2008年11月21日

名取栄一翁:1

名取栄一翁伝 
名取栄一翁:1 【名取栄一】明治6ー昭和33(1873ー1958)年。山梨県中巨摩郡生まれ。14歳の時、繭仲買の父の招きで御殿場に転住。翌年沼津に。名取商会を創設、沼津信用金庫初代理事長。昭和15年沼津市長

没後50年足跡は今:1
「沼津に築いた製糸産業」 全国有数の繭市場に
 車が激しく行き交う国道414号沿いに立つ沼津市三枚橋町の市立図書館。ここに日本の繭相場を支配した市場があったことを知る人は今は、もう少ない。
 山梨県出身の名取栄一=以降、名取翁=は大正五(一九一六)年、名取商会「沼津繭市場」を沼津駅前に開設(昭和二年、三枚橋に移転)した。先行していた松崎市場との激しい競争を経て、全国相場を左右する市場に急成長させた。
名取栄一翁:1 名取栄一翁伝記は繁栄ぶりをこう記す。「初取引には新聞記者が詰め掛け、結果は全国に報道、あるいは直接横浜の貿易業者に打電された。名取市場は世界中にその名を知られるようになった」
 名取翁は繭市場を興すとともに製糸企業の誘致にも精力的に取り組んだ。「千人挽(ひ)き規模」(沼津市史)などの大規模拠点が沼津繭市場の成長と合わせ計画され、四工場が進出した。
 製糸企業の労務人事担当だった父と幼少時、長野県から沼津に転居してきた沼津信用金庫の堀田大洋専務(六五)は、「長野などから今日は三十人、次は何人と働く人たちを連れてきたと聞いた」と記憶する。
 大正四年から十一年の七年間で沼津の人口は67%増えた。同期間に県が5%増だったことを見れば、企業誘致による人口増の大きさが分かる。
 だが、世界恐慌が日本の製糸業に致命的打撃となった。沼津繭市場も昭和九年、強制合併を余儀なくされ
た。名取翁は実質的に経営に携わったが、戦時統制経済下の十三年、第一線から退いた。
 戦後まで生き残った大製糸工場もやがて相次ぎ閉鎖。このうち二工場の跡には西友、イトーヨーカドーの大型商業施設がそれぞれ立地している。
 「ようやく名取商会出身の名に恥じない会社になれた」。精密板金加工で高度な技術を持つ沼津市の安田製作所社長安田忠博さん(六〇)は、創業者の父・忠雄さんが生前、名取翁が創設、した沼津信用金庫との取引開始を、こう喜んでいたことを懐かしむ。
 名取商会で働き、「名取翁の秘蔵っ子」を自負していた忠雄さんの鉄工所が軌道に乗ったのは四十年代。「それまでどんな苦しい時も沼津信金を頼らなかった。そのくらい名取に対する思い入れが強かった」と忠博社長は振り返る。沼津繭市場を中心に名取翁が築いた産業を、直接引き継ぐ企業は沼津に残されていない。だが、起業精神は受け継がれる。

 沼津繭市場や沼津信用金庫を創設、県政史上唯一の首相石橋湛山を静岡の選挙区に招いた明治から戦後の沼津政財界の重鎮、名取栄一が今月、没後五十年を迎えた。ひ孫の名取正純沼津ヤナセ社長が所有する原稿「名取栄一翁伝記」(未出版)を見ながら、名取翁の足跡と今を探った。(東部総局・海野俊也が担当します)
(静新平成20年11月21日「名取栄一翁伝」)


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Posted by パイプ親父 at 11:33│Comments(0)歴史上の人物
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