2008年07月30日

佐々木純氏

損保ジャパン静岡支店沼津支社長
佐々木純氏(ささきじゅん)(41)
「最適保険地域に提供」
 ー損害保険を通じ、県東部地域の経済環境をどうみますか。
 「二〇〇七年度の自動車保有台数の対前年比は、県全体で減少に転じたが、中でも沼津市は九百七十九台(0・6%)減と最も下げ幅が大きい。現場感覚でも増車計画がある企業は少なく、息子に新車をというような個人客も減っている。自動車保険が主力商品の損保としては厳しい。さらに、住宅着工も沼津市は二割近く減少し、火災保険の市場も伸びていない。景気減退を感じる」
 ー損保会社として、どう地域に貢献しますか。
 「代理店を通じ、最適な保険を提供していく。法人は適切な保険をかけぬまま事故を起こせば、経営に大きく影響する。企業サポートに力を入れる。社員の交通事故抑制は企業のコスト削減に有効だ。たとえば三年間無事故なら保険料は半減するケースが多い。損保ジャパンは危険予測診断など事故防止に向けたメニューを提案している。初心者や自己流の運転が身に付いてしまったドライバーの実技訓練ができるよう、沼津市内の自動車学校とも提携した」
 ー県、市が沼津駅北に整備を予定するコンベンションセンターに、どんな機能を期待しますか。
 「沼津に赴任して三年目となるが、自然環境に恵まれている上、技能五輪国際大会では地域の技術力を再認識した。歴史遺産やゆかりの文学者も多い。コンベンションは集客とともに、伊豆東部観光の入り口として情報発信機能を充実させてほしい」
 【損保ジャパン静岡支店沼津支社】02年に安田火災海上、日産火災海上、大成火災海上が統合し、損保ジャパンに。支社の営業エリアは沼津市内。職員21人、代理店130店。沼津市大手町(上本通り)
(静新平成20年7月30日「熱き地域人」)
  

Posted by パイプ親父 at 10:52Comments(0)熱き人たち

2008年07月30日

野茂英雄投手

野茂投手、現役引退へ
 【ニューヨーク17日共同】日本人選手の米大リーグ進出の実質的な先駆けとなり、日本と大リーグで通算201勝(155敗)を挙げた野茂英雄投手(三九)が現役引退の決意を固めたことが十七日、分かった。ことし四月にロイヤルズを自由契約となった後も獲得に乗り出す球団はなく「まだまだやりたい気持ちが強いが、プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思う」と語った。=関連記事11、26面へ
 野茂投手は今季、キャンプにマイナー契約の招待選手として参加し、開幕直後に三年ぶりのメジヤー昇格を果たした。しかし、好結果を残せず四月二十日に戦力外通告された。
 野茂投手は、ドラフト1位で一九九〇年に近鉄入り。一年目に最優秀選手などを獲得。独特の投球フォームから「トルネード投法」と呼ばれた。
 九五年にドジャースに入団、六四、六五年の村上雅則投手(当時ジャイアンツ)に次いで日本選手として二人目の大リーガーとなった。速球とフォークボールを武器にオールスター戦先発など一年目から大活躍し、ストライキの影響で関心が失われていた大リーグの人気回復に貢献。「ノモマニア」と呼ばれる熱狂的なファンも生まれ、新人王に選ばれた。
 また、ナショナル、アメリカン両リーグで無安打無得点試合を記録する史上四人目の快挙も達成。大リーグ十二シーズンで計七球団に所属。日本で78勝46敗、大リーグで123勝109敗の成績を残した。
(静新平成20年7月18日(金)朝刊)

