2008年02月25日
細川幽斎
細川幽斎
源氏物語千年:島内 景二
細川幽斎の個性的文学観
細川幽斎(一五三四-一六一〇年)は、中世の最後に現れた文武両道の巨人である。
足利将軍家の奉公衆、三淵晴員の子として生まれ(室町幕府第十二代将軍の足利義晴の子という説もある)、天下人である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と渡り合い、天下分け目の関ケ原の合戦を切り抜け、熊本藩五十四万石の基礎を築いた武人である。
文人としても偉大だった。彼は、藤原定家以来の中世の古典学を集大成しようとした。伊勢物語の解釈の歴史を一覧・整理したけつきしよう「闘疑抄」は、二十一世紀から見ても決定版と言える。
だが残念なことに、政道で多忙な幽斎には、源氏物語に関する膨大な解釈の歴史を取捨選択しながら集大成する時間がなかった。
そこで幽斎は、自分の芸術観を伝授した中院通勝(なかのいんみちかつ)に援助して、大著「眠江入楚」(みんこうにつそ)をまとめさせた。これは、中世源氏学の決定版である。
幽斎は、単に諸説を寄せ集めたのではない。彼は強烈にして個性的な文学観の持ち主だった。それでは、源氏物語をどう読んだのか。
キーワードは、二つある。一つは、宗祇以来の「平和を希求する心」。三人の天下人と親しく接し、彼らの栄枯盛衰を眺め続けた幽斎だからこそ、平和を待望する心は人一倍強かった。それが、伊勢物語や源氏物語にぶつけられた。
幽斎の文学観の二つ目のキーワードは「ユーモア精神」。戦乱に明け暮れた彼の心は、意外なほど温かかった。政治にも文学にも、緩急の使い分けが必要だと信じていたのだろう。
だから、光源氏は紫の上たちとまじめな生活を送るだけでなく、末摘花のようにコミカルな女性との交際を必要とした、と幽斎は考えた。
そして、ユーモラスな場面を「物語の誹譜(はいかい)」と呼んだ。誹譜は古今和歌集の和歌から始まり、中世の連歌を経て、近世では「俳譜」となって大輪の花を咲かせた。俳譜を大成した松尾芭蕉には、幽斎と同じく、「わび・さび」のまじめな姿勢と、滑稽(こつけい)な俳譜精神が同居していた。
中世の最良の文化は、細川幽斎というダムに集積し、近世の日本文化へと流れ出していった。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月25日「命をつないだ人々」)
源氏物語千年:島内 景二
細川幽斎の個性的文学観

足利将軍家の奉公衆、三淵晴員の子として生まれ(室町幕府第十二代将軍の足利義晴の子という説もある)、天下人である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と渡り合い、天下分け目の関ケ原の合戦を切り抜け、熊本藩五十四万石の基礎を築いた武人である。
文人としても偉大だった。彼は、藤原定家以来の中世の古典学を集大成しようとした。伊勢物語の解釈の歴史を一覧・整理したけつきしよう「闘疑抄」は、二十一世紀から見ても決定版と言える。
だが残念なことに、政道で多忙な幽斎には、源氏物語に関する膨大な解釈の歴史を取捨選択しながら集大成する時間がなかった。
そこで幽斎は、自分の芸術観を伝授した中院通勝(なかのいんみちかつ)に援助して、大著「眠江入楚」(みんこうにつそ)をまとめさせた。これは、中世源氏学の決定版である。
幽斎は、単に諸説を寄せ集めたのではない。彼は強烈にして個性的な文学観の持ち主だった。それでは、源氏物語をどう読んだのか。
キーワードは、二つある。一つは、宗祇以来の「平和を希求する心」。三人の天下人と親しく接し、彼らの栄枯盛衰を眺め続けた幽斎だからこそ、平和を待望する心は人一倍強かった。それが、伊勢物語や源氏物語にぶつけられた。
幽斎の文学観の二つ目のキーワードは「ユーモア精神」。戦乱に明け暮れた彼の心は、意外なほど温かかった。政治にも文学にも、緩急の使い分けが必要だと信じていたのだろう。
だから、光源氏は紫の上たちとまじめな生活を送るだけでなく、末摘花のようにコミカルな女性との交際を必要とした、と幽斎は考えた。
そして、ユーモラスな場面を「物語の誹譜(はいかい)」と呼んだ。誹譜は古今和歌集の和歌から始まり、中世の連歌を経て、近世では「俳譜」となって大輪の花を咲かせた。俳譜を大成した松尾芭蕉には、幽斎と同じく、「わび・さび」のまじめな姿勢と、滑稽(こつけい)な俳譜精神が同居していた。
中世の最良の文化は、細川幽斎というダムに集積し、近世の日本文化へと流れ出していった。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月25日「命をつないだ人々」)
2008年02月20日
菅沼武治氏「還暦留学記」
「還暦留学記」沼津市元職員 菅沼さん
英語習得へ単身渡米:異文化体験、生き生き
「夢は若者の特権ではない」ー。沼津市役所を定年を待たずに退職し、「英語をしゃべれるようになりたい」という夢を実現するため米国留学した菅沼武治さん(六二)=裾野市=がこのほど、「六十歳のボストン留学挑戦記」(文芸社、百五十七㌻、千百五十五円)を自費出版した。世界各国の若者と異国で過ごした"還暦の留学生"の姿が生き生きと描かれている。
十五年ほど前に欧米を視察旅行したのをきっかけに、英語を習得したいという気持ちが高まった。仕事の傍ら英語サークルで学んだものの、「一向に上達せず、勉強時間も満足に取れない」と留学を決意した。議会事務局長、監査委員事務局長などのポストを歴任したが、平成十七年三月、定年を一年残して退職、そのまま単身渡米し、ボストン大などで英語を学んだ。
授業の予習復習に追われる日々の生活、ニュースなどを通して体感した米国社会の矛盾、観光都市ボストンに学んだ観光施策の在り方など、本の内容は幅広い。「歴史認識をめぐって韓国人留学生に敵意をむき出しにされた」「年齢を理由に学生寮の入居を断られた」ーなど、思いがけない事態に戸惑った体験も紹介している。
菅沼さんは帰国後、沼津市社会福祉協議会が運営する市の交流施設一千本プラザ」の館長に。施設で趣味の発表を楽しむ高齢者の姿に触発され、留学体験をまとめて出版することを決めた。
肝心の英語は「まだ五合目」の自己評価だが、英語放送などでトレーニングを続ける。「高齢化が進み、定年後でも時間はたっぷりある。夢や目標を持ち、挑戦しなくてはもったいない」と同世代にエールを送る。
本は地元書店の店頭で取り扱っているほか、全国の書店で注文できる。
(静新平成20年2月20日(水)朝刊)
英語習得へ単身渡米:異文化体験、生き生き

