2024年02月26日

石井直樹氏(いしい・なおき)元下田市長)

石井直樹氏(いしい・なおき)元下田市長)
22日午後5時43分、慢性心不全のため神奈川県海老名市の病院で死去、79歳。下田市出身。自宅は下田市西中。通夜は26日午後6時から、葬儀・告別式は27日午前11時から、下田市吉佐美1077の1のJAふじ伊豆メモリアル吉佐美で。喪主は妻久子(ひさこ)さん。
2000年の市長選で初当選し、12年まで3期務めた。15年には旭日小綬章を受けた。
【静新令和6年2月24日(土)朝刊訃報】
  

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2023年12月21日

訃報 市川厚氏

市川厚氏(いちかわ・あつし)i市川厚氏

=石川建材工業相談役、元沼津商工会議所会頭)18日、肺炎のため沼津市内の病院で死去、89歳。沼津市出身。自宅は沼津市吉田町30の3。通夜は22日午後6時から、葬儀は23日午前10時半から、沼津市大岡2170のlの大岡平安典礼会館で。喪主は妻由喜子(ゆきこ)さん。
 1990年から2006年まで石川建材工業社長、10年から16年まで沼津商工会議所会頭を務めた。沼津駅の高架化を実現する市民の会の会長を担った。
【静新令和5年12月20日(水)訃報】
  

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2023年12月02日

三木卓さん逝く

三木卓さん逝く
三木卓
  

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2023年09月06日

福原義春さん死去 92歳  元資生堂社長・会長

福原義春さん死去 92歳
 元資生堂社長・会長
福原義晴

 国内化粧品トップ資生堂の社長、会長を歴任し、芸術文化活動を支援する文化人経營者としても知られた同社名誉会長の福原義春(ふくはら・よしはる)さんが8月30日午後2時0分、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
 資生堂が5日発表した。創業者福原有信氏の孫で、慶応大卒業後の1953年に資生堂に入社。取締役外国部長などを経て87年に社長に就任した。化粧品の値崩れ要因となっていた過剰な流通在庫を大幅に圧縮する経営改革を断行。社員公募による経営改革室の設置や、社員が働きやすい制度の導入といった先進的な取り組みも進めた。
 中国に合弁の化粧品会社を設立するなど海外での販売拡大を推進し、資生堂を世界的な企業に成長させる基盤を築いた。同社が小売店に対して定価販売を求めたことが独禁法違反に当たると公正取引委員会に指摘された際には、勧告の受け入れを決断。化粧品業界で定価廃止の動きが広がり、消費者が安価に入手できるきっかけとなった。
 97年に会長となり、2001年に名誉会長に退いた。東京商工会議所副会頭や企業メセナ協議会会長、東京都写真美術館長など多くの公職を務めた。著名な文化人として講演や執筆も積極的に手がけ、洋ラン栽培や写頁撮影など趣味も多彩だった。
 経営者と同時に文化人
評伝 フランスのメディアに個人財産がどれほどあるかを尋ねられた際、こう切り返した。
「唯一の財産はエスプリ(精神)」。物質的な富とは異なる自らの知性、心情こそが蓄えだと表現した。8月30日に死去した資生堂の元社長福原義春さんは、家業を世界的企業に育て上げた経営者であると同時に、一流の文化人、評論家でもあった。
 幼少の頃は植物学者か遺伝学者になりたかった。趣味の写真も書籍の表紙を飾るほどの腕前だったが、創業者の孫として生まれた福原さんに「職莱選択の自由はなかった」。慶応大で経済学を学び、大学新卒の定期採用1期生として家業である資生堂に入社した。
 入社後は国内で総合化粧品ブランドの商品企画や宣伝に携わり、大規模な広告展開を通じて販売拡大につなげる経験を積んだ。経営難だった米子会社再建に奔走し、世界展開の礎となったフランスや中国進出の足掛かりもつくった。
 社長就任は1987年。当時の大野良雄社長が急死し、56歳でかじ取りを任された。記者会見で「突然大波が来て、一人だけ岸に打ち上げられたような気がする」と不安な心情を吐露したが、いずれ資生堂のトップを継ぐことは避けがたい運命だった。
 不良在庫の圧縮や経営改革室の設置など合理化を進め、経営者として手腕を発揮したが、福原さんの人間性がうかがえる象徴的な取り組みは「さん付け活動」だ。上司を役職名で呼ぶ慣習を見直し、上下関係に縛られない企業風土を育んだ。育児休業の推進をはじめ、女性の働きやすさに目配りを欠かさなかった。当時を知る社員が思い起こすのは、硬直した社内制度を改めようと尽力した変革者としての姿だ。
 他方、企業による文化支援にも熱心に取り組んだ。ヒト、モノ、カネのほか、企業又化を重要な経営の要素と捉え、芸術振興に心血を注いだ。仕事で接した社員には直筆の手紙を出すなど、こまやかな心の持ち主だった。洋ラン栽培を好み、2001年に名誉会長に退いた後は著述や講演で精力的に動き回った。
【静新令和5年9月6日(水)朝刊】
  