野茂投手現役引退
大リーガーの先駆者ねぎらう
 「お疲れさまと言ってあげたい」。アマチュア野球界の活性化のため野茂英雄投手(三九)が理事長となって二〇〇三年に設立した社会人チーム「NOMOベースボールクラブ」(堺市)の鈴木俊雄副理事長は十七日、引退の決意を固めた日本人大リーガーの先駆者をねぎらった。
 元プロ野球選手の鈴木さんは二十年来の親友。ともに社会人野球出身で、そろって全日本チームに選ばれた。野茂投手が近鉄を退団し渡米したころ、鈴木さんは台湾プロ野球に挑戦。オフで帰国するたびに旧交を温めてきた。
 十七日。クラブ事務局の電話が鳴ったのは午前十一時ごろ。「引退を決めた」。淡々とした声だったという。「そろそろかな」と感じていたので、驚きはなかった。
 日米球界を席巻したトルネード投法。「みんな、彼を目標にやってきた」と鈴木さん。「来るべき時がきた。一つの時代が終わった」。
 野茂投手が新日鉄堺時代に汗を流した堺浜野球場(堺市)には、十七日夜、NOMOベースボールクラブの選手が練習に集まった。
 捕手中田大樹さん(一九)は「全く知らなかったのでショック。オフに練習を見に来てくれたし、レベルの高いクラブチームと環境を整えてくれたことに、本当に感謝している。もうちょっと(現役を)続けて、あの年齢でもできることを見せてほしかった」と話した。
(静新平成20年7月18日(金)朝刊)

「キャッチ・ザ・メジャー」長谷川滋利
説得力ある野茂君の言葉
 野茂君がついに引退を表明しました。同い年の彼は古くからの友人で、僕が最も大きな影響を受けた人物の1人です。パ・リーグ時代によく「いつかメジャーに行った時は」などという話をした思い出もあります。お疲れさま、ありがとう。そのほかにもいろんな言葉が頭の中を巡ります。
 野茂君に受けた影響は何か。それはアドバイスが「シンプルで分かりやすい」ということでした。例えば、あるピッチングに関しての疑問をぶつけた時の返答が「低めに投げることが一番大事や」。詳細は省きますが、まさにどんぴしゃりの指摘でした。普段からの取り組み、口数の少なさと相まって、彼の言葉には大変な説得力がありましたね。
 メジャーでの影響力も大きかったと思います。エンゼルス時代、ティム・ザーモンという武骨な中軸打者がいたのですが、普段は無口なその同僚が「おれはあの野茂からヒットを打ったぞ」と大喜びしていました。それを見た時は、野茂君の友人としてというよりも、一人の日本人として誇らしく、うれしい気持ちになりました。
 信念を曲げることなく、黙々と粘り強くものごとに取り組む。野茂君はメジャーの選手に、日本人のまじめさを示した存在と言えるでしょう。
 最後にお互いユニホーム姿で会ったのは、彼がデビルレイズでプレーしていたころ。球場のウエートトレーニングルームをのぞくと、野茂君が既に大汗をかきながらトレーニングしていました。そして彼の様子を若い選手たちが熱心に見ていたシーンが忘れられないですね。(ベースボールアドバイザー)
(静新平成20年7月29日夕刊)

  

Posted by パイプ親父 at 10:30Comments(0)人物

2008年07月29日

河鍋暁斎

「河鍋暁斎と沼津」
望月宏充(原ルネッサンスの会会長、原西町二区)