十五年ほど前に欧米を視察旅行したのをきっかけに、英語を習得したいという気持ちが高まった。仕事の傍ら英語サークルで学んだものの、「一向に上達せず、勉強時間も満足に取れない」と留学を決意した。議会事務局長、監査委員事務局長などのポストを歴任したが、平成十七年三月、定年を一年残して退職、そのまま単身渡米し、ボストン大などで英語を学んだ。
授業の予習復習に追われる日々の生活、ニュースなどを通して体感した米国社会の矛盾、観光都市ボストンに学んだ観光施策の在り方など、本の内容は幅広い。「歴史認識をめぐって韓国人留学生に敵意をむき出しにされた」「年齢を理由に学生寮の入居を断られた」ーなど、思いがけない事態に戸惑った体験も紹介している。
菅沼さんは帰国後、沼津市社会福祉協議会が運営する市の交流施設一千本プラザ」の館長に。施設で趣味の発表を楽しむ高齢者の姿に触発され、留学体験をまとめて出版することを決めた。
肝心の英語は「まだ五合目」の自己評価だが、英語放送などでトレーニングを続ける。「高齢化が進み、定年後でも時間はたっぷりある。夢や目標を持ち、挑戦しなくてはもったいない」と同世代にエールを送る。
本は地元書店の店頭で取り扱っているほか、全国の書店で注文できる。
(静新平成20年2月20日(水)朝刊)
2008年02月20日
西山幸三郎氏(東海大開発工学部長)
東海大開発工学部長:西山幸三郎氏(にしやまこうざぶろう)(63)
時代担う技術者輩出
ー学部の教育方針を教えてください。
「教育、研究、社会貢献を目的に、地域での社会体験を重視した実践的な技術者の育成を目指している。企業での実習に単位を与え、学生が地域住民と町づくりを考えるプロジェクトに資金を出すなど、頭でっかちでない世の役に立つ人材を育てたいと考えている」
ー県東部唯一の理系大学として、地域での役割をどうとらえますか。
「技術は人に夢を与える力がある。高校生を招いたロボットコンクールや地元の環境イベントでの発明品展示は恒例となり、地域でも定着してきた。学生にとっても『人を幸せにする技術』の大切さを学ぶ場だ。また、本学部の五学科はどれも従来の学問を融合させた新しい研究領域で、リサイクルや介護機器の開発など時代が求める技術を学んでいる。企業のニーズを強く意識して、地元の産業を支える人材を輩出したい」
ー県東部地域の課題についてどのようにお考えですか。
「県内全体で高卒者の四分の三が県外に出て行く。地元の産業にとっても重大な問題だ。大学としてはここでしかできない研究を確立させ、意欲ある学生を引きつけなければならない。東部はファルマバレー構想があり産官学の連携が進んでいる。さらに発展させるため、市町合併を含めて地域の意思統一を求めたい」
(静新平成20年2月20日(水)「熱き地域人」)
時代担う技術者輩出

