2022年05月29日
吉沢勇一郎(よしざわゆういちろう)さん(沼津市)
沼津市副市長に就任した

吉沢勇一郎(よしざわゆういちろう)さん(沼津市)
国土交通省出身で、市の重要課題であるJR沼津駅周辺高架化に伴う中心市街地活性化などを担当する。2001年、同省入省。近畿地方整備局都市整備課長、国土政策局地方振興課企画専門官など、主にまちづくり分野に携わった。4月1日から現職。静岡市葵区出身。43歳。
ー鉄道高架化の前提となる貨物ターミナルが着工した。事業や中心市街地活性化への考えは。
「沼津市の中心市街地は、首都圏からのアクセスも良く、潜在力は高い。一方、鉄道で南北が分断され、駅周辺道路は通過交通が多いのが現状。高架化によって、歩行者を中心に回遊性を高めることで、活性化につなげたい。大規模な事業だが、関係者との調整を進めて一歩一歩前に進めたい」
ー地方自治体への出向経験もある。どう生かすか。
「熊本市への出向時は、都市政策部長としてJR熊本駅高架化後の中心市街地再整備に携わった。沼津と同様、熊本も回遊性の向上が課題で、経験が生かせると感じている。熊本地震後の復興事業も経験し、防災対策などでも力になりたい」
ー沼津市の印象は。
「中学から静岡を離れたので久々に富士山が見える場所で生活でき、うれしい。海、山、川と自然豊かで魅力的な資源が多い、狩野川沿いをジョギングしながら実感している。市民の皆さんも、元気で聡明(そうめい)な方が多いと感じている」
ー抱負を。
「来年の市制100周年に向けた重要な時期。次の100年に向け、市に貢献したい。市民とよくコミュニケーションを取り、専門家集団としての市役所のノウハウを市民のために使っていく組織にしたい」
(東部総局・尾藤旭)
【静新令和4年5月28日(土)この人】

吉沢勇一郎(よしざわゆういちろう)さん(沼津市)
国土交通省出身で、市の重要課題であるJR沼津駅周辺高架化に伴う中心市街地活性化などを担当する。2001年、同省入省。近畿地方整備局都市整備課長、国土政策局地方振興課企画専門官など、主にまちづくり分野に携わった。4月1日から現職。静岡市葵区出身。43歳。
ー鉄道高架化の前提となる貨物ターミナルが着工した。事業や中心市街地活性化への考えは。
「沼津市の中心市街地は、首都圏からのアクセスも良く、潜在力は高い。一方、鉄道で南北が分断され、駅周辺道路は通過交通が多いのが現状。高架化によって、歩行者を中心に回遊性を高めることで、活性化につなげたい。大規模な事業だが、関係者との調整を進めて一歩一歩前に進めたい」
ー地方自治体への出向経験もある。どう生かすか。
「熊本市への出向時は、都市政策部長としてJR熊本駅高架化後の中心市街地再整備に携わった。沼津と同様、熊本も回遊性の向上が課題で、経験が生かせると感じている。熊本地震後の復興事業も経験し、防災対策などでも力になりたい」
ー沼津市の印象は。
「中学から静岡を離れたので久々に富士山が見える場所で生活でき、うれしい。海、山、川と自然豊かで魅力的な資源が多い、狩野川沿いをジョギングしながら実感している。市民の皆さんも、元気で聡明(そうめい)な方が多いと感じている」
ー抱負を。
「来年の市制100周年に向けた重要な時期。次の100年に向け、市に貢献したい。市民とよくコミュニケーションを取り、専門家集団としての市役所のノウハウを市民のために使っていく組織にしたい」
(東部総局・尾藤旭)
【静新令和4年5月28日(土)この人】
2022年05月29日
神谷聰一郎さん死去
神谷聰一郎さん死去
元静銀頭取、静岡商議所会頭 88歳
元静岡銀行頭取で静岡商工会議所会頭などを務めた神谷聰一郎(かみや.そういちろう)氏が11日、死去した。88歳。葬儀は家族のみで行った。