 先日、大塚・長興寺の松下宗柏住職から八月三日まで東京の国立博物館で開催されている「フランスが夢見た日本」展の招待券をいただき、今月二十三日に博物館を訪ね、鑑賞してきた。
 この展覧会は日本の浮世絵・版本を基に制作されたオルセー美術館所蔵の陶磁器(テーブルウェア)と浮世絵版画を対比して展示しているもので、この中に北斎や廣重の沼津、浮島ケ原の作品と並んで河鍋暁斎の版本「暁斎楽画」を基に制作された作品が多数展示されていた。
 暁斎は沼津に縁を持ち、・また海外で、その作品が再評価されて人気が高く、「明治の北斎」とも言われる画家・浮世絵師である。
 私は以前から彼の作品や沼津とのつながりに興味を持ち、昭和六十三年、埼玉県蕨(わらび)市にある「河鍋暁斎記念美術館」を訪れ、そこで、暁斎の子孫の河鍋楠美館長にお目にかかり、食事を交え、いろいろと話をすることができた。
 その中で、会誌『暁斎』への投稿を依頼され、浮世絵「東海道之内 田子浦蛇松」について書かせていただいた。さる六月十三日、図らずも、暁斎のことで沼津を訪れた楠美先生に二十一年ぶりに再会し、懐かしく話をすることができた。この機会に、「河鍋暁斎と沼津」のことについて、本欄をお借りして紹介させていただく。
 河鍋暁斎(天保二年-明治十八年)は下総国古河生まれ。名は周三郎。七歳で歌川国芳に入門し、後に狩野派の狩野洞白陳信門に移り、洞郁陳之と称した。自由奔放、酒を愛し、天才肌の画家で初期浮世絵の画号は周麿(ちかまろ)を名乗り、また狂斎など多くの号を使ったが、一般的には惺々暁斎(せいせいきょうさい)の名で知られる。
 彼と沼津とのつながりは、明治維新で彼の兄が徳川家の駿河入りについて母と沼津に移住、それが縁で暁斎も明治四年(このころ、狂斎を暁斎に改める)、沼津や修善寺に足を留め、その間に沼津の女性、宇田しんと結ばれ、明治五年に宇田雨柳が生まれた。
 雨柳は俳号で、本名は竜蔵・柳三郎と言い、画号は父と同じ「惺々暁斎」を名乗る。沼津でペンキ業・看板店を営み、沼津のペンキ業のはしりと言われ、父譲りの画才があり、俳句・絵・絵馬などを描き活躍した。雨柳の次女は、日本画家の佐々木古桜と結婚した。
 佐々木古桜は京都生まれで、谷口香キョウ・小堀靹音に学んだ大和絵画家で、武者絵を得意とした。縁あって沼津に逗留し、後に永住した。代表作は三嶋大社に奉納され、また太平洋戦争中の生活を絵で綴った「画便り」「画日記」で知られる。
 このように沼津の暁斎の流れは子孫に受け継がれている。
 暁斎の沼津の浮世絵には周麿時代の「東海道之内田子浦蛇松」、暁斎画「東海道五十三駅名画之書分原」等があり、沼津兵学校教授の渡部温が翻訳した「通俗 伊蘇
普(イソップ)物語」に挿絵を描き、また明治五年に沼津で没し、本光寺に葬られた母の墓石には暁斎が描いた「枯木寒鴉図」が彫られていたが、今は失われている。
 このように沼津と深い縁がある大画家「河鍋暁斎」や宇田雨柳、佐々木古桜の作品を集めた展覧会を、ぜひ地元の沼津を中心にした施設で開催していただきたいものと願っている。
(沼朝平成20年7月29日「言いたい放題」)



↑河鍋暁斎の代表作品  

Posted by パイプ親父 at 10:39Comments(0)歴史上の人物

2008年07月18日

千野忠男氏死去

千野忠男氏死去
「アジア貧困対策に情熱」:「共生が日本の道」持論
 「アジアをすべての人が尊厳と希望を持って暮らせる地域にしたい」。アジア開発銀行総裁に就任して三年目の二〇〇一年暮れ、本紙がフィリピンの同銀行本部でインタビューした際、千野忠男氏はアジアの貧困との闘いこそ、自らの人生とばかりに、熱い情熱をたぎらせていた。
 アジア開発銀行総裁を六年間務め、国ごとの貧困削減戦略の設定の支援や、識字率が50%と低いことを受け、経済成長に欠かせない初等教育の普及などの課題に取り組んだ。日本に対しても、「隣人たちのために可能な限りの貢献をすべきで、アジアとの共生が日本のとるべき道」が持論だった。
 藤枝東高から米国スタンフォード大経済学部を経て東大法学部卒。大蔵省(現財務省)に入り、財務官時代の一九九三年には東京サミットのシェルパとして大役を果たした。同年には斉藤滋与史知事辞任後の知事選があり、出馬の意欲を見せたが、サミット準備が重なって断念した。
(静新平成20年7月18日(金)朝刊)
  

