2022年02月17日

小笠原一夫氏夫妻

 交通安全活動続け事故防止に貢献小笠原一夫氏夫妻

 沼津署で2個人1事業所の表彰伝達
 交通栄誉章緑十字銀章等の表彰伝達式が16日、沼津署で開かれ、原田達彦署長らから受賞者に賞状が渡された。
 受賞したのは、交通栄誉章緑十字銀章(警察庁長官・全日本交通安全協会会長連名表彰)の小笠原一夫さん(宇徳通運社長)、同章の受章者を支えた家族への感謝状(全日本交通安全協会会長表彰)が妻の良子さん(式では一夫さんが代理で受賞)、優良事業一所(全日本交通安全協会会長表彰)として、県自動車学校沼津校(安全運転管理者の渡邉敏喜総務課長が代表で受賞)。
 小笠原社長夫妻と同自校は多年にわたり交通安全のために尽力。事故防止に貢献した個人として、また、それを支えた家族として、交通安全対策を積極的に推進し事故防止に貢献した事業所として、それぞれの栄誉を受けた。
 原田署長は「地域の交通安全活動が交通事故の減少につながっている」として、受賞を祝うとともに、感謝の言葉を述べた。
 小笠原社長は、1975年に交通安全活動に取り組み始めたことなどを振り返りながら、「これからも続けていきたい」とし、渡邉課長も「賞の名に恥じないように」と、継続を誓っていた。
【沼朝令和4年2月17日(木)号】

  

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2022年02月13日

19歳藤井(最年少)五冠 将棋史上4人目 4連勝で王将奪取

19歳藤井(最年少)五冠
 将棋史上4人目 4連勝で王将奪取
藤井聡太新王将

 将棋の藤井聡太四冠=竜王・王位・叡王・棋聖=(19)が渡辺明王将(37)に挑戦した第71期王将戦7番勝負第4局は11、12日、東京都立川市で指され、114手で後手の藤井四冠が勝ち、4勝0敗で王将を奪取し五冠になった。19歳6カ月の5タイトル保持は最年少で史上4人目。八大タイトルの過半数の五冠を獲得し、全冠制覇が視野に入ってきた。=関連記事35面へ
『 藤井聡太新王将の略歴
 藤井聡太(ふじい・そうた) 2002年7月、愛知県瀬戸市生まれ。杉本昌隆八段門下。12年にプロ棋士養成機関の奨励会に入会し、16年、最年少の14歳2カ月でプロ入り。18年に中学生で初の棋戦優勝。21年7月、最年少で九段に昇段した。』

 藤井新王将は「今回の7番勝負は持ち時間が8時間と長く、あらためて勉強になった。(五冠は)自分の実力を考えると、出来過ぎの結果だ。今後それに見合う実力をつけていきたい」と話した。
 これまでの最年少は1993年、羽生善治九段(51)の22歳10カ月だった。五冠は故大山康晴15世名人、中原誠16世名人(74)も達成。羽生九段はタイトル戦が七つだった96年に全冠制覇を成し遂げた。
 藤井新王将は7度タイトル戦に出場し、2度の防衛を含め全て制している。2022年度は五つのタイトル防衛を戦いながら、王座戦と棋王戦で挑戦者を目指す。名人戦(7番勝負出場の最短は23年度)以外の最大七冠の可能性がある。
 昨年は棋聖と王位を初防衛し、叡王を奪取。続く竜王戦7番勝負で豊島将之九段(31)を破り、最も若い四冠になった。
 愛知県瀬戸市出身。16年、最年少の14歳2ヵ月でプロ入り。17年にはデビューから無敗で最多の29連勝を成し遂げた。詰め将棋を得意とし、圧倒的な終盤の力を持つ。
 渡辺前王将は、名人と棋王の二冠に後退した。
 出来過ぎの結果だ 藤井聡太新王将の話 形勢判断ができなかった場面が多かった。出来過ぎの結果だ。(全八冠制覇に)少しでも近づければと思う。
 なんとかしたかった 渡辺明前王将の話ストレートで負けたことには、もうちょっとなんとかしたかった。この結果になってしまい残念だ。
【静新令和4年(2022年)2月13日(日曜日一面)】

