2018年11月26日
貴景勝

貴景勝教えつなぐ 元貴乃花親方に勇姿
大相撲・部屋消滅で移籍、初V
大相撲九州場所で初優勝した小結貴景勝関にとって、激動の2カ月だった。入門時の師匠、元貴乃花親方(元横綱)の花田光司氏が10月1日に日本相撲協会を退職。貴乃花部屋の消滅で千賀ノ浦部屋に移った。「僕はこれまでの稽古で強くなった。負けたら何をしているんだという話になる」と周囲の騒がしさをよそに精進。礎を築いてくれた恩人に勇姿を届けた。
小学校4年生の時に貴乃花部屋の「子供相撲教室」に参加したのが角界入りを目指すきっかけだった。2014年秋場所の初土俵から、憧れの「平成の大横綱」によって心身を育まれた。普段は気さくな若者。土俵上では闘争心あふれる取り口とは対照的に表情を変えない。「相手に失礼。勝っておごらずという日本の武士道の精神です」と理由を説明。元貴乃花親方から美学も教わった。
徹底して鍛えられた下半身が馬力を生み出す。8月21日、元親万は夏巡業先の秋田市で倒れて救急搬送された。一時は意識を失ったが、容体が安定して問題ないことを関係者に伝え、弟子たちに相撲へ集中させた。貴景勝関は「親方が眠れているか心配はしたけど、力士は頑張るしかない」と意をくみ、四股を踏み続けた。
17年初場所の新入幕を機に変えたしこ名は、元貴乃花親方の尊敬ずる戦国武将、上杉謙信の後継者の景勝にちなむ。元親方は以前「私の意志を継いでほしい。負けても勝っても力士として誇らしく君臨してほしい」と思いを明かしていた。波乱の1年の締めくくり。22歳の若武者が教えをつなぎ、快挙を果たした。
【静新平成30年11月26日(月)朝刊】
2018年11月15日
柳内隆雄氏
静岡ターミナル開発沼津支店長
柳内(やない)隆(たか)雄(お)さん(沼津市)

JR沼津駅ビル「アントレ」の10年ぶりの大規模改装を主導した。2017年に書店などが入る2階を、18年は1階食品売り場を順次刷新し、10月19日にグランドオープンした。07年に百貨店大手からJRグループの同社に入り、15年7月から現職。53歳。
ー改装の狙いは。
「前回改装から10年が経過しハード、テナントの両面で顧客ニーズの変化に対応する必要が生じた。県東部の顔にふさわしい商業施設を目指してテナントを見直し、改装計画を立てた。地元との連携も徹底した」
ー18年度の改装は。
「市の協刀で観光案内所が入り、沼津港の有力水産会社が新規出店した。茶店の改装と併せ、1階入り口付近で特産物を扱うようにした。野菜、精肉、総菜、生花も地元業者をそろえ、外貨両替機も導入した」
ー完了後の手応えは、
「大勢のご来店があり、地元の方が待ち望んでくださっていたことがよく分かった。生鮮売り場の集中レジ化、地元産物をワンストップで買えることなどにお褒めの言葉をいただいた」
ー駅ビルの役割とは。
「街の顔であり、日常生活、ビジネス、観光などのさまざまな場面がスタートする場所だ。これからも市民に支持していただけるよう、品ぞろえとサービスの深化に努めたい」
◇
好きなビール銘柄は、大学の卒業論文で取り上げた「スーパードライ」。
【静新平成30年11月15日(木)「この人」】
柳内(やない)隆(たか)雄(お)さん(沼津市)

JR沼津駅ビル「アントレ」の10年ぶりの大規模改装を主導した。2017年に書店などが入る2階を、18年は1階食品売り場を順次刷新し、10月19日にグランドオープンした。07年に百貨店大手からJRグループの同社に入り、15年7月から現職。53歳。
ー改装の狙いは。
「前回改装から10年が経過しハード、テナントの両面で顧客ニーズの変化に対応する必要が生じた。県東部の顔にふさわしい商業施設を目指してテナントを見直し、改装計画を立てた。地元との連携も徹底した」
ー18年度の改装は。
「市の協刀で観光案内所が入り、沼津港の有力水産会社が新規出店した。茶店の改装と併せ、1階入り口付近で特産物を扱うようにした。野菜、精肉、総菜、生花も地元業者をそろえ、外貨両替機も導入した」
ー完了後の手応えは、
「大勢のご来店があり、地元の方が待ち望んでくださっていたことがよく分かった。生鮮売り場の集中レジ化、地元産物をワンストップで買えることなどにお褒めの言葉をいただいた」
ー駅ビルの役割とは。
「街の顔であり、日常生活、ビジネス、観光などのさまざまな場面がスタートする場所だ。これからも市民に支持していただけるよう、品ぞろえとサービスの深化に努めたい」
◇
好きなビール銘柄は、大学の卒業論文で取り上げた「スーパードライ」。
【静新平成30年11月15日(木)「この人」】
2018年11月09日
勸山弘師が死去 99歳 アイバンク運動に半生捧げる
勸山弘師が死去 99歳
アイバンク運動に半生捧げる

