2023年06月22日

 牛尾治朗さん死去 ウシオ電滊創業社元同友会代表幹事92歳

 牛尾治朗さん死去
ウシオ電滊創業社元同友会代表幹事92歳
 元経済同友会代表幹事でウシオ電機創業者の牛尾治朗(うしお・じろう)さんが13日午前2時55分、誤嚥(こえん)性肺炎のため死去した。92歳。兵庫県出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行った。後日お別れの会を行う予定。
 1953年に東京大法学部を卒業し、東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行。64年にウシオ電機を設立して社長、69年には日本青年会議所会頭に就任するなど、若手財界人のホープとして注目された。政府税制調査会などで財界きっての理論家として活躍した。
 リクルート事件で未公開株譲り受けの責任を取り、88年に経済同友会の副代表幹事を辞任、財界活動から身を引いた時期もあったが、95年から99年は経済同友会の代表幹事を務め、規制緩和による民間主導の経済への転換を主張した。
 2000年にはKDDとDDIなどが合併して発足したKDDIの会長に就任。当時の小泉純一郎首相のブレーンとして、政府の経済財政諮問会議で民間議員を務めた。故安倍晋三元首相とも親交が深かった。
 03年に社会経済生産性本部(現・日本生産性本部)の会長に、06年にはその後民営化した日本郵政の取締役に就任した。東日本大震災後には当時、国際協力機構(JICA)理事長だった故緒方貞子さんらとともに経済界、労働界などを横断する提言組織「日本アカデメイア」を設立して危機克服を訴えた。
 半世紀以上にわたって経営をけん引したウシオ電機の会長を20年5月に退き、同9月には取締役を退任した。
 同友会の新浪剛史代表幹事は21日「生涯をかけて改革に果敢に挑戦し続け、日本経済の発展に貢献された」と哀悼するコメントを発表した。日本経済がバブル崩壊後の不良債権問題とグローバル化に直面して大変革を迫られた時代に、民間活力を引き出す構造改革を強力に後押ししたと功績を振り返った。

 傍流ゆえに姿勢貫く

 牛尾治朗さん 土光臨調、小泉改革
評伝 13日死去した牛尾治朗さんは、半世紀を超えて政財界を結ぶ「回廊」の役割を果たした。若手の頃から三木武夫、大平正芳ら自民党実力者を囲む勉強会にいくつも参加してきた。
 当時のことを聞くと「若い頃から哲学が好きで生意気だった。青くさいのが好きな政治家がいたんだよ」と、はにかむような笑顔を見せた。
 東京大の学生時代から、陽明学者の安岡正篤に師事する一方で、サルトルを読みこなす。米西海岸に留学し、新興産業の力強さを知り、市場主義に目をひらかされた。
 日本興業銀行(現みずほ銀行)頭取だった中山素平氏に誘われ、経済同友会を舞台に活動した。重厚長大の大企業トップが支配する財界を「老害」と批判した度胸は、並大抵ではなかった。
 中堅企業の経営者だから財界では肩身が狭かったはずだが、「傍流」「異端」だったからこそ、長いものに巻かれることなく、改革志向を貫くことができたのだろう。
 土光敏夫氏が会長だった第2次臨時行政調査会では、改革に向けた議論を後退させないため「暴れ馬」の役割を担った。「全体をまとめる責任を負った土光さんが、僕には自由に発言させてくれた」という。
 牛尾さんが真価を発揮したのは小泉純一郎首相の時代だ。改革志向の小泉氏と波長が合ったのだろう。市場重視の政策や規制緩和を支持し、政権の人事なども水面下で相談を受けた。学者から政界入りした竹中平蔵氏の後ろ盾にもなった。
 安倍晋三氏とは縁戚関係にあり、最初に首相になった時には、財界人や経済学者を紹介することも多かった。しかし2012年の自民党総裁選に安倍氏が出馬した時は、自重を求める側に回り、第2次政権では、やや関係が遠のいたようだ。
 政財界の指導者を育てるのにも熱心だった。12年に亡くなった、りそなホールディングス会長の細谷英二氏への信頼は厚かった。政財官を集めた改革志向のフォーラムを二人三脚で準備し、現在の「令和臨調」につながる流れを生んだ。
 晩年は表舞台に姿を見せることはなくなった。それでも安倍政権で規制や農政の改革に関わった金丸恭文フユーチャー会長兼社長らが周囲に集った。
 財界主流と一線を画した牛尾さんの改革の歩みは、ベンチャー出身の経営者らを引きつけ、最後まで色あせることはなかった。
【静新令和5年6月22日(木)朝刊】
牛尾治朗
  

Posted by パイプ親父 at 09:56Comments(0)訃報

2023年06月12日

訃報 青木幹雄氏

訃報 青木幹雄氏
青木幹雄氏 訃報

内閣官房長官や自民党の参院議員会長などを務め、「参院のドン」とも呼ばれた青木幹雄氏が亡くなりました。89歳でした。
関係者によりますと、青木幹雄元官房長官がきのう亡くなりました。89歳でした。
青木氏は、竹下登元総理の秘書を務めた後、1986年の参議院選挙で初当選。1999年に小渕内閣で初入閣し、官房長官に就任しました。
翌2000年に当時の小渕総理が緊急入院し意識不明になった際には、首相臨時代理として内閣総辞職を判断しました。
その後も自民党の参議院幹事長や参院議員会長など要職を歴任し、小泉政権時代には小泉元総理を牽制しながらも支え続けたことで、参院自民党の人事・運営を掌握。「参院のドン」と呼ばれました。
2010年に政界を引退しましたが、その後も自民党内に大きな影響力を与えた政治家の一人です。(TBSWEBニュース)
  

Posted by パイプ親父 at 11:27Comments(0)訃報