2011年05月26日

北藤吉男

日本棋院沼津支部の新支部長に就任した
 北藤吉男(きたふじよしお)さん(沼津市)
 7月で設立1周年を迎える日本棋院沼津支部の新支部長に就任した。日本棋院アマチュア四段を取得し、SBS学苑で講師を務める。沼津市岡一色。63歳。
 ー支部長としての意気込みは。
 「『年寄りの趣味』という印象を払しょくし、子どもや女性に囲碁の魅力を伝えたい。沼津市西浦木負が出身といわれる本因坊丈和を生かした囲碁イベントも考えている。囲碁の素晴らしさを沼津から全国に発信したい」
 ー囲碁の魅力は。
 「奥の深さ。白と黒の石のみを使ったシンプルな競技の中にいくつもの戦い方があり、決して飽きることはない。授業で囲碁を取り入れている大学もあり、頭の体操にもなる」
 ー指導で大切なことは。
 「せかして教えるのではなく、じっくり楽しみながら学べるように心掛けている。勉強ではなく生涯の趣味として、囲碁に親しんでほしい」
 ◇
1988年開催の県囲碁選手権大会で南駿地区代表に選ばれたことが一番の思い出。
【静新平成23年5月26日(木)「この人」】
  

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2011年05月24日

久保田雅博さん

沼津御用邸記念公園の管理事務所長
久保田雅博(くぼたまさひろ)さん(長泉町)
 皇室文化を広く一般に紹介するとともに、沼津市を代表する歴史的資産として1970年に開設された沼津御用邸記念公園。管理事務所長に就任し、3年目を迎えた。同市出身の62歳。
 ー公園の持つ特徴や魅力は。
 「栃木県の日光田母沢御用邸記念公園などと同様、多くの建物や敷地が維持、管理、公開されていて、全国的にも希少な施設だ。調度品には華美ではない品の良さがあり、四季を彩る自然も美しい」
 ー年間を通じて多様な催事を展開している。
 「『講話始』や『菊花展』など、皇室行事や国民の祝日、季節感に合わせたイベントを組んでいる。毎年少しずつ変化を加えながら、観光客や地域住民が御用邸を再訪する機会にしていきたい」
 ー公園が抱える今後の課題や展望は。
 「昨年度の来場者は約20万人と微増だったが、東日本大震災の発生以降は大きく減少しているのが現状だ。周辺の観光施設とも連携しながら、県東部全体での誘客を進めたい」

趣味のゴルフでストレスを発散する。
【静新平成23年5月24日(火)「この人」】
  

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2011年05月22日

長門裕之さん死去

俳優の長門裕之さん死去。
77歳 「太陽の季節」「狂った果実」「ミュージックフェア」の司会
2011.5.21 22:22(MNS産経ニュース)

 映画「太陽の季節」の主演など太陽族映画に出演し、妻の女優、南田洋子さん(平成21年死去)との「おしどり夫婦」として知られた俳優の長門裕之(ながと・ひろゆき、本名・加藤晃夫=かとう・あきお)さんが21日午後5時20分、東京都内の病院で死去した。77歳だった。葬儀日程などは未定。
 京都府出身。祖父は「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三、父は沢村国太郎、母はマキノ智子、叔父にマキノ雅弘という芸能一家に生まれた。弟は俳優、津川雅彦さん。6歳のころから子役で映画出演。日活に入社し、昭和30年に「七つボタン」に出演。太陽族映画で石原裕次郎と共演するなどして人気を集めた。今村昌平監督とのコンビで数々の印象深い作品を残した。昭和34年度、今村監督の「にあんちゃん」でブルーリボン主演男優賞、ホワイトブロンズ男優賞を受賞。
 昭和37年に独立後、映画のほか大映テレビ作品や2時間ドラマなどに出演、舞台でも活躍した。また「人間プロダクション」を設立して、後進の育成とドラマ制作にも取り組んだ。
 南田さんとペアで音楽番組「ミュージックフェア」の司会を16年間担当し、交通遺児奨学金のチャリティー活動も長年続けた。認知症になった南田さんの介護をつづった著書が、大きな反響を呼んだ。
 平成18年には津川さんがマキノ雅彦の名で初監督した「寝ずの番」に出演し話題に。19年のNHK連続テレビ小説「どんど晴れ」でも脇役を好演した。映画では「FLOWERS フラワーズ」(22年)が最後の出演となった。
  