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2023年06月22日

 牛尾治朗さん死去 ウシオ電滊創業社元同友会代表幹事92歳

 牛尾治朗さん死去
ウシオ電滊創業社元同友会代表幹事92歳
 元経済同友会代表幹事でウシオ電機創業者の牛尾治朗(うしお・じろう)さんが13日午前2時55分、誤嚥(こえん)性肺炎のため死去した。92歳。兵庫県出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行った。後日お別れの会を行う予定。
 1953年に東京大法学部を卒業し、東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行。64年にウシオ電機を設立して社長、69年には日本青年会議所会頭に就任するなど、若手財界人のホープとして注目された。政府税制調査会などで財界きっての理論家として活躍した。
 リクルート事件で未公開株譲り受けの責任を取り、88年に経済同友会の副代表幹事を辞任、財界活動から身を引いた時期もあったが、95年から99年は経済同友会の代表幹事を務め、規制緩和による民間主導の経済への転換を主張した。
 2000年にはKDDとDDIなどが合併して発足したKDDIの会長に就任。当時の小泉純一郎首相のブレーンとして、政府の経済財政諮問会議で民間議員を務めた。故安倍晋三元首相とも親交が深かった。
 03年に社会経済生産性本部(現・日本生産性本部)の会長に、06年にはその後民営化した日本郵政の取締役に就任した。東日本大震災後には当時、国際協力機構(JICA)理事長だった故緒方貞子さんらとともに経済界、労働界などを横断する提言組織「日本アカデメイア」を設立して危機克服を訴えた。
 半世紀以上にわたって経営をけん引したウシオ電機の会長を20年5月に退き、同9月には取締役を退任した。
 同友会の新浪剛史代表幹事は21日「生涯をかけて改革に果敢に挑戦し続け、日本経済の発展に貢献された」と哀悼するコメントを発表した。日本経済がバブル崩壊後の不良債権問題とグローバル化に直面して大変革を迫られた時代に、民間活力を引き出す構造改革を強力に後押ししたと功績を振り返った。

 傍流ゆえに姿勢貫く

 牛尾治朗さん 土光臨調、小泉改革
評伝 13日死去した牛尾治朗さんは、半世紀を超えて政財界を結ぶ「回廊」の役割を果たした。若手の頃から三木武夫、大平正芳ら自民党実力者を囲む勉強会にいくつも参加してきた。
 当時のことを聞くと「若い頃から哲学が好きで生意気だった。青くさいのが好きな政治家がいたんだよ」と、はにかむような笑顔を見せた。
 東京大の学生時代から、陽明学者の安岡正篤に師事する一方で、サルトルを読みこなす。米西海岸に留学し、新興産業の力強さを知り、市場主義に目をひらかされた。
 日本興業銀行(現みずほ銀行)頭取だった中山素平氏に誘われ、経済同友会を舞台に活動した。重厚長大の大企業トップが支配する財界を「老害」と批判した度胸は、並大抵ではなかった。
 中堅企業の経営者だから財界では肩身が狭かったはずだが、「傍流」「異端」だったからこそ、長いものに巻かれることなく、改革志向を貫くことができたのだろう。
 土光敏夫氏が会長だった第2次臨時行政調査会では、改革に向けた議論を後退させないため「暴れ馬」の役割を担った。「全体をまとめる責任を負った土光さんが、僕には自由に発言させてくれた」という。
 牛尾さんが真価を発揮したのは小泉純一郎首相の時代だ。改革志向の小泉氏と波長が合ったのだろう。市場重視の政策や規制緩和を支持し、政権の人事なども水面下で相談を受けた。学者から政界入りした竹中平蔵氏の後ろ盾にもなった。
 安倍晋三氏とは縁戚関係にあり、最初に首相になった時には、財界人や経済学者を紹介することも多かった。しかし2012年の自民党総裁選に安倍氏が出馬した時は、自重を求める側に回り、第2次政権では、やや関係が遠のいたようだ。
 政財界の指導者を育てるのにも熱心だった。12年に亡くなった、りそなホールディングス会長の細谷英二氏への信頼は厚かった。政財官を集めた改革志向のフォーラムを二人三脚で準備し、現在の「令和臨調」につながる流れを生んだ。
 晩年は表舞台に姿を見せることはなくなった。それでも安倍政権で規制や農政の改革に関わった金丸恭文フユーチャー会長兼社長らが周囲に集った。
 財界主流と一線を画した牛尾さんの改革の歩みは、ベンチャー出身の経営者らを引きつけ、最後まで色あせることはなかった。
【静新令和5年6月22日(木)朝刊】
牛尾治朗
  

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2023年06月12日

訃報 青木幹雄氏

訃報 青木幹雄氏
青木幹雄氏 訃報

内閣官房長官や自民党の参院議員会長などを務め、「参院のドン」とも呼ばれた青木幹雄氏が亡くなりました。89歳でした。
関係者によりますと、青木幹雄元官房長官がきのう亡くなりました。89歳でした。
青木氏は、竹下登元総理の秘書を務めた後、1986年の参議院選挙で初当選。1999年に小渕内閣で初入閣し、官房長官に就任しました。
翌2000年に当時の小渕総理が緊急入院し意識不明になった際には、首相臨時代理として内閣総辞職を判断しました。
その後も自民党の参議院幹事長や参院議員会長など要職を歴任し、小泉政権時代には小泉元総理を牽制しながらも支え続けたことで、参院自民党の人事・運営を掌握。「参院のドン」と呼ばれました。
2010年に政界を引退しましたが、その後も自民党内に大きな影響力を与えた政治家の一人です。(TBSWEBニュース)
  