慶大経済学部卒。1956年静岡銀入行。取締役東京支店長、常務、専務を経て93年から6年間、第8代頭取を務めた。邦銀の中でいち早くディスクロージャー(情報開示)に取り組み、地方銀行屈指の収益力水準に育てた。バブル経済下でも堅実経営を貫き、95年には米格付け会社から邦銀最高の格付けを獲得。財務内容の健全性が高く評価された。
会長時代の2001年から05年までは静岡商工会議所会頭を務めた。経済界の立場から旧静岡、清水両布の合併推進を働き掛け、中小企業支援などにも力を注いだ。
1996年に本紙窓辺を執筆した。
静岡銀行は、お別れの会の開催は未定としている。
「地域経済に貢献」
県内経済界から悼む声
元静岡銀行頭取の神谷聰一郎氏の訃報が伝わった27日、県内経済界からは地域振興に尽力した神谷氏を悼む声が相次いだ。
中西勝則静岡銀会長は一地域経済の発展に貢献することを自らの使命とし、他に先んじて新たな取り組みを推進する静岡銀の伝統を先頭に立って体現した。大きな精神的支えを失った悲しみは大きい」としのんだ。
静岡商工会議所の酒井公夫会頭は「旧静岡市と旧清水市の合併、政令指定都市化を経済界のトップとして実現に導いていただいた。強いリーダーシップで静岡の経済をリードしたことに改めて感謝したい」と功績をたたえた。
富士山静岡空港株式会社の役員を共に長く務めるなど、交流を深めたスズキの鈴木修相談役は「温厚篤実な人柄で、模範となる経営者だった」と別れを惜しんだ。
【静新令和4年5月28日(土)朝刊】

元静銀頭取、静岡商議所会頭 88歳
元静岡銀行頭取で静岡商工会議所会頭などを務めた神谷聰一郎(かみや.そういちろう)氏が11日、死去した。88歳。葬儀は家族のみで行った。
慶大経済学部卒。1956年静岡銀入行。取締役東京支店長、常務、専務を経て93年から6年間、第8代頭取を務めた。邦銀の中でいち早くディスクロージャー(情報開示)に取り組み、地方銀行屈指の収益力水準に育てた。バブル経済下でも堅実経営を貫き、95年には米格付け会社から邦銀最高の格付けを獲得。財務内容の健全性が高く評価された。
会長時代の2001年から05年までは静岡商工会議所会頭を務めた。経済界の立場から旧静岡、清水両布の合併推進を働き掛け、中小企業支援などにも力を注いだ。
1996年に本紙窓辺を執筆した。
静岡銀行は、お別れの会の開催は未定としている。
「地域経済に貢献」
県内経済界から悼む声
元静岡銀行頭取の神谷聰一郎氏の訃報が伝わった27日、県内経済界からは地域振興に尽力した神谷氏を悼む声が相次いだ。
中西勝則静岡銀会長は一地域経済の発展に貢献することを自らの使命とし、他に先んじて新たな取り組みを推進する静岡銀の伝統を先頭に立って体現した。大きな精神的支えを失った悲しみは大きい」としのんだ。
静岡商工会議所の酒井公夫会頭は「旧静岡市と旧清水市の合併、政令指定都市化を経済界のトップとして実現に導いていただいた。強いリーダーシップで静岡の経済をリードしたことに改めて感謝したい」と功績をたたえた。
富士山静岡空港株式会社の役員を共に長く務めるなど、交流を深めたスズキの鈴木修相談役は「温厚篤実な人柄で、模範となる経営者だった」と別れを惜しんだ。
【静新令和4年5月28日(土)朝刊】
2022年05月29日
熊崎勝彦さん死去 元東京地検特捜部長
熊崎勝彦さん死去 元東京地検特捜部長
東京地検特捜部長やプロ野球のコミッショナーを務めた熊崎勝彦(くまざき・かつひご)さんが13日、心不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。岐阜県出身。葬儀・告別式は家族で執り行った。喪主は長男章記(あきのり)さん。