「教育、研究、社会貢献を目的に、地域での社会体験を重視した実践的な技術者の育成を目指している。企業での実習に単位を与え、学生が地域住民と町づくりを考えるプロジェクトに資金を出すなど、頭でっかちでない世の役に立つ人材を育てたいと考えている」
ー県東部唯一の理系大学として、地域での役割をどうとらえますか。
「技術は人に夢を与える力がある。高校生を招いたロボットコンクールや地元の環境イベントでの発明品展示は恒例となり、地域でも定着してきた。学生にとっても『人を幸せにする技術』の大切さを学ぶ場だ。また、本学部の五学科はどれも従来の学問を融合させた新しい研究領域で、リサイクルや介護機器の開発など時代が求める技術を学んでいる。企業のニーズを強く意識して、地元の産業を支える人材を輩出したい」
ー県東部地域の課題についてどのようにお考えですか。
「県内全体で高卒者の四分の三が県外に出て行く。地元の産業にとっても重大な問題だ。大学としてはここでしかできない研究を確立させ、意欲ある学生を引きつけなければならない。東部はファルマバレー構想があり産官学の連携が進んでいる。さらに発展させるため、市町合併を含めて地域の意思統一を求めたい」
(静新平成20年2月20日(水)「熱き地域人」)
2008年02月18日
三条西実隆
三条西実隆
源氏物語千年:島内景二
鋭く深い鑑賞力、三条西実隆
昨年末に出光美術館(東京・丸の内)で見た「乾山の芸術と光琳」は、名品ぞろいだった。中でも、尾形乾山(一六六三~一七四三年)が三条西実隆(一四五五~一五三七年)の和歌にヒントを得て描いた「花籠図」(重要又化財)は、見事なものだった。
三条西実隆は宗祇から古今伝授を受け、源氏物語の第一人者となった。実隆の子も孫も、一流の源氏学者としての業績を残し、「源氏学の家元」の観があった。
三条西家は、香道の「御家流」(おいえりゆう)家元でもある。江戸時代の香道は、「源氏香」という遊びを洗練させてゆく。実隆も、一条兼良や宗祇と同じく、乱世を生きた。
皮肉なことに、日本文化の最大の危機だった戦国時代に、源氏研究は飛躍的に進んだのだ。
危機の時代にこそ批評精神が育ち、研究は進展し、その成果が多くの人々にも恩恵を及ぼす。ちょうど、近代に入って外国語に堪能な教養人ですら九百年前の源氏物語が難解になった時代に、与謝野晶子が「口語訳」という画期的な"治療薬"を発明したように。
今年は、源氏物語千年紀だが、浮かれてばかりもいられない。この物語を、IT社会にふさわしいスタイルで一般読書人に手渡すための独創的なアイデアが、必要とされている。それには、三条西実隆ら先人の努力を参考にすべきだろう。
さて実隆の源氏研究のオリジナリティーは、「鑑賞」の鋭さと深さにあった。既に、この物語で用いられている語句、およびその出典、モデル、文脈、思想については、突き詰められていた。実隆はそれを踏まえ、一つ一つの文章に込められた作中人物と作者の思いをじっくり味わった。
芸術作品の生命に到達するためには、研ぎ澄まされた鑑賞力が必要とされる。光源氏や紫の上が抱いた巨大な悲哀感を、読者が自分の心に引き受けねば、源氏物語を読んだことにはならない。
粗筋をたどることに気を取られず、作品の進行を停止させて立ち止まる。登場人物の時間と心理を共有する。それに成功した読者は、登場人物の叫びや、作者のメッセージを明瞭(めいりよう)に聞き取れる。このような読み方を教えてくれたのが、実隆だった。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月18日「命をつないだ人々」)
源氏物語千年:島内景二
鋭く深い鑑賞力、三条西実隆

三条西実隆は宗祇から古今伝授を受け、源氏物語の第一人者となった。実隆の子も孫も、一流の源氏学者としての業績を残し、「源氏学の家元」の観があった。
三条西家は、香道の「御家流」(おいえりゆう)家元でもある。江戸時代の香道は、「源氏香」という遊びを洗練させてゆく。実隆も、一条兼良や宗祇と同じく、乱世を生きた。
皮肉なことに、日本文化の最大の危機だった戦国時代に、源氏研究は飛躍的に進んだのだ。
危機の時代にこそ批評精神が育ち、研究は進展し、その成果が多くの人々にも恩恵を及ぼす。ちょうど、近代に入って外国語に堪能な教養人ですら九百年前の源氏物語が難解になった時代に、与謝野晶子が「口語訳」という画期的な"治療薬"を発明したように。
今年は、源氏物語千年紀だが、浮かれてばかりもいられない。この物語を、IT社会にふさわしいスタイルで一般読書人に手渡すための独創的なアイデアが、必要とされている。それには、三条西実隆ら先人の努力を参考にすべきだろう。
さて実隆の源氏研究のオリジナリティーは、「鑑賞」の鋭さと深さにあった。既に、この物語で用いられている語句、およびその出典、モデル、文脈、思想については、突き詰められていた。実隆はそれを踏まえ、一つ一つの文章に込められた作中人物と作者の思いをじっくり味わった。
芸術作品の生命に到達するためには、研ぎ澄まされた鑑賞力が必要とされる。光源氏や紫の上が抱いた巨大な悲哀感を、読者が自分の心に引き受けねば、源氏物語を読んだことにはならない。
粗筋をたどることに気を取られず、作品の進行を停止させて立ち止まる。登場人物の時間と心理を共有する。それに成功した読者は、登場人物の叫びや、作者のメッセージを明瞭(めいりよう)に聞き取れる。このような読み方を教えてくれたのが、実隆だった。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月18日「命をつないだ人々」)
2008年02月18日
工藤栄一校長(沼四中)
工藤栄一校長
「小1から継続」理想