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2023年05月20日

植松靖博氏逝去

 植松靖博氏(うえまつ・やすひろ=植松本家十三世当主)は18日、病気のため療養先で死去した。84歳。自宅は原。
植松靖博氏

 通夜が21日午後6時から、葬儀・告別式は22日午前11時半から、いずれも天翔苑原で行われる。喪主は妻の須賀子さん。
 通夜、葬儀は家族葬で行うが、一般の弔問を21日午後4時半から5時半まで受け付ける。
 植松本家の「帯笑園」は往時、東海の名園と言われ、2011年9月、国登録記念物(名勝地関係)として文化財登録され、その後、市が取得。一部を整備して19年4月に改めて開園されたが、帯笑園保存会が中心となった保存と顕彰活動に植松氏も顧問として参加した。
 昨年、植松氏が帯笑園の古文書を整理中、三代目杵屋正次郎が同園を題材に作ったと記された長唄「松の翁」の直筆長唄本を発見。富士市の庭園が題材だと伝えられてきた長唄界の定説を翻す歴史的発見となった。
 さらに、杵屋作十郎による1863(文久3)年作の筆書きの長唄本『駿河土産」を発見して復曲を依頼。今年1月に開かれたNPO法人レザミ・デ・ザールの設立記念公演で上演され、160年の時を超えて現代に蘇った。
【沼朝令和5年5月20日(土)号】
  

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2023年05月10日

田上博氏(たがみ・ひろし)=元市議会議長)は4月29日、老衰のため死去した。

 田上博氏(たがみ・ひろし)=元市議会議長)は4月29日、老衰のため死去した。97歳。自宅は中沢田。葬儀・告別式は親族で行った。
 1925年(大正14)、幸町に生まれ、現在の二小から静岡工を経て山梨工専(現・山梨大学工学部)を卒業。二中、精華高(現・沼津中央高)、沼工で数学の教諭を務めた。
 家業を継ぐために退職した後、29歳で市議に当選。2007年の市議選で当選したのを最後に引退。この間、市長選に出馬する(落選)など議席を離れる期間もあったが、80代半ばまで通算13期にわたって市議を務め、議長職に3回就いた。
 12期目の在職中、全国に先駆けて一般会計、特別会計2つの予算決算委員会の常任委員会化の条例制定に尽力し実現させるなど議会改革に積極的に取り組んだのをはじめ、市政や市議会に関する分野の勉強量は人一倍。分からないことがあれば県庁に出向いて講義を受けるほどの姿勢を基礎に委員会審査では当局の答弁を詰まらせることもしばしばで、沼津市議会の一時代を築いた-人。【沼朝令和5年5月10日(水)号】
  

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2022年12月05日

訃報 一杉真城氏

一杉真城氏
一杉真城氏(ひとすぎ・まさき=ヒトスギ塾前会長、本名三浦真城=みうら・まさき)
1日午後7時52分、急性リンパ性白血病のため長泉町の県立静岡がんセンターで死去、77歳。
旧満州(現中国東北部)生まれ。自宅は沼津市。儀・告別式は近親者で行い、お別れの会を5日午後3時半から同5時半まで、沼津市鳥谷497の光厳寺で開く。喪主は妻和子(かずこ)さん。
1963年、沼津市で学習塾「ヒトスギ塾」の前身となる英数教室を創業。静岡新聞社・静岡放送「サンフロント21懇話会」の運営委員として尽力した。
【静新令和4年12月5日(月)朝刊 訃報蘭】
  

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2022年05月29日

神谷聰一郎さん死去

 神谷聰一郎さん死去神谷総一郞氏逝去

  元静銀頭取、静岡商議所会頭 88歳
 元静岡銀行頭取で静岡商工会議所会頭などを務めた神谷聰一郎(かみや.そういちろう)氏が11日、死去した。88歳。葬儀は家族のみで行った。
 慶大経済学部卒。1956年静岡銀入行。取締役東京支店長、常務、専務を経て93年から6年間、第8代頭取を務めた。邦銀の中でいち早くディスクロージャー(情報開示)に取り組み、地方銀行屈指の収益力水準に育てた。バブル経済下でも堅実経営を貫き、95年には米格付け会社から邦銀最高の格付けを獲得。財務内容の健全性が高く評価された。
 会長時代の2001年から05年までは静岡商工会議所会頭を務めた。経済界の立場から旧静岡、清水両布の合併推進を働き掛け、中小企業支援などにも力を注いだ。
 1996年に本紙窓辺を執筆した。
 静岡銀行は、お別れの会の開催は未定としている。
 「地域経済に貢献」
 県内経済界から悼む声
 元静岡銀行頭取の神谷聰一郎氏の訃報が伝わった27日、県内経済界からは地域振興に尽力した神谷氏を悼む声が相次いだ。
 中西勝則静岡銀会長は一地域経済の発展に貢献することを自らの使命とし、他に先んじて新たな取り組みを推進する静岡銀の伝統を先頭に立って体現した。大きな精神的支えを失った悲しみは大きい」としのんだ。
 静岡商工会議所の酒井公夫会頭は「旧静岡市と旧清水市の合併、政令指定都市化を経済界のトップとして実現に導いていただいた。強いリーダーシップで静岡の経済をリードしたことに改めて感謝したい」と功績をたたえた。
 富士山静岡空港株式会社の役員を共に長く務めるなど、交流を深めたスズキの鈴木修相談役は「温厚篤実な人柄で、模範となる経営者だった」と別れを惜しんだ。
【静新令和4年5月28日(土)朝刊】
  