勸山弘師(すすやま・ひろむ=真宗大谷派勧山=かんざん=眞楽寺前住職、NPO法人日本アイバンク運動推進協議会最高顧問)は七日午前十時、自坊で死去。同日夜、献眼した。99歳。自坊は末広町一七〇。
通夜が十三日午後七時から、葬儀が十四日午前十時半から、いずれも真楽寺で行われる。喪主は長男で同寺住職の光明師。
勸山師は、昭和十九(一九四四)年、二十四歳で住職に就任。直後に応召し、中国を転戦して終戦を迎えた後、八カ月間の収容所生活を送り帰国した。
空襲で灰燼に帰した寺の復興に努めながら仮本堂で始めたのが、後に「真楽寺みのりの会」となる「婦人法話会」。みのりの会は六十六年間、七百二十九回を重ね、平成二十六(二〇一四)年八月、九十五歳を機に退任することになった住職として最後の法話を行い、光明師に引き継いだ。
また、昭和五十五(一九八〇)年十一月には「テレフォン説法」がスタート。法話を留守番電話に吹き込み、人の生き方の指針として示唆を与え、みのりの会の講師退任後も続けた。この説法は「読むテレフォン説法」として印刷物となり、小山町まで新聞折り込みで配達された。
一方、昭和三十九(一九六四)年、檀家の通夜で、通夜経を終えた後、献眼のための眼球摘出手術が行われるのを目の当たりにし、一人の角膜で二人の失明者に光を与えられることに感動。自身がメンバーだった沼津ライオンズクラブに申し入れ、同クラブの社会奉仕活動の一つとしてアイバンク運動がスタートした。
初めて献眼した時の驚きについて勸山師は、その後の講演などで、「医者の後に坊主が行くなら分かるが、坊主がお経を終えた後に医者が来るとは」といった語り口で、自身が開眼した様子を語っている。
昭和四十(一九六五)年に日本アイバンク協会が設立されるが、勸山師は家族三人で献眼登録し、以来、半世紀余にわたって日本のアイバンク運動の先頭に立って獅子奮迅。数多くの講演もこなしながら、各方面に献眼登録を呼びかけた。
そうした活動の中、昭和五十四(一九七九)年の「国際児童年」には、献眼先進国として交流していたスリランカに交渉して二百眼の握供を受け、百二十一人の子どもが光を取り戻した。
さらに、中国でのアイバンク運動普及に尽力。平成二(一九九〇)年、中国初のアイバンクが設立される一端を担い、日中友好の架け橋にもなった。
こうした活動が認められ、二十一(二〇〇九)年には、健全な社会と地域社会、国民のクオリティ・オブ・ライフの向上に貢献した人を称える、ジョンソン・エンド・ジョンソングループと日本看護協会による「ヘルシー・ソサエティ賞」のボランティア部門(国際)で受賞。賞金一千万円は日本赤十字社に寄付した。
また、日本アイバンク協会が同年に創設した、国内の角膜移植医療実践及びアイバンク活動の推進に著しい貢献をした人や団体を表彰する「今泉賞」の個人の部で初代の受賞者となった。
さらに平成二十七(二〇一五)年春の叙勲で、「旭日双光章」を業界等からではなく一般受章したが、アイバンク運動関係での受章も初めてだった。
住職退任後も、アイバンク運動の全国大会などでの講演を続け、人生の半分をアイバンク運動に捧げた。
勸山師は生前、「献眼の根本精神は『持てるもの人のために』。ないものを求めているわけではなく、自分が使わなくなる角膜を提供することで、二人に光が戻る。やろうと思えば誰でもできることで、二人の人の人生を変え、そして亡くなった人の角膜も二人を通じて生き続ける」と説いた。
日本アイバンク運動推進協議会では総裁を務め、このほか公職として、市教育委員長、静岡家裁調停委員、県公安委員長、県仏教会会長などを歴任。
沼津朝日賞を受賞、選考委員も務めた。
【沼朝平成30年11月9日(金)号】