工藤栄一校長は前任の沼津市立原東小の校長時代にキャリア教育を始めた先駆者の一人。その意義や課題などを聞いた。
ーキャリア教育を進める理由は。
「学校は社会へ出るための準備をする場所
ということが最近、忘れられている。教師の役目は、それぞれが受け持つ教科を教えることだけではない。キャリア教育は、現在の学校教育を見直すことにつながる」
ー校内合唱大会にも力を入れていますね。
「これもキャリア教育の一つ。曲をクラスで話し合って決めたり練習の仕方を考えたりすることは、計画設計や意思決定、コミュニケーションの能力を養うことにつながる」
ー課題は?
「中学三年間では、行事がぎっしりと詰まっていてキャリア教育を行うゆとりがない。小学校一年生から継続して取り組むことが理想。現状では時間が足りないので、総合学習の時間をもっと増やしてほしい」
「小1から継続」理想

工藤栄一校長は前任の沼津市立原東小の校長時代にキャリア教育を始めた先駆者の一人。その意義や課題などを聞いた。
ーキャリア教育を進める理由は。
「学校は社会へ出るための準備をする場所
ということが最近、忘れられている。教師の役目は、それぞれが受け持つ教科を教えることだけではない。キャリア教育は、現在の学校教育を見直すことにつながる」
ー校内合唱大会にも力を入れていますね。
「これもキャリア教育の一つ。曲をクラスで話し合って決めたり練習の仕方を考えたりすることは、計画設計や意思決定、コミュニケーションの能力を養うことにつながる」
ー課題は?
「中学三年間では、行事がぎっしりと詰まっていてキャリア教育を行うゆとりがない。小学校一年生から継続して取り組むことが理想。現状では時間が足りないので、総合学習の時間をもっと増やしてほしい」
2008年02月13日
野口健さん
野口健さんに「植村冒険賞」
清掃登山を評価

二〇〇七年に優れた冒険をした人に贈られる「第十二回植村直己冒険賞」に十二日、中国側からのエベレスト登頂に成功し、山に残されたごみを回収する「清掃登山」にも取り組んだ登山家の野口健さん(三四)=東京都世田谷区=が選ばれた。
野口さんは、一九九九年にネパール側からエベレストに登頂。昨年五月、中国側からの登頂にも成功し、日本人で八人目とされる両ルートからの世界最高峰制覇を成し遂げた。二〇〇〇年からはエベレストや富士山などのごみ回収に取り組んでおり「登山家の実績と環境に目を配った活動」が評価された。
野口さんは、東京都内で開かれた発表式で今後も清掃登山などに取り組む意欲を示した。
(静新平成20年2月13日(水)朝刊)
清掃登山を評価

二〇〇七年に優れた冒険をした人に贈られる「第十二回植村直己冒険賞」に十二日、中国側からのエベレスト登頂に成功し、山に残されたごみを回収する「清掃登山」にも取り組んだ登山家の野口健さん(三四)=東京都世田谷区=が選ばれた。
野口さんは、一九九九年にネパール側からエベレストに登頂。昨年五月、中国側からの登頂にも成功し、日本人で八人目とされる両ルートからの世界最高峰制覇を成し遂げた。二〇〇〇年からはエベレストや富士山などのごみ回収に取り組んでおり「登山家の実績と環境に目を配った活動」が評価された。
野口さんは、東京都内で開かれた発表式で今後も清掃登山などに取り組む意欲を示した。
(静新平成20年2月13日(水)朝刊)
2008年02月13日
後藤全弘氏:沼津商議所会頭
沼津商議所会頭:後藤全弘(ごとうかねひろ)氏(75)
「マイスター制度」設立
ー県東部のコンベンションビューローの会長に就任されました。現在の活動状況と目標を聞かせてください。
「全国のビューローが集まる大会や東京で開かれたファルマバレープロジェクトの成果発表会に参加し、活動のPRを進めている。今後は沼津駅北口へのコンベンション施設の設置へ向けて県と連携するとともに、富士山静岡空港も積極的に支援し、東部での大規模会議などを実現したい」
ー沼津の中心地活性化のために必要なことは何でしょうか。
「歩行量の減少などの現状を重く受け止めなければならない。市が策定作業を進めている新たな中心市街地活性化基本計画が夏にも国の認定を受けると、推進役となる協議会での議論が本格化することになる。地域住民が主体となり、自分たちの中心地をどのようにしていくかという幅広い視点で、活性化策を考えるべきだと思う」
ー昨年の技能五輪はどのような効果を地元にもたらしましたか。
「多くの来場者が集まり、本当に驚いた。沼津でも大きなイベントを成功させられるーという自信が関係者にも生まれたのではないか。商議所としては大会を記念した『マイスター制度』の設立準備を進めている。幅広い世代にものづくりの魅力を伝える役割を担ってもらうことで、大会の遺産を残していきたい」
(静新平成20年2月13日「熱き地域人」)
「マイスター制度」設立