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2022年05月29日

 熊崎勝彦さん死去 元東京地検特捜部長

 熊崎勝彦さん死去 元東京地検特捜部長
 東京地検特捜部長やプロ野球のコミッショナーを務めた熊崎勝彦(くまざき・かつひご)さんが13日、心不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。岐阜県出身。葬儀・告別式は家族で執り行った。喪主は長男章記(あきのり)さん。
 特捜部に長く在籍し、「汚職捜査のプロ」と呼ばれた。リクルート事件やゼネコン汚職などで捜査の中心を担い、故金丸信・元自民党副総裁の脱税事件では金丸氏を取り調べ、自供を引き出した。1996年から特捜部長を務め、旧四大証券などの総会屋利益供与事件、大蔵省汚職事件を指揮した。富山地検検事正、前橋地検検事正、最高検公安部長などを歴任し2004年に退官した後、弁護士となった。 05年からはプロ野球のコミッショナー顧問を務め、暴力団排除や不正なスカウト活動の防止を推進。14年に第13代コミッショナーに就任し、巨人選手による野球賭博問題への対応などで手腕を発揮した。
 20年5月には特捜部OBらとともに、政府の判断で検察官の定年延長を可能とする検察庁法改正累に再考を求める意見書を当時の法相に宛てて提出した。
【静新令和4年5月28日(土)朝刊】
熊崎勝彦氏逝去
  

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2022年05月05日

ノーマン・ミネタ氏死去 90歳

 ノーマン・ミネタ氏死去 90歳
 日系初の米閣僚収容所経験ノーマンミネタ氏

 ノーマン・ミネタ元米運輸長官が3日、心臓病のために東部メリーランド州の自宅で死去した。90歳だった。ミネタ氏の元補佐官が明らかにした。日系初の米閣僚としてクリントン民主党政権下の2000~01年に商務長官、ブッシュ(子)共和党政権下の01~06年に運輸長官を務めた。
 第2次大戦甲に「敵性外国人」として両親と共に西部ワイオミング州の強制収容所に連行された。1975年からの約20年の民主党下院議員時代、強制収容された日系人に対する謝罪と補償を米政府に求め続け、88年の「市民の自由法(強制収容補償法)」の成立に尽力した。
 31年西部カリフォルニア州サンノゼ生まれ。カリフォルニア大バークリー校で経営学を学び、サンノゼ市議などを経て71年にアジア系で初めてサンノゼ市長に就任した。
 運輸長官だった2001年9月に米中枢同時テロが発生。イスラム教徒や中東系への反感を懸念し、運航を停止した民間機が飛行を再開する際、人種や民族に基づく保安検査をしないよう呼びかけた。
 06年、民間人に与えられる勲章で最も栄誉ある米大統領自由勲章を受章した。07年には日系人の地位向上と日米関係の発展に貢献したとして旭日大綬章を贈られた。
 クリントン元大統領は3日の追悼声明で、ミネタ氏が民主、共和両党の政権で閣僚を務めたことに言及し、米国の結束を「より完壁なものにした」と称賛。市民の自由や権利などの断固とした擁護者だったとして、その偉業はミネタ氏と縁があった人々を通じて引き継がれていくと強調した。 (ワシントン共同)
 
ゆかりの三島、清水町に悲しみ
 父が清水町、母が三島市出身のノーマン・ミネタ氏は両親の故郷を思い、たびたび訪れて親族らとの親睦を深めていた。温厚な人柄で親しまれたミネタ氏の悲報に、地元では驚きと悲しみの声が上がった。
 母方親族の渡辺一弘さん(64)=同市穴宮町=はミネタ氏について「三島や清水町には何度も訪れ、ふるさとのように懐かしんでいた」と振り返り、「ざっくばらんに話してくれた。親しみやすい人だった」と語る。ミネタ氏は昨年死去したいとこの峰田武さん(元三島信用金庫理事長)とも交流が深く、妻の正子さん(80)=清水町=は「穏やかな人柄だった。ニュースで亡くなったと知り、驚いた」と話した。
 最後に三島を訪れた2018年にミネタ氏と面会した豊岡武士市長は「元気な様子で、おっしゃることもはっきりしていた。風格のある立派な方だった」と印象を語る。会食に招かれた際には親しく会話を交わす機会もあり、「政治家としての大先輩。学ぶことは多かった」という。突然の悲報に驚き、「残念でならない」と故人をしのんだ。
(三島支局・金野真仁、東部総局・杉山諭)
【静新令和4年5月5日(木)朝刊】
  