Posted by パイプ親父 at 11:59Comments(0)訃報

2008年07月17日

渡辺小百合さん(第22代かぐや姫女王)

第23代かぐや姫クイーン
渡辺小百合(わたなべさゆり)さん(富士市)
 決勝審査に残った二十二人の中から、最後に名前を呼び上げられた。短大卒業後、静岡市内で三年間、幼稚園教諭を務めこの春、富士常葉大保育科三年に編入した。二十四歳。
 ーティアラを着けた気持ちを教えてください。
 「信じられない。決勝審査の自己アピールは緊張で頭が真っ白になったので、とても無理と思っていました。富士市の一番の魅力は人の温かさ。多くの人に伝えたい」
 ー応募動機は。
 「大学生活のこの二年間を、学びの年にしたいと思っています。市のことも学びたいし、さまざまな人とも出会いたい。実際、審査に応募してこれまで会えなかった人と出会うことができました」
 ー将来の夢は。
 「子どもたちが命を粗末にする最近のニュースはショック。地元で再び幼稚園の先生になって、一人一人が愛され、大切にされていることを伝えていきたい」

しっかり屋に見えるが、自己分析は「少し慌てんぼうなところも」。ヨガとボディーボードでリフレッシユ。
(静新平成20年7月17日「この人」)
  

Posted by パイプ親父 at 14:16Comments(0)人物紹介

2008年07月16日

内田文喬さん

平成20年度 沼津市政功労者表彰
内田文喬さん(神田町)
特別表彰( 市の公益に寄与した方、または市行政の進展に特に功績があった方で、その功績が特に顕著な方)


 昨年まで、沼津市教育委員会委員として多年にわたり活躍していたほか、沼津市建築審査会委員、沼津市非常勤職員公務災害補償等審査会委員、沼津市公平委員会委員長、沼津市特別職報酬等審議会委員等を歴任され市勢の発展に大きく寄与されてきました。
また、人権擁護委員としての活動は、昭和63年から現在も引き続き行っており、市行政のみならず、様々な分野においても大変ご活躍されており、その功績は特に顕著なものであります。
(広報ぬまづ7月15日号)
  

Posted by パイプ親父 at 21:14Comments(0)人物

2008年07月16日

鈴木 経康氏

沼津情報専門学校長
 鈴木 経康氏(すずきつねやす)(48)
地元とのつながり重視
 ーどのような学校運営を心掛けていますか。
「一番には学生が来るのが楽しくなる学校にすること。専門学校に進学する学生は自分なりの目的意識を持って来るが、専門知識と同時にコミュニケーション能力や社会性、広い視野を持たせたい。今年はCESA(コンピュ
ータエンターテインメント協会)と新たに提携し、十月に幕張メッセで開かれる『東京ゲームショウ』に出展する予定があり、学生も準備に熱が入っている。いい経験になると思う」
 ー沼津市の経営環境はどうですか。
「生徒集めはなかなか難しい。東京の情報も多く、首都圏への通学も珍しくない。そういう中ではやはり地元に密着することが大事。研修やインターンシップなど地元企業とのつながりを重視している。近くの商業施設に学生の作品を展示する計画があるほか、デザイン系の学科もあるのでイベントのポスター制作など、地域に協力できる場面は多いと考えている。かかわりはできるだけ大切にしていきたい」
 ー地域活性化への課題をどう見ますか。
「東部は新幹線駅のある三島と沼津に核が分かれ、静岡、浜松などと比べまちに一体感がない。この微妙なずれをどうするかが難しい。当校のある沼津駅北側に関して言えば、周辺には高校も多いが、多くの学生は通学するだけでまちを素通りしてしまっている。若者向けの店など、もう少し足を止めて時間を過ごす場所があれば、活気のある学生街の雰囲気も生まれるのではないか」
(静新平成20年7月16日「熱き地域人」)
 【沼津情報専門学校】昭和58年開校。学校法人静岡理工科大が運営する。学生数は現在約280人。専攻は情報処理やゲーム制作、グラフィックデザイン、ビジネス関連などの9学科。本年度、公務員専攻科、キャリアライセンス専攻科を新設した。沼津市寿町。