頂上決戦制し 19歳最年少
 藤井新王将  隙なし終盤力
 「出来過ぎ」圧巻ストレート
 四冠対三冠の頂上決戦を制した。12日、将棋の第71期王将戦7番勝負第4局で挑戦者の藤井聡太四冠が渡辺明王将を破り、最年少五冠に輝いた。注目を集めた今シリーズ。まったく付け入る隙のない圧巻の終盤力を見せつけた。ストレートでの快勝に「出釆過ぎです」と充実感に浸った。
 難敵相手に切れ味鋭い攻めで白星を重ね、迎えた4局目。タイトル奪取を狙う19歳は最善手を導き出そうと盤上を見つめて考え続けた。
 1日目、渡辺前王将は矢倉に囲い、急戦含みの展開になった。それに対し藤井新王将はバランス重視の構えをとる、互いに事前研究済みの局面が続き、指し手は早く進んだ。2日目、判断が難しい局面では互いに長考に沈む。最後は藤井新王将が優勢のまま渡辺前王将を投了に追い込んだ。対局を終えたばかりの藤井新王将は「なかなか実感がない。今後は、(五冠に)見合う実力をつけたい」と振り返った。
 渡辺前王将は藤井新王将と過去、2度の棋聖戦5番勝負はいずれも敗れている。この7番勝負には「ここから先は条件が好転することはない。正念場だ」と決意を秘めて臨んだ。渡辺前王将らしい踏み込みのよさを見せたが及ばず、リベンジはならなかった。名人と棋王の二冠に後退した渡辺前王将は「(棋聖戦に続き、王将戦でも藤井新王将に)ストレートで負けてしまった。もうちょっと何とかしたかった」と言葉少なに述べた。
 終局後、対局場とは別のホテルで記者会見が行われ、約70人の取材陣を前に花束贈呈や「王将」と揮毫(きこう)した色紙を持って写真撮影に臨んだ。藤井新王将は「過去に五冠を取られた方々は、時代を築いた偉大な棋士ばかりで光栄に思う」と静かに話した。
 「強くなりたい」。デビユー後、藤井新王将がずっと言い続けてきた言葉だ。真摯(しんし)に将棋の真理を追究する姿勢は、あの時から少しも変わらない。次々と記録を塗り替える19歳。果たして、どこまで上り詰めるのだろうか。

AIの使い手 藤井五冠一日の長
 4連勝で王将位を手に入れた藤井聡太五冠(19)と渡辺明二冠(37)の勝負は「最新のディープラーニング型将棋AI(人工知能)の使い手同士の戦い」でもあった。AI開発者の山口祐さんは、最新技術も負欲に活用する藤井五冠の飽くなき探究心に注目する。
 藤井五冠が第1局の41手目に指した8六歩。狙いが分かりにくく、立会入の森内俊之九段(51)は「衝撃的な手」「未来の感覚1と驚嘆し1渡辺二冠も次の一手に91分を費やした。
 しかし、山口さんは「8六歩は、ディープラーニング(DL)型将棋AIでは候補手の上位に来る。藤井さんは事前に研究していたのではないか」とみる。DL型は、多くの棋士が研究に使っている従来型とは全く異なる最新型のAIだ。
 従来型AIは1秒間に8000万から1億局面を読む圧倒的な計算力を誇り、その棋力は今やプロをはるかに上回る。それでも、選択の幅が広い序盤では最善手を導き出せないこともあるという。
 一方、DL型は、高精細映像やゲームに使われる映像処理装置を活用。盤面の画像を数値化し、人間の神経細胞を模した高度な計算モヂルで答えを出す。そこには棋士の「大局観」に似た判断過程も見られるといい1序盤の正確さに特長がある。
 DL型の使用を公言している棋士は、一昨年にいち早く導入した藤井五冠と昨年始めた渡辺二冠だけ。山口さんは「どれだけ使いこなせているかでは、藤井さんには一日の長がある」と指摘する。
【静新令和4年(2022年)2月13日(日曜日35面)】
  