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2011年05月21日

富井慎一選手

富井慎一氏

 富井(沼津学園高出)が五輪出場権 近代五種
 ロンドン五輪出場権を懸けた近代五種のアジア選手権は20日、中国の成都で行われ、男子で30歳の富井慎一選手(自衛隊、沼津学園高出)が4位となり、初の五輪出場を決めた。
【富井慎一(とみい・しんいち)沼津学園(現飛龍)高時代は競泳で活躍。03年に自衛隊入りして近代五種に転向した。07年全日本選手権優勝。10年広州アジア大会は6位。179㌢67㌔。30歳。愛知県出身。(共同)】
(静新平成23年5月21日朝刊)
  

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2011年05月18日

児玉清さん死去

児玉清さん死去…77歳、胃がん闘病2か月

 俳優の児玉清(こだま・きよし、本名・北川清=きたがわ・きよし)さんが16日午後0時28分、都内の病院で胃がんのため死去した。77歳だった。3月31日のテレビ朝日系クイズ番組「パネルクイズ アタック25」(日曜・後1時25分)の収録を「肝機能障害」を理由に欠席。以降、活動を見合わせていた。俳優としても「白い巨塔」「山河燃ゆ」「龍馬伝」などに出演し、人気を集めた。読書家でエッセーやコラムも手掛けるなど、多才だった。
 「アタックチャンス!」の掛け声でおなじみの名司会者が亡くなった。この日夜、都内の自宅で会見した長男で元俳優、モデルで、現会社員の北川大祐さん(41)によれば、児玉さんは2月下旬、「食欲がない」と体調不良を訴えた。
 3月上旬に検査でがんの疑いがあると診断され、中旬に胃がんと肝臓への転移も確認された。既に手術ができない状態で、抗がん剤治療をすることになった。

 最後の仕事は3月23日に収録したNHK BSプレミアムのPR用のミニ番組。同31日に予定されていた「パネルクイズ アタック25」の収録を欠席し、病院で治療に専念していた。しかし、14日に容体が急変し、15日に意識不明となった。最期は元女優で妻の好子さん(79)、大祐さんらがみとったという。くしくも2002年には長女を胃がんで亡くしている。

 大祐さんは「立派な父でした。尊敬しています。本人は最後まで『早く仕事に復帰したい。やり残していることがある』と言っていました。がんであることも知っていたが、淡々と過ごしていた」と時に笑みさえ浮かべ、気丈に応対した。

 抗がん剤治療は体力が落ちたことから1回で終了。プロ級の腕前で作品集も出版したこともある「切り絵をしたい」と言っていたが、かなわなかった。

 児玉さんは1975年4月6日の番組開始から司会を務めており、収録欠席は84年10月放送分を虫垂炎で休んで以来2度目。これまで多少の体調不良で休むことはなかった。

 長身で二枚目の東宝の第13期ニューフェイスとして活躍した。学習院大の卒業式当日に母が急死し、大学院進学の道が断たれた。知人が気を利かして東宝ニューフェイスに応募し、義理立てのため、面接試験を受けた。何の準備もしていなかったため水着審査は下着で臨んだが、本人の気持ちとは裏腹に、その強心臓ぶりが評価された。

 61年に「別れて生きるときも」(堀川弘通監督)で司葉子の初恋の相手役に抜てきされ頭角を現し、67年に東宝を退社してフリーに転身。テレビに活躍の場を移し、TBS系「ありがとう」などで人気を集めた。フジテレビ系「白い巨塔」(78年)、NHK大河ドラマ「山河燃ゆ」「武田信玄」や、SMAP・木村拓哉(38)主演のフジテレビ系「HERO」に出演。最近では「龍馬伝」で福山雅治演じる坂本龍馬の父役で印象を残した。

