2018年05月19日
神国思想へ国民教化 全体主義維新に遠因 島薗進氏(上智大教授)
神国思想へ国民教化 全体主義維新に遠因
島薗進氏(上智大教授)

しまその・すすむ1948年東京都生まれ。東京大卒。東京大教授を経て2013年から現職。上智大グリーフケア研究所長。元日本宗教学会長。著書に「国家神道と日本人」など。
「日本は神の国」という思想を背景に明治政府は、天皇中心の国家を目指した。その体制はなぜつくられ、何をもたらしたのか。日本宗教史を専門とする上智大の島薗進教授に聞いた。
19世紀に入ると西洋諸国の船が頻繁に近海にも出没する。アジア各地の植民地化が進み国内に危機感が広がった。そこで「華夷(かい)思想」、中国王朝が世界の中心という発想に倣った「尊王攘夷(じょうい)」の考えがつくられた。
さらに万世一系の天皇が治め、王権の源が神的なものにさかのぼれるこの国は神国で特別という「国体論」も志士らに支持された。王権が交代する中国に勝るとの発想が、キリスト教を持ち込む欧米に対抗するためのビジョンとなる。これが明治維新の原動力の一つになりました。
〈江戸幕府を倒した明治政府は「王政復古」「祭政一致」を掲げ、当時の庶民には遠い存在だった天皇を中心とした国つくりを始め、神道を一種の国教とした〉
長州や薩摩などの藩閥勢力が天皇の権威を使ってクーデターをしたように外からは見える。そこで倒幕の大義名分が必要となり、国体論などに基づき天皇による直接統治の復活を掲げた。
近代国家として列強に対抗するには、神聖な国家に命をささげるという武士的忠誠が国民に求められた。国家神道を通じて、神や祖先を祭る「祭祀(さいし)」をつかさどる天皇への崇敬が国民に行き渡るという「上から」の統合を目指しました。
新しい皇室祭祀が次々と定められ、それに合わせ国民の祝祭日も決めた。学校などでお祝いしたり、天皇が各地を巡幸したりして崇拝が進む。ただ、江戸時代の寺院の代わりに神社を使い国民を教化することは、神仏分離への抵抗が大きく諦め、学校を通じ天皇崇敬を育む方策が導入された。
〈1890(明治23)年に忠君愛国主義と儒教的道徳を内容とする教育勅語が発布される。西洋流の教育を進めていた学校では、キリスト教のような精神的な基盤が乏しい日本国民にあった道徳教育を求めていた〉
教育勅語は、神の子孫からの聖なる教えです。学校の修身の授業などで使われ、天皇の御真影と合わせ神聖なものとして学校生活の要所要所で礼拝し、教えを守るという姿勢を取らされました。
国民たちに刷り込み、絶対的な命令者である天皇と、従うべき臣民の関係をつくつた。家来が主君に命を懸ける武士の主従関係を、天皇と全国民に当てはめたと言える。
1912年に明治天皇が亡くなり陸軍大将の乃木希典夫婦が自殺する。民衆は明治天皇の個人崇拝に向かい、乃木大将の死を殉死と礼賛した。教育勅語による国民の教化によって、「神聖な国家」に救いを求める宗教ナショナリズムが起こり、それに日清、日露両戦争の勝利を通じての国粋主義が加わって、国民が「下から」国家を揺り動かすことになる。
〈大正デモクラシーの時代には、人類はどこに向かうのかといつた普遍的な思想を求め悩む「煩悶(はんもん)青年」らも、神聖な天皇を理念化する国体思想に救いを求める〉
仏法に基づき正しい国をつくる「日蓮主義」や大本教など宗教側も、国民の天皇信仰が高まるにつれ国体論や国家神道を取り込んでいった。
満州事変を起こした石原莞爾も、命を懸け戦うことを農民兵士にどう納得してもらうのか悩んだ末、「世界を一つの家にする」という「八紘一宇」のスローガンを掲げる日蓮主義にひかれる。
昭和に入ると、治安維持法が国体論に背くものを取り締まった。「天皇を神聖と掲げない者」と扇動家が攻撃すれば国民が同調し、政党やメディアが追従する。明治憲法の解釈として定着していた天皇機関説が「国体に反する」と攻撃されたのが典型で、知識層も転向させられていった。
この国は国体一色、全体主義になっていく。戦争遂行のため軍部や右派論客が極端な天皇崇敬に向かわざるを得ない方向に世論を誘導し、天皇のため全国民に命をささげる覚悟を強いるという、維新の元勲が想像できなかった事態が敗戦まで続く。
国体論を日本の精神文化とみて過剰に美化する人もいるが、この失敗を振り返り、学びと反省につなげなければならない。