特捜部に長く在籍し、「汚職捜査のプロ」と呼ばれた。リクルート事件やゼネコン汚職などで捜査の中心を担い、故金丸信・元自民党副総裁の脱税事件では金丸氏を取り調べ、自供を引き出した。1996年から特捜部長を務め、旧四大証券などの総会屋利益供与事件、大蔵省汚職事件を指揮した。富山地検検事正、前橋地検検事正、最高検公安部長などを歴任し2004年に退官した後、弁護士となった。 05年からはプロ野球のコミッショナー顧問を務め、暴力団排除や不正なスカウト活動の防止を推進。14年に第13代コミッショナーに就任し、巨人選手による野球賭博問題への対応などで手腕を発揮した。
20年5月には特捜部OBらとともに、政府の判断で検察官の定年延長を可能とする検察庁法改正累に再考を求める意見書を当時の法相に宛てて提出した。
【静新令和4年5月28日(土)朝刊】

東京地検特捜部長やプロ野球のコミッショナーを務めた熊崎勝彦(くまざき・かつひご)さんが13日、心不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。岐阜県出身。葬儀・告別式は家族で執り行った。喪主は長男章記(あきのり)さん。
特捜部に長く在籍し、「汚職捜査のプロ」と呼ばれた。リクルート事件やゼネコン汚職などで捜査の中心を担い、故金丸信・元自民党副総裁の脱税事件では金丸氏を取り調べ、自供を引き出した。1996年から特捜部長を務め、旧四大証券などの総会屋利益供与事件、大蔵省汚職事件を指揮した。富山地検検事正、前橋地検検事正、最高検公安部長などを歴任し2004年に退官した後、弁護士となった。 05年からはプロ野球のコミッショナー顧問を務め、暴力団排除や不正なスカウト活動の防止を推進。14年に第13代コミッショナーに就任し、巨人選手による野球賭博問題への対応などで手腕を発揮した。
20年5月には特捜部OBらとともに、政府の判断で検察官の定年延長を可能とする検察庁法改正累に再考を求める意見書を当時の法相に宛てて提出した。
【静新令和4年5月28日(土)朝刊】

2022年05月25日
2022年05月05日
ノーマン・ミネタ氏死去 90歳
ノーマン・ミネタ氏死去 90歳
日系初の米閣僚収容所経験
ノーマン・ミネタ元米運輸長官が3日、心臓病のために東部メリーランド州の自宅で死去した。90歳だった。ミネタ氏の元補佐官が明らかにした。日系初の米閣僚としてクリントン民主党政権下の2000~01年に商務長官、ブッシュ(子)共和党政権下の01~06年に運輸長官を務めた。
第2次大戦甲に「敵性外国人」として両親と共に西部ワイオミング州の強制収容所に連行された。1975年からの約20年の民主党下院議員時代、強制収容された日系人に対する謝罪と補償を米政府に求め続け、88年の「市民の自由法(強制収容補償法)」の成立に尽力した。
31年西部カリフォルニア州サンノゼ生まれ。カリフォルニア大バークリー校で経営学を学び、サンノゼ市議などを経て71年にアジア系で初めてサンノゼ市長に就任した。
運輸長官だった2001年9月に米中枢同時テロが発生。イスラム教徒や中東系への反感を懸念し、運航を停止した民間機が飛行を再開する際、人種や民族に基づく保安検査をしないよう呼びかけた。
06年、民間人に与えられる勲章で最も栄誉ある米大統領自由勲章を受章した。07年には日系人の地位向上と日米関係の発展に貢献したとして旭日大綬章を贈られた。
クリントン元大統領は3日の追悼声明で、ミネタ氏が民主、共和両党の政権で閣僚を務めたことに言及し、米国の結束を「より完壁なものにした」と称賛。市民の自由や権利などの断固とした擁護者だったとして、その偉業はミネタ氏と縁があった人々を通じて引き継がれていくと強調した。 (ワシントン共同)
ゆかりの三島、清水町に悲しみ
