2013年10月31日
川上哲治さん、93歳老衰で死去(スポーツ報知)
「打撃の神様」「V9監督」川上哲治さん、93歳老衰で死去(スポーツ報知)

1973年11月、南海との日本シリーズで念願の9連覇を達成し、ファンの声援に応えて球場を一周する川上監督(右は牧野コーチ、左端は長嶋)
「打撃の神様」「V9指揮官」として知られる元巨人監督の川上哲治氏が28日午後4時58分、東京都稲城市の病院で老衰のため死去していたことが30日、分かった。93歳だった。「赤バット」で人気を博し、戦前戦後を通じて打撃の第一人者として活躍した川上氏。1961年に巨人監督に就任し、65年からは9年連続日本一の偉業を達成。その年に野球殿堂入りした希代の名選手。葬儀・告別式は近親者のみで執り行われ、お別れの会が後日行われる予定だ。
戦前からV9まで、4番として指揮官として巨人の興隆を支えた「打撃の神様」が、ついにこの世を去った。09年11月に脳梗塞にかかり、今年5月には自宅で転倒した際にろっ骨を骨折。一時は驚異的な回復も見せたが、持病の心臓や肺を患っていたという。長男・貴光(よしてる)さん(67)は「本当にスッと呼吸が止まり、眠るように静かな最期だった」と話した。
川上氏は38年に巨人に入団すると、4番打者として巨人最多の1658試合に出場。3度のMVPに輝くなど数々の打撃タイトルを獲得。2年間しか使わなかった「赤バット」はファンに鮮烈な印象を残し、低く鋭い打球が「弾丸ライナー」という造語も生んだ。監督としては14年で11度のリーグ優勝を達成し、日本シリーズも勝利し全て日本一に立った。無類の勝負強さを誇った。
現役時代は投手として入団しながら、プロ入り2年目の39年には史上最年少の19歳で首位打者を獲得。若くして才能を開花させたが、“神様”と呼ばれた打撃が、真に神の領域に達したのは50年8月のことだった。多摩川グラウンドで行った特打。ボールを十分に引きつけて打つ練習をしていると、不思議な感覚に襲われた。直前の試合で経験した感覚と同じだった。打つポイントに来ると、ボールが止まる。「間の取り方の問題ではないでしょうか。トップでボールを呼び込めれば、ボールは止められます」。止まるのではなく、止める。それは究極とも言える、打撃技術だった。
翌51年、当時のセ・リーグ記録となる3割7分7厘で首位打者を獲得。その年の三振は6個で、規定打席以上の最少記録だった。さらに、その年は424打席で1313球を投げさせ、空振りはわずか7回。4月18日の阪神戦から7月22日の阪神戦まで783球連続空振りなしを続けた。ボールを止められるからこそ残った驚異的な数字だった。
監督としては徹底的に合理主義を貫いた。「人を育て上げていく上では必要」という信念から、門限などで選手を厳しく管理。近代野球を推し進めた米大リーグのドジャース戦法を導入。ランニング専門などコーチやトレーナーを増やした。練習に集中させるために、批判を恐れず「哲のカーテン」と呼ばれた報道規制も実施。妥協を許さない姿勢でONら多士済々のメンバーを育て、まとめることで、常勝軍団を築き上げた。
貴光さんは「(選手の)家族の寂しさを理解する優しさを持った人だった」と振り返った。毎年、キャンプ中には自ら筆を執り、選手の家族に向けて手紙を送っていたという。厳しく、そして温かく巨人の歴史を築いてきた偉人は、天寿を全うし、かつての仲間たちが待つ天国へと旅立っていった。