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2022年03月25日

新藤宗幸氏 訃報


新藤宗幸
新藤宗幸(しんどうむねゆき=千葉大名誉教授、行政学)
13日、肺がんのため東京都の自宅で死去、75歳。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻絹代(きぬよ)さん。
硬直的な官僚制の問題点を指摘し、住民に身近な行政サービスの権限を自治体に移し、地域のことは地域で決められるようにすべきだと説いた。専修大助教授、立教大教授、日本行政学会理事長などを歴任した。市民団体の共同代表も務め、政府や国会に住民投票の法制化を働き掛けた。
著書に「『主権者教育』を問う」「司法官僚」「司法よ!!おまえにも罪がある 原発訴訟と官僚裁判官」など多数。
【静新令和4年3月23日(水)朝刊 訃報】
  

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2022年02月09日

石原慎太郎死去

石原慎太郎さん死去
 都知事13年半、芥川賞 89歳
石原慎太郎死去

 東京都知事を13年半務め、タカ派政治家の代表格として知られた元衆院議員で作家の石原慎太郎(いしはら・しんたろう)さんが1日午前、東京都大田区の自宅で死去した。89歳。膵臓(すいぞう)がんを昨年10月に再発していた。神戸市出身。葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れの会を開く。
=関連記事3、5、31面へ 一橋大在学中の1956年に小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞。作品の映画化で、弟の故石原裕次郎さんが俳優デビューした。映画に登場するような無鉄砲な若者は「太陽族」と呼ばれ、社会現象を巻き起こした。 68年、参院選全国区に自民党から立候補しトップ当選。72年に衆院へくら替えし、環境庁長官や運輸相を務めた。党内タカ派政策集団「青嵐会」を結成し、中核を担った。95年、在職25年表彰当日に議員辞職を表明した。
 99年の東京都知事選で初当選。大手銀行への外形標準課税(銀行税)導入やディーゼル車の排ガス規制を推進した。都が1千億円を出資して2005年開業した新銀行東京はずさん融資で経営難に陥り、追加出資で批判を浴びた。都による沖縄県・尖閣諸島購入も計画した。
 4期目途中の12年に知事を辞職し、太陽の党を設立。当時の橋下徹大阪市長が率いる旧日本維新の会と合流し、同年の衆院選で国政復帰した。野党再編を巡ってたもとを分かつと、14年8月に自主憲法制定を掲げる次世代の党を結成し、最高顧問に就任した。同12月の衆院選で落選し、政界を引退した。
 17年には東京・築地市場の豊洲移転問題を検証する都議会の調査特別委員会(百条委員会)の証人喚問に応じ、移転を延期した小池百合子都知事を批判した。
 著作は「化石の森」「『NO』と言える日本」(故盛田昭夫ソニー創業者との共著)や「弟」「天才」など多数。芥川賞選考委員も務めた。長男は伸晃元自民党幹事長、次男はタレントの良純さん、三男は宏高自民党衆院議員、四男は画家延啓さん。
 石原慎太郎さん死去
 作家からタカ派政治家へ
 強烈な発信、時に物議
 1日死去した石原慎太郎さんは作家から政治家に転身した。外交や防衛問題でタカ派の論陣を張り、東京都知事時代には沖縄県・尖閣諸島を購入する意向を突如表明するなど、強烈な発信で時に物議を醸した。
 政界デビューは小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞してから12年後の1968年。参院全国区で300万票を獲得したトップ当選だった。同期には石原さんの前任都知事となった故青島幸男さんがいた。
 99年に都知事に就くと、ディーゼル車の排ガス規制など先進的取り組みで強力なリーダーシップを発揮した。
 2012年4月には「東京が尖閣を守る」として突然、尖閣諸島を都が購入する方針を発表した。奇想天外な構想に「問題提起になる」「都民の税金を使うな」と議論を巻き起こした。中国に批判的な石原さんの言動に対し、領有権を主張する中国は反発。結局9月に、当時の野田政権が尖閣国有化に踏み切った。
 自主憲法制定にも強いこだわりを見せた。旧日本維新の会共同代表として14年2月に共同通信インタビューに応じ「僕は憲法を変えたい」と力説。同5月の記者会見で「私が都知事を辞めて国会に戻った理由の一つは、憲法を変え、この国を立て直したいということだ」と強調した。同6月には党首討論に立ち「どの国の憲法も自主的に制定、改定されるのが常識だ」と当時の安倍晋三首相に説いてみせた。
 その後、保守路線を一層鮮明にした次世代の党を結成、同9月の結党大会には支援者ら約2千人が詰めかけた。当時、国会議員として最高齢だった石原さんは健在ぶりを示した。14年末の衆院選では、自ら希望し比例東京ブロック名簿の最下位で「討ち死に覚悟の出陣だ」と立候補し、落選して政界引退した。
 引退後も憲法論議など積極的に発信し続けた。政界とも接点を保ち、18年や19年には安倍首相と面会するため首相官邸を訪れた。16年には作家として、田中角栄元首相の生涯を「俺」という一人称で描いた作品「天才」を発表し、ベストセラーとなった。
 「既成概念に挑戦」政界悼む声 1日に死去した石原慎太一即さんに対し、政界から悼む声が相次いだ。自民党の安倍晋三元首相は「戦後に形作られた既成概念に挑戦し続けた政治家だった」とたたえた。岸田文雄首相は「政治の世界の偉大な先達がまた一人亡くなった。寂しい限りだ」と記者団に述べた。旧日本維新の会で共に歩んだ松井一郎大阪市長は「非常に懐が深く、尊敬できる政治家だった」と語った。
 安倍元首相は「1993年の(衆院)初当選以来、指導をいただいた。批判を恐れずに、言うべきことは言うとの姿勢で一貫していた」と記者団に話した。二階俊博元幹事長は「政界の近代化のため、新しい感覚と角度で、積極的に発言した。惜しい政治家を亡くした」としのんだ。茂木敏充幹事長は「カリスマ性があり、威風堂々、国家観を語る素晴らしい政治家だった」と指摘した。
 松井市長は、石原さんが率いた太陽の党が旧維新に合流した経緯に触れ「僕らは地方の政治しか経験がない未熟な存在だったが、足らざる部分を補つてくれた」と振り返った。維新の馬場伸幸共同代表は「ご恩を忘れず、政権政党を目指して精進したい」と決意を新たにした。
 森喜朗元首相は取材に対し、初挑戦した69年衆院選で石原さんが応援してくれたとして「政治の師であり、兄貴のような存在だった」と感謝の念を示した。89年の自民党総裁選で石原さんの出馬を後押しした亀井静香元金融担当相は「現代最高の知性で、巨星落つという感じだ。常に本質を見抜く力があった」と述懐した。
 立憲民主党の泉健太代表は「政界にとどまらず、大きな足跡を残した」と評価した。