「全国のビューローが集まる大会や東京で開かれたファルマバレープロジェクトの成果発表会に参加し、活動のPRを進めている。今後は沼津駅北口へのコンベンション施設の設置へ向けて県と連携するとともに、富士山静岡空港も積極的に支援し、東部での大規模会議などを実現したい」
ー沼津の中心地活性化のために必要なことは何でしょうか。
「歩行量の減少などの現状を重く受け止めなければならない。市が策定作業を進めている新たな中心市街地活性化基本計画が夏にも国の認定を受けると、推進役となる協議会での議論が本格化することになる。地域住民が主体となり、自分たちの中心地をどのようにしていくかという幅広い視点で、活性化策を考えるべきだと思う」
ー昨年の技能五輪はどのような効果を地元にもたらしましたか。
「多くの来場者が集まり、本当に驚いた。沼津でも大きなイベントを成功させられるーという自信が関係者にも生まれたのではないか。商議所としては大会を記念した『マイスター制度』の設立準備を進めている。幅広い世代にものづくりの魅力を伝える役割を担ってもらうことで、大会の遺産を残していきたい」
(静新平成20年2月13日「熱き地域人」)
2008年02月13日
山口伸之さん
山口伸之(やまぐちのぶゆき)さん:松崎町
「さくら葉金目鯛」で知事賞

ー商品を開発しようとしたのはなぜですか。
「松崎町が全国一の生産量を誇る桜葉の塩漬けと、伊豆特産の金目鯛を使った名物を作りたかった。桜葉の風味付けが難しく、開発に二年間かりました」
ー特徴と受賞の感想を聞かせてください。
「焼くと桜葉のほんのり甘い香りが楽しめ、冷めてもおいしく食べられるのが特徴です。真空パックで冷凍すれば二、三カ月は保存できる。正直、知事賞を取れる自信はなかったですが、本当に良かったです」
ー今後、どのように売り出していきますか。
「今回の受賞を機に、他地域への販路拡大を目指したいです。そして、松崎や伊豆の名前が多くの場所で広がっていけばうれしいですね」
◇
東京のすし屋で修業をした経験もある。
(静新平成20年2月13日「この人」)
2008年02月09日
原田 浩さん
沼津青年会議所 2008年度理事長
原田浩(はらだひろし)さん(沼津市)
二〇〇一年にJCメンバーとなり、副理事長、専務理事を経て理事長に就任した。現在の会員数は七十二人。一般貨物自動車運送事業の原田物産代表取締役。三十七歳。
ー抱負を聞かせて下さい。
「〇八年度はチャレンジングスピリットー高き志をもち、更なる飛躍へーがスローガンです。地域性を生かした、新しい沼津のにぎわい発信や会員拡大などに挑戦したい。事業を通じてJCの魅力をアピールします」
ーにぎわい創出の具体案はありますか。
「二十一年間、沼津JCが主催してきた海人祭カッターレースは昨年で終了しました。沼津アルプス、狩野川、県最長六十㌔に及ぶ海岸線などの資源を再認識した上で沼津のにぎわい創出に向けての責任を果たしたい」
ー青少年育成への取り組みは。
「次代を担う子どもたちが人の温かさに触れ、自分の育ったまちに誇りを持てるような地域創造を目指したい。今年は近隣JCと連携し、広域的な視点で取り組みます」
「すごいガッツのある入間」が周囲の人物評。
(静新平成20年2月9日(土)「この人」)
原田浩(はらだひろし)さん(沼津市)