◆川上 哲治(かわかみ・てつはる)1920年3月23日、熊本県生まれ。熊本工時代にエースとして3度甲子園に出場し2度準優勝。38年にバッテリーを組んでいた吉原正喜捕手とともに巨人入り。当初は投手と一塁手を兼任していたが、非凡な打撃が認められ一塁手に。2年目の39年に初の首位打者を獲得。兵役を挟んで46年に復帰し、青バットの大下弘とともに、“赤バットの川上”として戦争直後のプロ野球をけん引した。自ら主演の映画「川上哲治物語 背番号16」ができるほどの人気ぶりだった。58年限りで現役引退するまで5度の首位打者、2351安打はともに当時のプロ野球記録だった。2年間のコーチの後、監督就任の61年にいきなり日本一。65年には野球殿堂入りを果たし、同時に背番号16は永久欠番となった。その後も徹底的なチームプレーと王、長嶋の主軸打者を擁して65年から73年まで前人未到の9連覇に導いた。74年限りで監督も勇退。1992年春に勲四等旭日小綬章、同年秋には野球人として初の文化功労者として表彰された。現役時代の体格は174センチ、75キロ。左投左打。

1973年11月、南海との日本シリーズで念願の9連覇を達成し、ファンの声援に応えて球場を一周する川上監督(右は牧野コーチ、左端は長嶋)
「打撃の神様」「V9指揮官」として知られる元巨人監督の川上哲治氏が28日午後4時58分、東京都稲城市の病院で老衰のため死去していたことが30日、分かった。93歳だった。「赤バット」で人気を博し、戦前戦後を通じて打撃の第一人者として活躍した川上氏。1961年に巨人監督に就任し、65年からは9年連続日本一の偉業を達成。その年に野球殿堂入りした希代の名選手。葬儀・告別式は近親者のみで執り行われ、お別れの会が後日行われる予定だ。
戦前からV9まで、4番として指揮官として巨人の興隆を支えた「打撃の神様」が、ついにこの世を去った。09年11月に脳梗塞にかかり、今年5月には自宅で転倒した際にろっ骨を骨折。一時は驚異的な回復も見せたが、持病の心臓や肺を患っていたという。長男・貴光(よしてる)さん(67)は「本当にスッと呼吸が止まり、眠るように静かな最期だった」と話した。
川上氏は38年に巨人に入団すると、4番打者として巨人最多の1658試合に出場。3度のMVPに輝くなど数々の打撃タイトルを獲得。2年間しか使わなかった「赤バット」はファンに鮮烈な印象を残し、低く鋭い打球が「弾丸ライナー」という造語も生んだ。監督としては14年で11度のリーグ優勝を達成し、日本シリーズも勝利し全て日本一に立った。無類の勝負強さを誇った。
現役時代は投手として入団しながら、プロ入り2年目の39年には史上最年少の19歳で首位打者を獲得。若くして才能を開花させたが、“神様”と呼ばれた打撃が、真に神の領域に達したのは50年8月のことだった。多摩川グラウンドで行った特打。ボールを十分に引きつけて打つ練習をしていると、不思議な感覚に襲われた。直前の試合で経験した感覚と同じだった。打つポイントに来ると、ボールが止まる。「間の取り方の問題ではないでしょうか。トップでボールを呼び込めれば、ボールは止められます」。止まるのではなく、止める。それは究極とも言える、打撃技術だった。
翌51年、当時のセ・リーグ記録となる3割7分7厘で首位打者を獲得。その年の三振は6個で、規定打席以上の最少記録だった。さらに、その年は424打席で1313球を投げさせ、空振りはわずか7回。4月18日の阪神戦から7月22日の阪神戦まで783球連続空振りなしを続けた。ボールを止められるからこそ残った驚異的な数字だった。
監督としては徹底的に合理主義を貫いた。「人を育て上げていく上では必要」という信念から、門限などで選手を厳しく管理。近代野球を推し進めた米大リーグのドジャース戦法を導入。ランニング専門などコーチやトレーナーを増やした。練習に集中させるために、批判を恐れず「哲のカーテン」と呼ばれた報道規制も実施。妥協を許さない姿勢でONら多士済々のメンバーを育て、まとめることで、常勝軍団を築き上げた。