 石原慎太郎さん
 年重ねても「太陽の季節」
 政界、文壇で異彩
 政界と文壇で異彩を放った石原慎太郎さんが1日亡くなった。鮮烈な言葉で人を引き付け、憲法改正を唱えるタカ派政治家として、約半世紀にわたり存在感を示してきた。すらりとした長身にいたずらっ子のような笑顔。年を重ねても代表作「太陽の季節」の世界さながらのやんちゃぶりがメディアの関心の的になり、本人もそれを心得、楽しんでいるようにも見えた。
 石原さんの後半生は4期途中まで務めた東京都知事時代を抜きに語れない。1999年、66歳で初当選。
 「東京から日本を変える」をキャッチフレーズにディーゼル車の排ガス規制、銀行への外形標準課税、新銀行東京の設立、沖縄・尖閣諸島の都有化構想。支持された政策はあったが、いくつものつまずきもあった。
 「自分で言うのも何だが、僕は特殊兵器なんだよ」「決して規格通りには動かない」。都庁の会見などでは首都のトップに立っても結局、国政のトップに立てないことへのいら立ち、白身の才覚や気質をそう表現したことがある。
 2012年に辞職し国政に返り咲いた後、14年の衆院選で落選、政界を引退した。17年3月、築地から豊洲への市場移転を検証する都議会の調歪特別委員会(百条委員会)で証人喚問され、小池百合子氏との新旧都知事対決は話題になった。
 17年10月、石原さんの自宅でインタビューする機会があった。百条委の際は脳梗塞の後遺症に苦しみ「平仮名も忘れました」と弱々しく証言していたが、体調はずいぶん回復したらしかった。
 16年に出版した、かつて金権政治と糾弾した田中角栄元首相を再評価する小説「天才」がベストセラーになり「世の中も石原さんが作家だと思い出しましたね」と問うと、笑いながら作家として正当な評価を受けてこなかったとこぼした。
 「文壇というのはひどく狭量で、著名な政治家しかも自民党の代議士が小説を書くことを許さなかった。僕なんか何度も文学賞の候補になったけれど外されてきた」。自慢話とも取れる受け答えは石原さんでなければ嫌みに感じただろう。
 小林秀雄、大江健三郎、三島由紀夫ら各氏との秘話を含めたエピソードを語ると熱を帯び話は尽きなかった。いかに文学の世界を、文士仲間を愛しているかが伝わった。文学から遠い政治という場所で長く活動しながら、あくまで小説家であり続けた人だった。
 新時代の若者描く
 1目死去した石原慎太郎さんは、戦後文学界で唯一無二の存在だった。23歳で芥川賞を受けた「太陽の季節」で、新時代の若者像や風俗を示して世間をあっと驚かせ、髪形をまねた「慎太郎刈り」までもが大流行。後に大スターとなる実弟、裕次郎さんの俳優デビューにも一役買うなど、戦後文化を華やかに彩った。
 「太陽の季節」を書いたのは一橋大在学中のこと。若者の無軌道な生き方を通して新しい価値観や感性を描き、主人公が性器で障子を破るシーンが賛否両論を巻き起こした。単行本はベストセラーとなり、映画化されて「太陽族」と呼ばれる若者たちも現れた。作家の髪形が社会現象となるほど流行したのも、文学史上に例がない。
 小説「狂った果実」の映画化を申し込まれた際に裕次郎さんの主演を条件にし、これが大スター誕生のきっかけに。裕次郎さんもまた、従来の権威に反抗するような型破りな若者として映画界を席巻した。その栄光と死を小説にした「弟」もベストセラーとなった。
 政界進出後も創作は続けた。親友だったフィリピンのべニグノ・アキノを襲った悲劇を描いた「暗殺の壁画」では、ヨットレースやベトナム戦争の戦場で石原さんが体験した生と死のあわいも作品に昇華させた。
 文壇での交流は晩年まで懐かしく思い出していた。中でも三島由紀夫との親交は有名で、石原さんの初期の長編を三島は評論で高く評価。石原さんは三島をボクシング観戦に案内するなど、私生活でも交わった。
 芥川賞選考委員を16年務めた。選考委員辞任の弁は「いつか若い連中が出てきて足をすくわれる戦慄(せんりつ)を期待したが、緊張感を覚える作品がない常に反逆者であろうとした作家らしい挑発的な言葉を残した。脳梗塞を患い、利手の左手の自由を失って以降も執筆を続け、終生にわたって作家であり続けた。
【静新令和4難2月2日(水)朝刊】
  