ー抱負を聞かせて下さい。
「〇八年度はチャレンジングスピリットー高き志をもち、更なる飛躍へーがスローガンです。地域性を生かした、新しい沼津のにぎわい発信や会員拡大などに挑戦したい。事業を通じてJCの魅力をアピールします」
ーにぎわい創出の具体案はありますか。
「二十一年間、沼津JCが主催してきた海人祭カッターレースは昨年で終了しました。沼津アルプス、狩野川、県最長六十㌔に及ぶ海岸線などの資源を再認識した上で沼津のにぎわい創出に向けての責任を果たしたい」
ー青少年育成への取り組みは。
「次代を担う子どもたちが人の温かさに触れ、自分の育ったまちに誇りを持てるような地域創造を目指したい。今年は近隣JCと連携し、広域的な視点で取り組みます」
「すごいガッツのある入間」が周囲の人物評。
(静新平成20年2月9日(土)「この人」)
2008年02月07日
江川滉二さん(東大名誉教授)
江川滉二さん
江戸時代の代官屋敷そのままの江川家住宅(伊豆の国市韮山韮山、国指定重要文化財)。新しい年は具足開きで始まった。
正月、甲冑(かつちゆう)(現在は書院)に供えた鏡餅(もち)を下げて割り、汁粉にして郎党らに振る舞う。代官の家の年中行事は今も生きている。

一月十四日。築四百年の主屋(しゅおく)。釘を使わない小屋組みの高い天井が見事な土間でかまどの一つに湯を沸かす火が入る。上がり口に紅白の鏡餅を置き斧(おの)で割る。真っ先に四十一代当主の江川滉二さん(七〇)=東京在住、東京大名誉教授=。餅は円形で厚い。何人もの斧を必要とした。
「かつては大和(奈良県)から伊豆韮山への移住に同行した金谷十三人衆だけ。十数年前から区全体(六十七戸)に参加を呼び掛けている」と金谷区長の大原幹雄さん(六〇)。金谷地区にある江川家の菩提寺本立寺でのお会式や邸内の井戸がえ(清掃)など「切っても切れない」(大原さん)関係が続く。
▽江川家 大和国(奈良県)から韮山に移住。鎌倉幕府や後北条に仕え、宇野姓を江川に。江戸時代は世襲代官に任じられ駿河、伊豆、相模、武蔵、甲斐の天領を治める。現存の江川邸は10棟余からなり主屋は1600年前後の再建。明治初期には韮山県庁。戦後解体修理を行った。NHK大河ドラマ「篤姫」では今和泉島津家の撮影地。韮山駅から蛭ケ小島、韮山城跡、江川邸、反射炉を巡り、伊豆長岡駅まで坦庵思索の路がある。坦庵は兵糧パンを焼きパン祖とされる。2月2、3日はパン祖のパン祭(伊豆の国市)。問い合わせは伊豆の国観光協会〈電055(948)0304〉へ。
(静新平成20年1月28日「古道をいく」)
江戸時代の代官屋敷そのままの江川家住宅(伊豆の国市韮山韮山、国指定重要文化財)。新しい年は具足開きで始まった。
正月、甲冑(かつちゆう)(現在は書院)に供えた鏡餅(もち)を下げて割り、汁粉にして郎党らに振る舞う。代官の家の年中行事は今も生きている。

一月十四日。築四百年の主屋(しゅおく)。釘を使わない小屋組みの高い天井が見事な土間でかまどの一つに湯を沸かす火が入る。上がり口に紅白の鏡餅を置き斧(おの)で割る。真っ先に四十一代当主の江川滉二さん(七〇)=東京在住、東京大名誉教授=。餅は円形で厚い。何人もの斧を必要とした。
「かつては大和(奈良県)から伊豆韮山への移住に同行した金谷十三人衆だけ。十数年前から区全体(六十七戸)に参加を呼び掛けている」と金谷区長の大原幹雄さん(六〇)。金谷地区にある江川家の菩提寺本立寺でのお会式や邸内の井戸がえ(清掃)など「切っても切れない」(大原さん)関係が続く。
▽江川家 大和国(奈良県)から韮山に移住。鎌倉幕府や後北条に仕え、宇野姓を江川に。江戸時代は世襲代官に任じられ駿河、伊豆、相模、武蔵、甲斐の天領を治める。現存の江川邸は10棟余からなり主屋は1600年前後の再建。明治初期には韮山県庁。戦後解体修理を行った。NHK大河ドラマ「篤姫」では今和泉島津家の撮影地。韮山駅から蛭ケ小島、韮山城跡、江川邸、反射炉を巡り、伊豆長岡駅まで坦庵思索の路がある。坦庵は兵糧パンを焼きパン祖とされる。2月2、3日はパン祖のパン祭(伊豆の国市)。問い合わせは伊豆の国観光協会〈電055(948)0304〉へ。
(静新平成20年1月28日「古道をいく」)
2008年02月06日
小山真人:静岡大学教育学部教授
連動なくても対策必要
小山真人:静岡大学教育学部教授