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2022年02月09日

石原慎太郎死去

石原慎太郎さん死去
 都知事13年半、芥川賞 89歳
石原慎太郎死去

 東京都知事を13年半務め、タカ派政治家の代表格として知られた元衆院議員で作家の石原慎太郎(いしはら・しんたろう)さんが1日午前、東京都大田区の自宅で死去した。89歳。膵臓(すいぞう)がんを昨年10月に再発していた。神戸市出身。葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れの会を開く。
=関連記事3、5、31面へ 一橋大在学中の1956年に小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞。作品の映画化で、弟の故石原裕次郎さんが俳優デビューした。映画に登場するような無鉄砲な若者は「太陽族」と呼ばれ、社会現象を巻き起こした。 68年、参院選全国区に自民党から立候補しトップ当選。72年に衆院へくら替えし、環境庁長官や運輸相を務めた。党内タカ派政策集団「青嵐会」を結成し、中核を担った。95年、在職25年表彰当日に議員辞職を表明した。
 99年の東京都知事選で初当選。大手銀行への外形標準課税(銀行税)導入やディーゼル車の排ガス規制を推進した。都が1千億円を出資して2005年開業した新銀行東京はずさん融資で経営難に陥り、追加出資で批判を浴びた。都による沖縄県・尖閣諸島購入も計画した。
 4期目途中の12年に知事を辞職し、太陽の党を設立。当時の橋下徹大阪市長が率いる旧日本維新の会と合流し、同年の衆院選で国政復帰した。野党再編を巡ってたもとを分かつと、14年8月に自主憲法制定を掲げる次世代の党を結成し、最高顧問に就任した。同12月の衆院選で落選し、政界を引退した。
 17年には東京・築地市場の豊洲移転問題を検証する都議会の調査特別委員会(百条委員会)の証人喚問に応じ、移転を延期した小池百合子都知事を批判した。
 著作は「化石の森」「『NO』と言える日本」(故盛田昭夫ソニー創業者との共著)や「弟」「天才」など多数。芥川賞選考委員も務めた。長男は伸晃元自民党幹事長、次男はタレントの良純さん、三男は宏高自民党衆院議員、四男は画家延啓さん。
 石原慎太郎さん死去
 作家からタカ派政治家へ
 強烈な発信、時に物議
 1日死去した石原慎太郎さんは作家から政治家に転身した。外交や防衛問題でタカ派の論陣を張り、東京都知事時代には沖縄県・尖閣諸島を購入する意向を突如表明するなど、強烈な発信で時に物議を醸した。
 政界デビューは小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞してから12年後の1968年。参院全国区で300万票を獲得したトップ当選だった。同期には石原さんの前任都知事となった故青島幸男さんがいた。
 99年に都知事に就くと、ディーゼル車の排ガス規制など先進的取り組みで強力なリーダーシップを発揮した。
 2012年4月には「東京が尖閣を守る」として突然、尖閣諸島を都が購入する方針を発表した。奇想天外な構想に「問題提起になる」「都民の税金を使うな」と議論を巻き起こした。中国に批判的な石原さんの言動に対し、領有権を主張する中国は反発。結局9月に、当時の野田政権が尖閣国有化に踏み切った。
 自主憲法制定にも強いこだわりを見せた。旧日本維新の会共同代表として14年2月に共同通信インタビューに応じ「僕は憲法を変えたい」と力説。同5月の記者会見で「私が都知事を辞めて国会に戻った理由の一つは、憲法を変え、この国を立て直したいということだ」と強調した。同6月には党首討論に立ち「どの国の憲法も自主的に制定、改定されるのが常識だ」と当時の安倍晋三首相に説いてみせた。
 その後、保守路線を一層鮮明にした次世代の党を結成、同9月の結党大会には支援者ら約2千人が詰めかけた。当時、国会議員として最高齢だった石原さんは健在ぶりを示した。14年末の衆院選では、自ら希望し比例東京ブロック名簿の最下位で「討ち死に覚悟の出陣だ」と立候補し、落選して政界引退した。
 引退後も憲法論議など積極的に発信し続けた。政界とも接点を保ち、18年や19年には安倍首相と面会するため首相官邸を訪れた。16年には作家として、田中角栄元首相の生涯を「俺」という一人称で描いた作品「天才」を発表し、ベストセラーとなった。
 「既成概念に挑戦」政界悼む声 1日に死去した石原慎太一即さんに対し、政界から悼む声が相次いだ。自民党の安倍晋三元首相は「戦後に形作られた既成概念に挑戦し続けた政治家だった」とたたえた。岸田文雄首相は「政治の世界の偉大な先達がまた一人亡くなった。寂しい限りだ」と記者団に述べた。旧日本維新の会で共に歩んだ松井一郎大阪市長は「非常に懐が深く、尊敬できる政治家だった」と語った。
 安倍元首相は「1993年の(衆院)初当選以来、指導をいただいた。批判を恐れずに、言うべきことは言うとの姿勢で一貫していた」と記者団に話した。二階俊博元幹事長は「政界の近代化のため、新しい感覚と角度で、積極的に発言した。惜しい政治家を亡くした」としのんだ。茂木敏充幹事長は「カリスマ性があり、威風堂々、国家観を語る素晴らしい政治家だった」と指摘した。
 松井市長は、石原さんが率いた太陽の党が旧維新に合流した経緯に触れ「僕らは地方の政治しか経験がない未熟な存在だったが、足らざる部分を補つてくれた」と振り返った。維新の馬場伸幸共同代表は「ご恩を忘れず、政権政党を目指して精進したい」と決意を新たにした。
 森喜朗元首相は取材に対し、初挑戦した69年衆院選で石原さんが応援してくれたとして「政治の師であり、兄貴のような存在だった」と感謝の念を示した。89年の自民党総裁選で石原さんの出馬を後押しした亀井静香元金融担当相は「現代最高の知性で、巨星落つという感じだ。常に本質を見抜く力があった」と述懐した。
 立憲民主党の泉健太代表は「政界にとどまらず、大きな足跡を残した」と評価した。