勧山弘さん死去
99歳 献眼運動全国拡大 沼津で開始

故人の角膜提供を呼び掛ける献眼登録運動を全国に広めた沼津市の真楽寺前住職でNPO法人日本アイバンク運動推進協議会最高顧問の勧山弘(すすやま・ひろむ)氏が7日、老衰のため同市の自宅で死去していたことが8日、分かった。99歳。同市出身。自宅は同市末広町170の真楽寺。通夜は13日午後7時から、葬儀は14日午前10時半から真楽寺で。喪主は長男光明(こうみょう)氏。
25歳で真楽寺住職に就任。1964年、通夜を執り行った際に献眼手術に立ち会ったことで献眼への理解促進の必要性を感じ、当時会長を務めていた沼津ライオンズクラブ(LC)を中心に献眼運動を開始した。71年には第1回アイバンク運動全国大会を同市で開催、全国のLCと連動して活動を広げた。
2017年に同市で開かれた第40回日本アイバンク運動推進協議会全国大会でも講演に立つなど、直近まで先頭に立って「失明者に光を」と呼び掛けた。自身も7日に献眼した。沼津市教育委員長や県公安委員長なども歴任。15年春の叙勲で旭日双光章を受章した。
県アイバンク理事長の堀田喜裕浜松医科大教授は「説得力のある言葉で献眼の意義を語り、活動をけん引していただいた。県内の献眼登録者が国内で突出していることは誇り」と故人の功績を語った。沼津ライオンズクラブの小原嘉弘会長は「今の活動があるのは、長年にわたって信念を貫いた勧山氏のおかげ」と話した。
【静新平成30年11月9日(金)朝刊】
アイバンク運動に半生捧げる

勸山弘師(すすやま・ひろむ=真宗大谷派勧山=かんざん=眞楽寺前住職、NPO法人日本アイバンク運動推進協議会最高顧問)は七日午前十時、自坊で死去。同日夜、献眼した。99歳。自坊は末広町一七〇。
通夜が十三日午後七時から、葬儀が十四日午前十時半から、いずれも真楽寺で行われる。喪主は長男で同寺住職の光明師。
勸山師は、昭和十九(一九四四)年、二十四歳で住職に就任。直後に応召し、中国を転戦して終戦を迎えた後、八カ月間の収容所生活を送り帰国した。
空襲で灰燼に帰した寺の復興に努めながら仮本堂で始めたのが、後に「真楽寺みのりの会」となる「婦人法話会」。みのりの会は六十六年間、七百二十九回を重ね、平成二十六(二〇一四)年八月、九十五歳を機に退任することになった住職として最後の法話を行い、光明師に引き継いだ。
また、昭和五十五(一九八〇)年十一月には「テレフォン説法」がスタート。法話を留守番電話に吹き込み、人の生き方の指針として示唆を与え、みのりの会の講師退任後も続けた。この説法は「読むテレフォン説法」として印刷物となり、小山町まで新聞折り込みで配達された。
一方、昭和三十九(一九六四)年、檀家の通夜で、通夜経を終えた後、献眼のための眼球摘出手術が行われるのを目の当たりにし、一人の角膜で二人の失明者に光を与えられることに感動。自身がメンバーだった沼津ライオンズクラブに申し入れ、同クラブの社会奉仕活動の一つとしてアイバンク運動がスタートした。
初めて献眼した時の驚きについて勸山師は、その後の講演などで、「医者の後に坊主が行くなら分かるが、坊主がお経を終えた後に医者が来るとは」といった語り口で、自身が開眼した様子を語っている。
昭和四十(一九六五)年に日本アイバンク協会が設立されるが、勸山師は家族三人で献眼登録し、以来、半世紀余にわたって日本のアイバンク運動の先頭に立って獅子奮迅。数多くの講演もこなしながら、各方面に献眼登録を呼びかけた。
そうした活動の中、昭和五十四(一九七九)年の「国際児童年」には、献眼先進国として交流していたスリランカに交渉して二百眼の握供を受け、百二十一人の子どもが光を取り戻した。
さらに、中国でのアイバンク運動普及に尽力。平成二(一九九〇)年、中国初のアイバンクが設立される一端を担い、日中友好の架け橋にもなった。
こうした活動が認められ、二十一(二〇〇九)年には、健全な社会と地域社会、国民のクオリティ・オブ・ライフの向上に貢献した人を称える、ジョンソン・エンド・ジョンソングループと日本看護協会による「ヘルシー・ソサエティ賞」のボランティア部門(国際)で受賞。賞金一千万円は日本赤十字社に寄付した。
また、日本アイバンク協会が同年に創設した、国内の角膜移植医療実践及びアイバンク活動の推進に著しい貢献をした人や団体を表彰する「今泉賞」の個人の部で初代の受賞者となった。
さらに平成二十七(二〇一五)年春の叙勲で、「旭日双光章」を業界等からではなく一般受章したが、アイバンク運動関係での受章も初めてだった。
住職退任後も、アイバンク運動の全国大会などでの講演を続け、人生の半分をアイバンク運動に捧げた。
勸山師は生前、「献眼の根本精神は『持てるもの人のために』。ないものを求めているわけではなく、自分が使わなくなる角膜を提供することで、二人に光が戻る。やろうと思えば誰でもできることで、二人の人の人生を変え、そして亡くなった人の角膜も二人を通じて生き続ける」と説いた。
日本アイバンク運動推進協議会では総裁を務め、このほか公職として、市教育委員長、静岡家裁調停委員、県公安委員長、県仏教会会長などを歴任。
沼津朝日賞を受賞、選考委員も務めた。
【沼朝平成30年11月9日(金)号】