貴光さんは「(選手の)家族の寂しさを理解する優しさを持った人だった」と振り返った。毎年、キャンプ中には自ら筆を執り、選手の家族に向けて手紙を送っていたという。厳しく、そして温かく巨人の歴史を築いてきた偉人は、天寿を全うし、かつての仲間たちが待つ天国へと旅立っていった。
◆川上 哲治(かわかみ・てつはる)1920年3月23日、熊本県生まれ。熊本工時代にエースとして3度甲子園に出場し2度準優勝。38年にバッテリーを組んでいた吉原正喜捕手とともに巨人入り。当初は投手と一塁手を兼任していたが、非凡な打撃が認められ一塁手に。2年目の39年に初の首位打者を獲得。兵役を挟んで46年に復帰し、青バットの大下弘とともに、“赤バットの川上”として戦争直後のプロ野球をけん引した。自ら主演の映画「川上哲治物語 背番号16」ができるほどの人気ぶりだった。58年限りで現役引退するまで5度の首位打者、2351安打はともに当時のプロ野球記録だった。2年間のコーチの後、監督就任の61年にいきなり日本一。65年には野球殿堂入りを果たし、同時に背番号16は永久欠番となった。その後も徹底的なチームプレーと王、長嶋の主軸打者を擁して65年から73年まで前人未到の9連覇に導いた。74年限りで監督も勇退。1992年春に勲四等旭日小綬章、同年秋には野球人として初の文化功労者として表彰された。現役時代の体格は174センチ、75キロ。左投左打。
2013年10月03日
真野彰一さん(まのしょういち)(沼津市)
沼津市議会議長に就任した
真野彰一さん(まのしょういち)(沼津市)

第81代の市議会議長。総務経済委員長、議会運営委員長などを歴任した。現在5期目。本業はミカン農家。65歳。
ー沼津への思いを。
「輝きを取り戻さなければならない。懸案のJR沼津駅付近鉄道高架事業は、県が年内に方向性を出す姿勢を示したので、動向を注目している。市街化調整区域の土地利用についても、市が規制緩和に向けて準備を進めている。議会としても、将来に責任が持てるよう議論を重ねたい」
ーほかに市政の課題は。
「総合コンベンション施設『プラサヴェルデ』が来夏にオープンし、東名、新東名高速道にはスマートインターチェンジが設置される。これらをチャンスと捉え、着実に生かしていかなければならない」
ー議員としての信条は。
「議会中はもちろんだが、閉会中こそまちの課題をしっかりと見据え、調査、研究することが大切。同僚議員とも議論を重ね、市当局にどんどん提言していかなければならない」
◇
韮山高の野球部出身。夏の高校野球観戦をしていると「あのころを思い出す」。
《静新平成25年10月3日(木)「この人」》
真野彰一さん(まのしょういち)(沼津市)

第81代の市議会議長。総務経済委員長、議会運営委員長などを歴任した。現在5期目。本業はミカン農家。65歳。
ー沼津への思いを。
「輝きを取り戻さなければならない。懸案のJR沼津駅付近鉄道高架事業は、県が年内に方向性を出す姿勢を示したので、動向を注目している。市街化調整区域の土地利用についても、市が規制緩和に向けて準備を進めている。議会としても、将来に責任が持てるよう議論を重ねたい」
ーほかに市政の課題は。
「総合コンベンション施設『プラサヴェルデ』が来夏にオープンし、東名、新東名高速道にはスマートインターチェンジが設置される。これらをチャンスと捉え、着実に生かしていかなければならない」
ー議員としての信条は。
「議会中はもちろんだが、閉会中こそまちの課題をしっかりと見据え、調査、研究することが大切。同僚議員とも議論を重ね、市当局にどんどん提言していかなければならない」
◇
韮山高の野球部出身。夏の高校野球観戦をしていると「あのころを思い出す」。
《静新平成25年10月3日(木)「この人」》