を開業。
 本の販売だけでなく、出版に興味を抱き七五年、日本画家・志賀旦山さんの墨彩画集「駿河を描く」を発刊。その翌年、志賀さんが沼津の四十八景を描いた「郷土絵はがき沼津」を出した。
 自らも「駿河新書」として書籍の出版を手掛け八五年一月、駿河図書館館長を務めた辻真澄さんが書いた『江原素六』を発刊。同年二月、初代若山牧水記念館館長を務めた歌人上田治史著「若山牧水』、同十一月、東高校長などを務めた佐藤實さんの『輝け!青春』を出した。
 この「江原素六」は、江原翁が創立に関わった、現在名門私立として知られる麻布学園創立九十周年の記念品として、生徒や学校関係者らに配布された。
 間をおいて二〇〇四年五月には、佐藤さんが自ら編・著を担当した『井上靖青春期』を出版。出版にあたり大岡信さんは、「井上靖の青春時代を、同郷・同窓の人々の文章をちりばめながら、絵巻物を編むように辿った本。(中略)愛読者による井上靖伝ともいえる内容で、作家自身が見たら、感動して著者の手を握りしめるであろうと感じる」と推薦文を寄せている。
 佐藤さんは、地元の先人の大きな業績を地元の著者によって、地元の印刷で出版するなど意義ある活動を行った。資料として郷土の文化、歴史を知る上でも貴重なものとなっている。
 また、井上靖の長男、修一さんは「本書は沼津中学時代の父と仲間たちとの、生涯にわたる真摯な交友の記録である。溢れる自然と自由さの中から、やさしい不良少年たちが浮かび上がってくる」と文章を寄せている。
 沼津の文化が気掛かりな佐藤さんは、「沼津が全国にアピールできる歴史上の人物、根古屋に興国寺を建てた北条早雲を売り出さない手はない。NHKの大河ドラマに取り上げてもらうよう市が働き掛けできないものだろうか」と期待する。
(沼朝平成20年11月15日(土)号)
  

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