江戸時代の一七〇七年に起きた富士山宝永噴火について、十二月十一日の本コラムで解説した。宝永噴火は、同じ年に起きた宝永東海地震のわずか四十九日後に始まったという点でも、特筆すべき事件である。古記録をひもとくことにより、宝永東海地震の発生前後から富士山の山中で火山性とみられる小地震が起き始め、やがてその一部がふもとの村で鳴動として感じられたことがわかった。
そして、噴火の前日午後から激しい群発地震が起き始め、翌日の噴火開始に至った様子が明らかとなっている。こうした経過から、一七〇七年の事例においては東海地震と富士山噴火が、何らかの力学的因果関係によって連動して発生したと判断できる。
しかしながら、宝永地震に先立つ一七〇三年元禄関東地震の直後にも富士山から鳴動が聞こえたとする記録が残されているが、このとき富士山は噴火にまで至らなかった。さらには、一八五四年安政東海地震や一九二三年大正関東地震をはじめ、富士山の近くで起きる大地震が富士山の火山活動に何らかの変化を与えたと疑われる例がいくつかあるが、宝永東海地震のように確実に富士山噴火と連動したと言いきれるものは見つかっていない。しかも、大地震はいつも火山活動を高めるわけではなく、逆に低下させて噴火を先延ばしさせる場合もあることが理論的にわかっている。そもそも大地震と火山噴火は独立の現象であり、両者は互いの助けがなくても、それぞれ勝手に活動を続けられる。
以上のことから、一七〇七年の事例では、富士山の地下のマグマが噴火の準備をすっかり整えていたところに、たまたま東海地震が発生し、噴火への最後のひと押しをしたとみるのが自然である。だから、将来起きる東海地震が、必ず富士山噴火の引き金を引くというわけではない。
しかしながら、江戸時代と異なり、現在の富士山には高感度の機器観測網が展開されている。将来、富士山の近くで大きな地震が生じた際に、こうした観測網が富士山の火山活動の高まりを検知する可能性は十分にある。そして、たとえ噴火に至らなくても、そのような富士山の火山異常は社会に大きなインパクトと混乱を与え、場合によっては風評被害を引き起こすだろう。
つまり、噴火がなくても、地元は地震とのダブルパンチを受けるわけである。そのような事態に至らないために、火山活動が静穏な今こそ、火山としての富士山の正しい理解を市民に広めるとともに、いざ異常が生じた際に正確な情報をすばやく調査・広報する体制の整備を図っていく必要がある。
(静新平成20年2月6日「時評」)
2008年02月04日
青木勝幸さん
バンデロール(沼津市)第2営業部長
青木勝幸(あおきかつゆき)さん
首都圏の販路拡大目指す
大手パンメーカーから沼津市に本部を置く沼津ベーカリー関連の「バンデロール」に移って十年。首都圏への販路拡大を目指して昨年十二月、横浜市内にあったオフィスを東京・大井町に移した。川崎市出身、四十四歳。
ー都内にオフィスを移した狙いを教えてください。
「現在、首都圏の店舗は二十二。店長会議を開く際に集まりやすいアクセスの良さがありました。情報を発信するにはやはり東京。近隣には競合店もあり、情報収集をしやすいという利点もあります」
ー首都圏の魅力は何でしょう。
「首都圏での売り上げは会社全体の四割。三月から五月にかけて新たに店舗をオープンさせる予定です。一店舗当たりの売り上げが高く、利益額も大きいのが魅力。一方でお客さんの要求が高いのも事実で、周囲との競合に知恵を出さなければ生き残っていけません」
ー首都圏での販売戦略を教えてください。
「焼きたてのパンを試食いただき、買っていただく。商品の見せ方、販売には自信があります。さらに品質を高めていく努力を続けていきたいと思います。将来的には、レストランを兼ねた路面店舗を展開したいと考えています」
ー業界の課題はありますか。
「従業員数は減少傾向にあります。少人数でも店舗運営できるように仕組みを変えていく必要があります。原油高で小麦やチーズの値段が高騰しています。昨年十二月に一部商品の値上げをしましたが、四月にもう一度見直さざるを得ない現状です」
(静新平成20年2月4日「インタビュー」)
青木勝幸(あおきかつゆき)さん
首都圏の販路拡大目指す