 石原慎太郎さん
 年重ねても「太陽の季節」
 政界、文壇で異彩
 政界と文壇で異彩を放った石原慎太郎さんが1日亡くなった。鮮烈な言葉で人を引き付け、憲法改正を唱えるタカ派政治家として、約半世紀にわたり存在感を示してきた。すらりとした長身にいたずらっ子のような笑顔。年を重ねても代表作「太陽の季節」の世界さながらのやんちゃぶりがメディアの関心の的になり、本人もそれを心得、楽しんでいるようにも見えた。
 石原さんの後半生は4期途中まで務めた東京都知事時代を抜きに語れない。1999年、66歳で初当選。
 「東京から日本を変える」をキャッチフレーズにディーゼル車の排ガス規制、銀行への外形標準課税、新銀行東京の設立、沖縄・尖閣諸島の都有化構想。支持された政策はあったが、いくつものつまずきもあった。
 「自分で言うのも何だが、僕は特殊兵器なんだよ」「決して規格通りには動かない」。都庁の会見などでは首都のトップに立っても結局、国政のトップに立てないことへのいら立ち、白身の才覚や気質をそう表現したことがある。
 2012年に辞職し国政に返り咲いた後、14年の衆院選で落選、政界を引退した。17年3月、築地から豊洲への市場移転を検証する都議会の調歪特別委員会(百条委員会)で証人喚問され、小池百合子氏との新旧都知事対決は話題になった。
 17年10月、石原さんの自宅でインタビューする機会があった。百条委の際は脳梗塞の後遺症に苦しみ「平仮名も忘れました」と弱々しく証言していたが、体調はずいぶん回復したらしかった。
 16年に出版した、かつて金権政治と糾弾した田中角栄元首相を再評価する小説「天才」がベストセラーになり「世の中も石原さんが作家だと思い出しましたね」と問うと、笑いながら作家として正当な評価を受けてこなかったとこぼした。
 「文壇というのはひどく狭量で、著名な政治家しかも自民党の代議士が小説を書くことを許さなかった。僕なんか何度も文学賞の候補になったけれど外されてきた」。自慢話とも取れる受け答えは石原さんでなければ嫌みに感じただろう。
 小林秀雄、大江健三郎、三島由紀夫ら各氏との秘話を含めたエピソードを語ると熱を帯び話は尽きなかった。いかに文学の世界を、文士仲間を愛しているかが伝わった。文学から遠い政治という場所で長く活動しながら、あくまで小説家であり続けた人だった。
 新時代の若者描く
 1目死去した石原慎太郎さんは、戦後文学界で唯一無二の存在だった。23歳で芥川賞を受けた「太陽の季節」で、新時代の若者像や風俗を示して世間をあっと驚かせ、髪形をまねた「慎太郎刈り」までもが大流行。後に大スターとなる実弟、裕次郎さんの俳優デビューにも一役買うなど、戦後文化を華やかに彩った。
 「太陽の季節」を書いたのは一橋大在学中のこと。若者の無軌道な生き方を通して新しい価値観や感性を描き、主人公が性器で障子を破るシーンが賛否両論を巻き起こした。単行本はベストセラーとなり、映画化されて「太陽族」と呼ばれる若者たちも現れた。作家の髪形が社会現象となるほど流行したのも、文学史上に例がない。
 小説「狂った果実」の映画化を申し込まれた際に裕次郎さんの主演を条件にし、これが大スター誕生のきっかけに。裕次郎さんもまた、従来の権威に反抗するような型破りな若者として映画界を席巻した。その栄光と死を小説にした「弟」もベストセラーとなった。
 政界進出後も創作は続けた。親友だったフィリピンのべニグノ・アキノを襲った悲劇を描いた「暗殺の壁画」では、ヨットレースやベトナム戦争の戦場で石原さんが体験した生と死のあわいも作品に昇華させた。
 文壇での交流は晩年まで懐かしく思い出していた。中でも三島由紀夫との親交は有名で、石原さんの初期の長編を三島は評論で高く評価。石原さんは三島をボクシング観戦に案内するなど、私生活でも交わった。
 芥川賞選考委員を16年務めた。選考委員辞任の弁は「いつか若い連中が出てきて足をすくわれる戦慄(せんりつ)を期待したが、緊張感を覚える作品がない常に反逆者であろうとした作家らしい挑発的な言葉を残した。脳梗塞を患い、利手の左手の自由を失って以降も執筆を続け、終生にわたって作家であり続けた。
【静新令和4難2月2日(水)朝刊】
  

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