  

Posted by パイプ親父 at 10:47Comments(0)熱き人たち

2008年07月15日

藤原規夫氏(フジワラ社長)

店人いま(専門店2008-7号)
 職人技と真心の接客で信頼を得る
コンセプ不は「makeyour style」
 藤原規夫氏 宝飾・時計・メガネのフジワラ(沼津会)
 沼津駅前に、地方出店第一号となる西武百貨店ができてから半世紀が経つ。建物は老朽化と言うより、レトロな感じさえ受ける。最近になって、浜松、静岡の西武が退店する中で、沼津の西武は健在だ。優良な固定客をつかんでいるのだろう。
 一方、駅前再開発として「イーラDe」が、三セク方式で完成した。三〇年以上前から、いろいろ試行錯誤してきた中で、今年三月に地下一階から三階までが商業スペース、四階から六階が駐車場、二〇階までがマンションとなっている。筆者の目には、店舗構成の明確なコンセプトは見えなかった。しかし、地下にある食品売場は、高級感があり、目を楽しませてくれた。入店しているのは、地元の「しずてつストアー」。
メイン商店街である、仲見世商店街は人で賑わっていたが、昔ほどではないと言う。
また、最近、景観の良い沼津の山々を「沼津アルプス」と呼び、訪れる観光客も増えてきている。その、商店街で眼鏡店「rafin」と、駅前の「イーラDe」の正面で「宝飾・時計・メガネのフジワラ」を営む藤原規夫社長にインタビューした。(聞き手 宇田 弘)


●最後に、これからのことをお聞きしたいのですが…
藤原 息子が帰ってきましたので、これからは徐々にバトンタッチしていきたいと思っています。
私たちは、どっぷりとこの土地に浸かっていますから、見えない部分が多くなっていると思うんです。以前よりも世の中の流れが速くなっていて、新聞やテレビを通じて情報は入ってきますが、息子に期待するところが大きいですね。
商売は、お客さまがいらして成り立つものです。世代が多いほどお客様の層も広がります。
 ●確かに、一つのところにずっといると、客観的に見られなくなりますよね
藤原 親父は創業して、あちこち転々として、だんだん、駅に近くなって、ここに落ち着いたわけです。ですから、一カ所にとどまることについては固執していません。
息子には、自由に動いてもらいたい、ここにこだわらずに、ショッピングセンターなどの選択肢も、考えてもかまわないと言っているんですよ。
 ●商売は儲けなくちゃいけませんからね
藤原 そうなんです。「儲ける」という言葉は、卑しいイメージがありますが、商いは儲けさせてもらわないと、本当の意味で、お客様に満足いただける商売はできません。また、先祖伝来の土地を守るとよく言いますが、いつまでも固持して、倒れてしまったら何の意味もありません。
 これからは、息子を支えつつ、新しい感性で、より一層、お客様に喜んでいただける商いをできることが、わたしたちの喜びです。
 ●今日は、良い話をありがとうございました。

  

Posted by パイプ親父 at 13:01Comments(0)人物

2008年07月10日

戸塚洋二さん死去

ニュートリノ研究の戸塚洋二さん死去 ノーベル賞候補
2008年7月10日13時6分(アサヒ・コム)