ー都内にオフィスを移した狙いを教えてください。
「現在、首都圏の店舗は二十二。店長会議を開く際に集まりやすいアクセスの良さがありました。情報を発信するにはやはり東京。近隣には競合店もあり、情報収集をしやすいという利点もあります」
ー首都圏の魅力は何でしょう。
「首都圏での売り上げは会社全体の四割。三月から五月にかけて新たに店舗をオープンさせる予定です。一店舗当たりの売り上げが高く、利益額も大きいのが魅力。一方でお客さんの要求が高いのも事実で、周囲との競合に知恵を出さなければ生き残っていけません」
ー首都圏での販売戦略を教えてください。
「焼きたてのパンを試食いただき、買っていただく。商品の見せ方、販売には自信があります。さらに品質を高めていく努力を続けていきたいと思います。将来的には、レストランを兼ねた路面店舗を展開したいと考えています」
ー業界の課題はありますか。
「従業員数は減少傾向にあります。少人数でも店舗運営できるように仕組みを変えていく必要があります。原油高で小麦やチーズの値段が高騰しています。昨年十二月に一部商品の値上げをしましたが、四月にもう一度見直さざるを得ない現状です」
(静新平成20年2月4日「インタビュー」)
2008年02月04日
一条兼良
「一条兼良」
源氏物語千年:島内景二
一条兼良、近代的研究の源
一四六七年に応仁の乱が起き、下克上の戦国時代が始まった。信じられるのは、自分の目で見、自分の耳で聞いたものだけ。混乱とひきかえに、合理的精神が日本全国に広く行き渡った。
合理主義者が、古典を読んだらどうなるか。例えば伊勢物語に「女」とあれば、ただの「女」と解釈すべきで、二条の后がモデルだとか小野小町のことだとか空想するのはもってのほか、ということになる。
それが、一条兼良(一四〇二ー一四八一年)の信条だった。合理主義者の彼は、足利義政の妻で、実質的な幕府の最高権力者、日野富子に取り入った。「日本はアマテラス以来、女性が支配者だとうまく治まる」などと、著書で述べている。
兼良は、関白太政大臣まで上りつめた。しかも、「学問の神様」である菅原道真よりも自分の知識量が優れていると自負していた。彼が著した「花鳥余情」(かちようよせい)には、「我が国の至宝は、源氏の物語に過ぎたるはなかるべし」とある。
おそらく、自分以前の源氏研究は不十分で、自分が史上初めて、源氏物語が宝であるゆえんを解明したと信じたのだろう。ここに、近代的な源氏研究の源がある。
兼良が得意としたのは、「文脈」と「分類」の二つ。彼以前の研究は、「語釈=単語」にとどまっていた。言葉は、単語が連なった文章となって初めて意味を持つ。同じ言葉でも、文脈次第で意味が変わってくる。
四辻善成の研究で、一つの単語はすべての個所で同じ意味だとされていたのとは段違いである。
兼良の優れた分析力は、五十四の巻名を四つに分類した点に表れている。「その巻の歌の言葉から取った」「その巻の散文の言葉」「和歌にも散文にもある」「和歌にも散文にもない」の四分類である。これは、現代の市販されているほとんどすべてのテキストに踏襲されている。
一族が血で血を洗い、平和が失われた時代に、現在の高等学校の古文教育上の「基本理念」が確立していたのである。兼良は、源氏物語を近代人の解釈にたえる古典にまで高めた恩人である。だが、夢や空想力が失われた側面もある。ここが、源氏物語の分岐点だったかもしれない。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月4日「命をつないだひとたち」)
源氏物語千年:島内景二
一条兼良、近代的研究の源
一四六七年に応仁の乱が起き、下克上の戦国時代が始まった。信じられるのは、自分の目で見、自分の耳で聞いたものだけ。混乱とひきかえに、合理的精神が日本全国に広く行き渡った。

それが、一条兼良(一四〇二ー一四八一年)の信条だった。合理主義者の彼は、足利義政の妻で、実質的な幕府の最高権力者、日野富子に取り入った。「日本はアマテラス以来、女性が支配者だとうまく治まる」などと、著書で述べている。
兼良は、関白太政大臣まで上りつめた。しかも、「学問の神様」である菅原道真よりも自分の知識量が優れていると自負していた。彼が著した「花鳥余情」(かちようよせい)には、「我が国の至宝は、源氏の物語に過ぎたるはなかるべし」とある。
おそらく、自分以前の源氏研究は不十分で、自分が史上初めて、源氏物語が宝であるゆえんを解明したと信じたのだろう。ここに、近代的な源氏研究の源がある。
兼良が得意としたのは、「文脈」と「分類」の二つ。彼以前の研究は、「語釈=単語」にとどまっていた。言葉は、単語が連なった文章となって初めて意味を持つ。同じ言葉でも、文脈次第で意味が変わってくる。
四辻善成の研究で、一つの単語はすべての個所で同じ意味だとされていたのとは段違いである。
兼良の優れた分析力は、五十四の巻名を四つに分類した点に表れている。「その巻の歌の言葉から取った」「その巻の散文の言葉」「和歌にも散文にもある」「和歌にも散文にもない」の四分類である。これは、現代の市販されているほとんどすべてのテキストに踏襲されている。
一族が血で血を洗い、平和が失われた時代に、現在の高等学校の古文教育上の「基本理念」が確立していたのである。兼良は、源氏物語を近代人の解釈にたえる古典にまで高めた恩人である。だが、夢や空想力が失われた側面もある。ここが、源氏物語の分岐点だったかもしれない。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月4日「命をつないだひとたち」)