【静新平成30年5月19日(土)「明治150年の軌跡」】
島薗進氏(上智大教授)

しまその・すすむ1948年東京都生まれ。東京大卒。東京大教授を経て2013年から現職。上智大グリーフケア研究所長。元日本宗教学会長。著書に「国家神道と日本人」など。
「日本は神の国」という思想を背景に明治政府は、天皇中心の国家を目指した。その体制はなぜつくられ、何をもたらしたのか。日本宗教史を専門とする上智大の島薗進教授に聞いた。
19世紀に入ると西洋諸国の船が頻繁に近海にも出没する。アジア各地の植民地化が進み国内に危機感が広がった。そこで「華夷(かい)思想」、中国王朝が世界の中心という発想に倣った「尊王攘夷(じょうい)」の考えがつくられた。
さらに万世一系の天皇が治め、王権の源が神的なものにさかのぼれるこの国は神国で特別という「国体論」も志士らに支持された。王権が交代する中国に勝るとの発想が、キリスト教を持ち込む欧米に対抗するためのビジョンとなる。これが明治維新の原動力の一つになりました。
〈江戸幕府を倒した明治政府は「王政復古」「祭政一致」を掲げ、当時の庶民には遠い存在だった天皇を中心とした国つくりを始め、神道を一種の国教とした〉
長州や薩摩などの藩閥勢力が天皇の権威を使ってクーデターをしたように外からは見える。そこで倒幕の大義名分が必要となり、国体論などに基づき天皇による直接統治の復活を掲げた。
近代国家として列強に対抗するには、神聖な国家に命をささげるという武士的忠誠が国民に求められた。国家神道を通じて、神や祖先を祭る「祭祀(さいし)」をつかさどる天皇への崇敬が国民に行き渡るという「上から」の統合を目指しました。
新しい皇室祭祀が次々と定められ、それに合わせ国民の祝祭日も決めた。学校などでお祝いしたり、天皇が各地を巡幸したりして崇拝が進む。ただ、江戸時代の寺院の代わりに神社を使い国民を教化することは、神仏分離への抵抗が大きく諦め、学校を通じ天皇崇敬を育む方策が導入された。
〈1890(明治23)年に忠君愛国主義と儒教的道徳を内容とする教育勅語が発布される。西洋流の教育を進めていた学校では、キリスト教のような精神的な基盤が乏しい日本国民にあった道徳教育を求めていた〉
教育勅語は、神の子孫からの聖なる教えです。学校の修身の授業などで使われ、天皇の御真影と合わせ神聖なものとして学校生活の要所要所で礼拝し、教えを守るという姿勢を取らされました。
国民たちに刷り込み、絶対的な命令者である天皇と、従うべき臣民の関係をつくつた。家来が主君に命を懸ける武士の主従関係を、天皇と全国民に当てはめたと言える。
1912年に明治天皇が亡くなり陸軍大将の乃木希典夫婦が自殺する。民衆は明治天皇の個人崇拝に向かい、乃木大将の死を殉死と礼賛した。教育勅語による国民の教化によって、「神聖な国家」に救いを求める宗教ナショナリズムが起こり、それに日清、日露両戦争の勝利を通じての国粋主義が加わって、国民が「下から」国家を揺り動かすことになる。
〈大正デモクラシーの時代には、人類はどこに向かうのかといつた普遍的な思想を求め悩む「煩悶(はんもん)青年」らも、神聖な天皇を理念化する国体思想に救いを求める〉
仏法に基づき正しい国をつくる「日蓮主義」や大本教など宗教側も、国民の天皇信仰が高まるにつれ国体論や国家神道を取り込んでいった。
満州事変を起こした石原莞爾も、命を懸け戦うことを農民兵士にどう納得してもらうのか悩んだ末、「世界を一つの家にする」という「八紘一宇」のスローガンを掲げる日蓮主義にひかれる。
昭和に入ると、治安維持法が国体論に背くものを取り締まった。「天皇を神聖と掲げない者」と扇動家が攻撃すれば国民が同調し、政党やメディアが追従する。明治憲法の解釈として定着していた天皇機関説が「国体に反する」と攻撃されたのが典型で、知識層も転向させられていった。
この国は国体一色、全体主義になっていく。戦争遂行のため軍部や右派論客が極端な天皇崇敬に向かわざるを得ない方向に世論を誘導し、天皇のため全国民に命をささげる覚悟を強いるという、維新の元勲が想像できなかった事態が敗戦まで続く。
国体論を日本の精神文化とみて過剰に美化する人もいるが、この失敗を振り返り、学びと反省につなげなければならない。
【静新平成30年5月19日(土)「明治150年の軌跡」】