 芸能界きっての読書家で、自宅には大きな書庫があったが、納まりきらず、部屋中が本の山だった。語学が堪能だったため、洋書は翻訳が待ちきれず原書で読んだ。91年にNHKから「週刊ブックレビュー」への出演オファーが届くと、大喜びした。エッセーやコラムも多数手掛けた。
(読売webnews)
  

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2011年05月15日

14歳で五輪金メダル 岩崎恭子さん

 14歳で五輪金メダル 岩崎恭子さん

 1992年夏のバルセロナ五輪でひとりの少女が日本中をわかせました。水泳女子200㍍平泳ぎで金メダルを取った沼津市出身の岩崎恭子さん(32)
は、当時まだ14歳になったばかりの沼津第五中学2年生でした。レース直後に正直な気持ちを口にした「今まで生きてきた中で、一番幸せです」とのコメントは、大きな話題になりました。
4月の日本選手権で2位になり、五輪代表に選ばれましたが、それほど期待はされていませんでした。平泳ぎは手足のかきのバランスがとても大事で、パワーだけで好記録は出せません。小がらな岩崎さんは大会前の合宿でこつをつかみ、大変身をとげたのです。
 決勝では世界記録を持っていた米国のアニタ・ノール選手をラストスパートで逆転。自己ベストを4秒以上もちぢめ、日本で最年少の五輪メダリストになりました。
 日本に帰った砦諸さんは長いスランプにおちいります。周囲のフィーバーも重荷でした。でも立ち直って96年アトランタ五輪に出場。結果は10位でしたが、人間としての成長を実感できたと後で語っています。
(静新平成23年5月15日「スポーツ偉人伝」)
  

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2011年05月15日

牧野ミヤさん

牧野ミヤさん
 子どもに読み聞かせ続け10年
一中を中心に活動する「紙ふうせん」
 芹沢作品選ぶメンバーも 特別な縁持つ牧野ミヤさん

 読み聞かせグループ「紙ふうせん」(笠井幸子代表)が、一中(森雅宏校長)を中心に読み聞かせの活動を行っている。同校では毎朝、授業開始前に二十分間の読書の時間を設けており、同グループは、この時間を利用して月に二回、生徒に読み聞かせしているが、そうした活動も、開始以来、約十年
になる。
 読み聞かせに使う本は、グループのメンバーが各自で選んでいるが、その一人である西条町の牧野ミヤさん(72)は、沼津出身の作家、芹沢光治良の作品を中心に取り上げている。牧野さんには、芹沢との間に特別なつながりがあるからだ。
 牧野さんの父、端山登さん(故人)は、沼津町立尋常小学校(一小の前身)に在籍。その時、芹沢は代用教員として同校に勤務しており、登さんは芹沢の教え子だった。旧制沼津中学校(東高の前身)を卒業したばかりの芹沢は、高等学校進学の学費を得るために教員をしていて、勤務時間はわずかだったが、登さんにとっては強く印象に残った教師だった。
 牧野さんは、芹沢についての思い出を登さんから聞いている。
 芹沢は体育が苦手で、教えるのも苦手だったため、体育の授業になると決まって子ども達を千本浜に連れ出し、皆で遊ばせていたという。また、登さんは日中戦争で出征中、戦地から芹沢と書簡のやり取りをしていた。
 戦後、二人は意外な場面で再会する。それは、NHKが昭和三十年代から四十年代前半にかけて放送していたテレビ番組「私の秘密」の企画として。それが契機となって二人の親交は再開した。
 登さんは芹沢より先に他界したが、葬儀では芹沢から弔電が届いたという。
 牧野さんは、一中の生徒達に読み聞かせをする際に、中学生でも分かりやすく、二十分の制限時間内に収まるような作品を芹沢作品の中から選んでいるが、その中でも特に愛着があるのは「野の花」という短編小説。
 この作品は、沼津市(作中では「A市」)の市歌の選定委員として沼津にやってきた芹沢が、小学校時代の同級生の女子「岡島はる」と再会するという筋立て。実話に基づいており、主要な登場人物も仮名ではあるが、いずれも実在した人。
 その中の一人、岡林よしゑさん(故人)は、「岡島はる」の娘で、牧野さんの恩師。後に小学校長になる。
 芹沢の作品は入手が困難なことが多く、牧野さんは読み聞かせ用の作品を探すために市芹沢光治良記念館にたびたび足を運ぶなど、苦労も多いという。それでも芹沢作品の読み聞かせを続けるのは、芹沢との不思議な縁ばかりではなく、「郷土が生んだ偉大な作家のことを沼津の子ども達にもっと知ってもらいたい」という強い気持ちからでもあると、意欲的に話した。
(沼朝平成23年5月15日号)
  