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2022年01月21日

2022年01月13日

庄司清和氏 死去


庄司清和氏 死去
庄司清和氏
 82歳 米久創業、時之栖会長
 大手食肉メーカー米久の創業者で、県内で観光・レジャー施設を展開する時之栖会長の庄司清和(しょうじ・きよかず)氏が12日午前1時25分、誤嚥(こえん)性肺炎のため、御殿場市内の病院で死去した。82歳。裾野市出身。通夜は15日午後6時から、葬儀・告別式は16日午前9時半から裾野市御宿307の4、セレモニーホール裾野平安会館で。喪主は妻良子(りょうこ)さん。=関連記事28面へ
 東京農大畜産科卒。1965年、沼津市で食肉加工の米久食品(現・米久)を個人創業し、69年に法人化。主力どなるソーセージの生産を始め、業界初の生ハム専用工場を新設するなど、事業を拡大させた。96年には東証1部上場を果たし、天手メーカーの地位を確立した。
 94年には御殿場高原ホテル(現・時之栖)を設立し、いち早く地ビールの製造に乗り出した。97年に大手スーパーのヤオハンジャパンが倒産した際には、自身が保有していた米久株を売却し損失補填(ほてん)に充てた。
 2000年に米久会長を退き、時之栖の経営に専念。御殿場高原時之栖をホテルやレストラン、サッカー場、ノ温泉・物販施設などを備える県内随一の複合レジャー施設に育て上げた。観光客に加え、スポーツ合宿の受け入れを積極的に進めた。
 浜松市北区のはままつフルーツパークの指定管理を担い、富士市の大学跡地に複合型スポーツ施設「エスプラットフジスパーク」をオープンするなど、県内各地で誘客に貢献した。
 県障害者スポーツ協一会の初代会長も務め、誰もがスポーツを楽しめる環境づくりに尽力した。
 庄司清和氏死去
 豊かな発想楽しさ創出
 県内関係者功績しのぶ
 12日に82歳で亡くなった時之栖会長の庄司清和氏。豊かな発想力で事業を拡大し、同社を有数のリゾート企業に育て、地域経済にも大きく貢献した。関係者から功績や人柄をしのぶ声が相次いだ。
 本社のあるリゾート施設、御殿場高原時之栖(御殿場市)は広大な敷地に飲食店やスポーツ施設、美術館などを備える。1995年
のオープン当初はホテル2棟と売店だけだったが、庄司氏のアイデアを基に拡張を繰り返した。冬のイルミネーションは風物詩として定着。年間利用者数は推定180万人に上る。
 庄司氏は整備や改修をする現場に連日、足を運び、ある日、思い立ったように指示を出した。椅子やテーブルのデザインに至るまで細やかに。施設内で飲食店を運営するイベント企画会社社長の勝亦秀行さん(68)=同市=は「年を重ねても考え方が柔軟、おしゃれだった」と振り返る。 会うたびに「お客さんを楽しませているか」と言葉を掛けられ、「もうかっているかとは絶対に聞かなかった。客を大切にしていた」という。「コロナ収束後にどんなアイデアを出すか見たかった」と惜しんだ。
 同市の勝又正美市長は「御殿場高原時之栖は御殿場になくてはならない施設。市内経済も恩恵を受けている」と謝意を示した。
 米久も、個人創業から一代で県内を代表する食品メーカーに押し上げた。現役の役員や幹部に薫陶を受けた”教え子"は多い。本社従業員の誕生日を覚え、毎年、声を掛けることを忘れない気遣いの人でもあった。同社生え抜きの堀内朗久社長は「教えを胸に刻み、『感動を創る』という創業精神をしっかりと受け継いでいく」と誓った。
 石川嘉延前知事の1期目から後援会幹部を務め、県内観光の振興の面からも県政を支えた。石川前知事は「現代でいうベンチャーであり、一代で事業家として成功された。教わることが多く、亡くなられたことは残念でならない」と悼んだ。
 「はままつフルーツパーク時之栖」(浜松市北区)の指定管理を時之栖に委ねている同市の鈴木康友市長は「手腕を当施設でも生かされ、感動を与えるレジャー要素で年闇約30万人を迎えるまでに再生できた」と、感謝と哀悼の意を表した。
 県経営者の中西勝則会長は「希代の起業家として生涯をかけて夢を追い続ける姿は、多くの経宮者の胸に刻まれた」とコメント。県商工会議所連合会の酒井公夫会長は「数々の独創的かつ先駆的な取り組みを行った経営者であり尊敬していた」。スズキの鈴木修相談役は「地に足が着いた、きめ細やかな経営をされた」と語った。
【静新令和4年1月13日(木)朝刊】
  