勧山弘さん死去
99歳 献眼運動全国拡大 沼津で開始

故人の角膜提供を呼び掛ける献眼登録運動を全国に広めた沼津市の真楽寺前住職でNPO法人日本アイバンク運動推進協議会最高顧問の勧山弘(すすやま・ひろむ)氏が7日、老衰のため同市の自宅で死去していたことが8日、分かった。99歳。同市出身。自宅は同市末広町170の真楽寺。通夜は13日午後7時から、葬儀は14日午前10時半から真楽寺で。喪主は長男光明(こうみょう)氏。
25歳で真楽寺住職に就任。1964年、通夜を執り行った際に献眼手術に立ち会ったことで献眼への理解促進の必要性を感じ、当時会長を務めていた沼津ライオンズクラブ(LC)を中心に献眼運動を開始した。71年には第1回アイバンク運動全国大会を同市で開催、全国のLCと連動して活動を広げた。
2017年に同市で開かれた第40回日本アイバンク運動推進協議会全国大会でも講演に立つなど、直近まで先頭に立って「失明者に光を」と呼び掛けた。自身も7日に献眼した。沼津市教育委員長や県公安委員長なども歴任。15年春の叙勲で旭日双光章を受章した。
県アイバンク理事長の堀田喜裕浜松医科大教授は「説得力のある言葉で献眼の意義を語り、活動をけん引していただいた。県内の献眼登録者が国内で突出していることは誇り」と故人の功績を語った。沼津ライオンズクラブの小原嘉弘会長は「今の活動があるのは、長年にわたって信念を貫いた勧山氏のおかげ」と話した。
【静新平成30年11月9日(金)朝刊】
2018年11月04日
長部日出雄さんを悼む 清原康正

長部日出雄さんを悼む 清原康正
根底に故郷津軽の風土
長部日出雄は1934年9月3日に青森県弘前市で生まれ、73年に「津軽じょんから節」「津軽世去れ節」で第69回直木賞を受賞した。
歴史小説の長編作に「津軽風雲録」「源義経」「密使支倉常長」「まだ見ぬ故郷高山右近の生涯」などがある。「わが名は新門辰五郎」「禁酒安兵衛」などのユーモア時代小説もあるが、現代小説や芸人小説に評伝小説と幅広いジャンルにわたって活躍してきた。
映画にも詳しく、映画に関する評論やエッセーも手がけるとともに、映画「夢の祭り」では自ら監督・脚本にあたった。また一方では、「古事記とは何か 稗田阿礼はかく語りき」「『古事記』の真実」などで古代史への関心の深さを示した。
小説に関していえば、直木賞受賞作にすでに津軽の風土を自らのフランチャイズ(本拠地)とする文学的姿勢が表れていたのだが、津軽の方言を交えつつ、土俗的な味わいをたっぷりと盛り込んだ傑作が「津軽風雲録」であった。直木賞受賞の翌年に「小説現代」に連載された弘前藩祖・津軽為信の生涯を描いた長編である。
権謀術数の限りを尽くして戦国の世を荒々しく生き抜いた津軽為信とその直属の家臣たちを"ならず者"と規定して、彼らの奔放な活躍ぶりを描き出したところに特色がある。
津軽から南部氏の勢力を一掃した為信は、その後、豊臣秀吉から徳川家康へと天下の覇者が代わっていく中で、津軽の支配権をずぶとく守っていった。
津軽の戦国時代という異色の題材だが、長部日出雄は空想の赴くままに筆を執りつつも、地方史の文献に細かく目を通して、野性味あふれる作品に仕上げている。この特色はその後の時代・歴史小説にも見受けられるものだ。
こうした津軽ものと、評伝「鬼が来た棟方志功伝」「桜桃とキリストもう一つの太宰治伝」、そしてエッセー集「津軽空想旅行」などから、故郷に寄せる熱い思いをくみ取ることができる。長部日出雄の根底には津軽の風土が確固と根づいていたのだ。東北・津軽から日本社会を見つめることができる冷徹な目を持った作家であった。(文芸評論家)
◇
長部日出雄さんは10月18日死去、84歳。
【静新平成30年11月3日(金)夕刊】