写真戸塚洋二氏=05年8月撮影

 地球をもすり抜けてしまうナゾの素粒子ニュートリノに質量があることを示した東京大特別栄誉教授で、元高エネルギー加速器研究機構長の戸塚洋二(とつか・ようじ)さんが10日午前2時50分、直腸がんで死去した。66歳だった。葬儀は12日午後0時30分から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻裕子(ひろこ)さん。

 静岡県富士市生まれ。東大卒。ニュートリノ天文学の創始者である小柴昌俊・東京大特別栄誉教授(02年にノーベル物理学賞受賞)に師事してあとを継ぎ、96年から岐阜県の地底に設けた東京大宇宙線研究所の巨大観測装置「スーパーカミオカンデ」を用いた観測を開始。宇宙線が地球の大気とぶつかってできるニュートリノを観測し、物理学の標準理論では質量がないとされてきたこの粒子に質量があることを示して、それまでの常識を覆した。この業績からノーベル物理学賞の有力候補とされていた。

 00年、大腸がんの手術を受け、肺などに転移し入退院を繰り返していた。その間も研究は続け、日本学術振興会学術システム研究センター所長も務めていた。

 朝日賞(グループ受賞)や文化勲章などを受けた。


  

Posted by パイプ親父 at 13:19Comments(0)訃報

2008年07月05日

ミス富士山グランプリ:西川奈穂さん

ミス富士山グランプリ
西川奈穂(にしかわ.なほ)さん〈芝川町)
 第二十代のグランプリとして一年間、富士宮市と同市観光協会の主催行事などで、市の顔として観光PRに協力する。音楽教室講師。二十二歳。
 ーグランプリに選ばれた心境は。
 「出場者はスタイルのいい人やきれいな人ばかりで、半分以上あきらめていたので信じられませんでした。人に認めてもらうことは、大変光栄で励みになります」
 ー自己PRをお願いします。
 「第一印象では怖いと言われますが、親しみやすい性格だと思います。また、一度何かにはまると、寝ること、食べることを忘れて没頭してしまいます。小学校入学直前からずっとバイオリンを続けています」
 ー富士宮にはどんな魅力がありますか。
 「富士宮市はどこに行っても富士山がよく見えるところが好きです。家族が山好きで、小さいころからいろんな山に連れていってもらいました。富士山頂で一度、バイオリンを弾いてみたい」

気分転換には読書。ファンタジー系の小説などが特に好き。
(静新平成20年7月5日「この人」)
  

Posted by パイプ親父 at 15:29Comments(0)人物紹介

2008年07月04日

菅沼美代子(すがぬまみよこ)さん

沼津ボランティア連絡協議会会長
菅沼美代子(すがぬまみよこ)さん(長泉町)
 沼津市内を拠点にボランティア活動を進める二十六団体、四個人で組織する連絡協議会の会長。障害者の列車旅行を支援している団体「ひまわり号を走らせるわいど沼津実行委員会」の代表も務める。六十歳。
 ー会の活動内容を教えてください。
 「市民に各団体の活動内容を展示、紹介する十月のボランティアまつりや、年二回の機関誌発行、研修会などを行っている。所属する演芸団体による市民への発表会も今年初めて開いた」
 ー所属団体の取り組みは多岐にわたりますね。
 「『手助けすることで対象者とともに楽しみたい』という思いはみな一緒。さまざまなかかわり方があるので、興味のある分野を見つけてボランティアに参加してくれたらうれしい」
 ー今後どんな取り組みを進めたいですか。
 「団体の認知度を高めて協力者を増やしたい。社会福祉協議会とも連携し、充実した環境づくりを進めたい」

二歳の孫娘と遊ぶことと家庭菜園の手入れをすることが今の楽しみ。
(静新平成20年7月4日「この人」)
  

Posted by パイプ親父 at 14:46Comments(0)人物