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2021年12月09日

赤堀一江さん

赤堀一江さん
元いせう陶器店店主
赤武株式会社代表取締役副社長赤堀整二母赤堀一江儀病気療養中のところ十二月七日九十五歳にて永眠いたしましたここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます

一、通夜十二月九日(木)午後六時
於/大岡平安典礼会館
一、葬儀十二月十日(金)午後二時
一、場所大岡平安典礼会館
沼津市大岡二一七〇ー一TEL(九二九)七三〇〇
一、出棺十二月十日(金)午後三時三十分
令和三年十二月九日

沼津市魚町十一
喪主赤堀整二
赤堀博一
原敦子
(沼朝令和3年12月9日 訃報)
赤堀一江さん
  

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2021年12月01日

 峰田武氏(みねた・たけし=三島信用金庫名誉顧問)


 峰田武氏(みねた・たけし=三島信用金庫名誉顧問)
29日、心筋梗塞のため清永町内の病院で死去、87歳。清水町出身。自宅は清水町玉川54の4。通夜は一般参列が12月4目午後4時から6時まで、清水町伏見639の1の天翔苑清水で。葬儀・告別式は親族のみで行う。喪主は妻正子(まさご)さん。
 三島信用金庫理事長、三島商工会議所会頭、佐野美術館(三島市)名誉会長などを歴任し、サンフロント21懇話会幹事も務めた。日系人で初めて米国の閣僚となった政治家ノーマン・ミネタ氏はいとこ。
【静新令和3年12月1日(水)朝刊】
峰田武氏
  

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2021年08月06日

訃報 サトウサンペイさん

追悼 サトウサンペイ

「フジ三太郎」などサラリーマンの日常を描いた4コマ作品で知られる漫画家のサトウサンペイ(本名佐藤幸一=さとう・ゆきかず)さんが7月31日午前11時30分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都内の病院で死去した。91歳だった。名古屋市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻みどりさん。
 1929年に名古屋市で生まれ、大阪市で育った。京都工業専門学校(現京都工芸繊維大)卒業後、大丸(現大丸松坂屋百貨店)に入社。宣伝部に勤め、社内報に漫画を寄稿したことなどをきっかけに、新大阪新聞の4コマ漫画「大阪の息子」で51年デビューした。
 拠点を東京に移し、65年4月に朝日新聞夕刊で連載を始めた「フジ三太郎」は、高度経済成長からバブル期に至る平凡なサラリーマンの日常をユーモアや風刺を交えて描き、人気を集めた。79年に朝刊に移った後、91年9月まで26年半、8168回に及ぶ長期連載となった。 
 他の漫画作品に「夕日くん」「アサカゼ君」など。66年に文芸春秋漫画賞、97年に紫綬褒章、2006年に旭日小綬章を受けた。海外旅行好きで知られ、「スマートな日本人」などのエッセーも数多く執筆した。(2021/08/06-10:02)
  
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2021年04月03日

赤崎勇さん死去 92歳

 赤崎勇さん死去 92歳
ノーベル物理学賞青色LED開発
赤崎勇博士
 青色発光ダイオード(LED)の開発に世界で初めて成功し、ノーベル物理学賞を受賞した名城大特別栄誉教授の赤崎勇(あかさき・いさむ)さんが1日午前、肺炎のため名古屋市の病院で死去した。92歳。鹿児島県出身。
 LEDは1960年代に赤や緑が開発されたが、光の三原色のうち青は素材の結晶作り
が難航し「20世紀中は困難」と言われていた。名古屋大教授だった赤崎さんは、大学院生だった天野浩名古屋大教授(浜松市出身)とともに86年、世界中の研究者が手を引いた窒化ガリウムを使って結晶化に成功。さらに研究を発展させ、89年に青色LEDを実現した。これにより、白色も含めて全ての色をLEDで出せるようになった。
 LEDは省電力で長寿命という理想的な光源として地球温暖化対策としても注目され、世界各地で普及した。赤崎さんは2014年、天野さん、別の方法で青色LEDを作った米カリフォルニア大教授の中村修二さんとともにノーベル物理学賞を受賞した。
【静新令和3年4月3日(土)朝刊】
  

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