父が清水町、母が三島市出身のノーマン・ミネタ氏は両親の故郷を思い、たびたび訪れて親族らとの親睦を深めていた。温厚な人柄で親しまれたミネタ氏の悲報に、地元では驚きと悲しみの声が上がった。
母方親族の渡辺一弘さん(64)=同市穴宮町=はミネタ氏について「三島や清水町には何度も訪れ、ふるさとのように懐かしんでいた」と振り返り、「ざっくばらんに話してくれた。親しみやすい人だった」と語る。ミネタ氏は昨年死去したいとこの峰田武さん(元三島信用金庫理事長)とも交流が深く、妻の正子さん(80)=清水町=は「穏やかな人柄だった。ニュースで亡くなったと知り、驚いた」と話した。
最後に三島を訪れた2018年にミネタ氏と面会した豊岡武士市長は「元気な様子で、おっしゃることもはっきりしていた。風格のある立派な方だった」と印象を語る。会食に招かれた際には親しく会話を交わす機会もあり、「政治家としての大先輩。学ぶことは多かった」という。突然の悲報に驚き、「残念でならない」と故人をしのんだ。
(三島支局・金野真仁、東部総局・杉山諭)
【静新令和4年5月5日(木)朝刊】
日系初の米閣僚収容所経験

ノーマン・ミネタ元米運輸長官が3日、心臓病のために東部メリーランド州の自宅で死去した。90歳だった。ミネタ氏の元補佐官が明らかにした。日系初の米閣僚としてクリントン民主党政権下の2000~01年に商務長官、ブッシュ(子)共和党政権下の01~06年に運輸長官を務めた。
第2次大戦甲に「敵性外国人」として両親と共に西部ワイオミング州の強制収容所に連行された。1975年からの約20年の民主党下院議員時代、強制収容された日系人に対する謝罪と補償を米政府に求め続け、88年の「市民の自由法(強制収容補償法)」の成立に尽力した。
31年西部カリフォルニア州サンノゼ生まれ。カリフォルニア大バークリー校で経営学を学び、サンノゼ市議などを経て71年にアジア系で初めてサンノゼ市長に就任した。
運輸長官だった2001年9月に米中枢同時テロが発生。イスラム教徒や中東系への反感を懸念し、運航を停止した民間機が飛行を再開する際、人種や民族に基づく保安検査をしないよう呼びかけた。
06年、民間人に与えられる勲章で最も栄誉ある米大統領自由勲章を受章した。07年には日系人の地位向上と日米関係の発展に貢献したとして旭日大綬章を贈られた。
クリントン元大統領は3日の追悼声明で、ミネタ氏が民主、共和両党の政権で閣僚を務めたことに言及し、米国の結束を「より完壁なものにした」と称賛。市民の自由や権利などの断固とした擁護者だったとして、その偉業はミネタ氏と縁があった人々を通じて引き継がれていくと強調した。 (ワシントン共同)
ゆかりの三島、清水町に悲しみ
父が清水町、母が三島市出身のノーマン・ミネタ氏は両親の故郷を思い、たびたび訪れて親族らとの親睦を深めていた。温厚な人柄で親しまれたミネタ氏の悲報に、地元では驚きと悲しみの声が上がった。
母方親族の渡辺一弘さん(64)=同市穴宮町=はミネタ氏について「三島や清水町には何度も訪れ、ふるさとのように懐かしんでいた」と振り返り、「ざっくばらんに話してくれた。親しみやすい人だった」と語る。ミネタ氏は昨年死去したいとこの峰田武さん(元三島信用金庫理事長)とも交流が深く、妻の正子さん(80)=清水町=は「穏やかな人柄だった。ニュースで亡くなったと知り、驚いた」と話した。
最後に三島を訪れた2018年にミネタ氏と面会した豊岡武士市長は「元気な様子で、おっしゃることもはっきりしていた。風格のある立派な方だった」と印象を語る。会食に招かれた際には親しく会話を交わす機会もあり、「政治家としての大先輩。学ぶことは多かった」という。突然の悲報に驚き、「残念でならない」と故人をしのんだ。
(三島支局・金野真仁、東部総局・杉山諭)
【静新令和4年5月5日(木)朝刊】