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2011年05月13日

土屋直士(つちやなおし)さん

 摘果ミカンを使った「想酢」を発売
 土屋直士(つちやなおし)さん(沼津市)
 これまで使い道のなかった摘果ミカンの強い酸味と香りを生かした青島ミカン100%の酢「想酢(おもす)」を開発し、販売を開始した沼津市内浦重須地区の農事組合法人「おもす」の代表理事。61歳。
 ー開発を振り返って。
 「地元のミカン生産者と浜松市の調味料メーカー、東京のブライダル会社の3者による協同開発。それぞれの視点で意見を出し合い、微調整を繰り返すことで時間はかかったが、互いに刺激を受けて今までとは違う新しい商品が開発できた」
 ー完成した感想は。
 「違う分野の人間がタッグを組むことで、新たな可能性が生まれることが実感できた。今後も積極的に多種多様な分野との交流を深めて、開発、生産、販売の全ての面で相乗効果を図りつつ、地域活性化につなげたい」
 ー今後の展望は。
 「新しい商品でさらに新しい組み合わせに挑戦したい。アジの干物にしょうゆではなく想酢を付けたり、菓子などに酢の風味を生かすなど、新たな発見を追求したい」
 ◇
 趣味は読書とゴルフ。
(静新平成23年5月13日「この人」)
  

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2011年05月13日

戸田中学生

 沼津市立戸田中
 御浜海岸美化へ長年活動


 沼津市立戸田中は20年以上にわたり、"戸田の宝"として親しまれる御浜海岸の清掃を続けてきた。現在は、戸田小児童や園児、地元住民も参加する町の恒例行事「御浜交流」となり、地域をあげた環境美化活動として取り組まれている。
 清掃は毎年6月上旬に行い、幼、小、中学生が25人くらいの縦割り班に分かれて約400㍍の海岸の担当区域でごみを拾い集める。3年前からは、地引き網体験を通して背びれに毒があるオコゼの駆除にも取り組み始めた。海開きを前にした海水浴場の整備にもつながっている。
 生徒会役員として交流の整備を進める環境リポーターの中島悠希君(3年)、長島和輝君(2年)、吉田菜奈さん(2年)は「中学生が下級生をリードして今まで以上に積極的に取り組みたい」と話す。昨年約70人いた中学生が50人に減り、一人一人の役割は大きい。中島君は「ごみを種類別に分担して集めるなど、作業を効率化したい。児童や園児にも分かりやすく教えよう」と意気込んでいる。
 4月下旬、交流の下見として3人が訪れた海岸には、地元の人が捨てたと思われるたばこの吸い殻や瓶の破片、ビニール袋が目立った。長島君は「清掃するだけでなく、海岸がきれいに保てるようにしたい」と、地域への呼び掛けも考えている。
 吉田さんは以前から海岸を訪れるたびに「ごみ捨て場所が少ない」と感じていた。海岸は夏に大勢の海水浴客が訪れるだけでなく、住民も気軽に立ち寄る憩いの場。「利用者がごみを片付けやすくするだけでも効果があるはず」と提案した。
 海岸に続く松林と富士山、透き通った海を望む美しい御浜をいつまでも残してきたいという3人。「ポイ捨てをしない、気づいた人がごみを拾うなど、いつか御浜交流の清掃が必要ないくらい、小さな心掛けが広がってほしい」と口をそろえた。
(静新平成23年5月13日朝刊)
  

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