2008年11月26日
名取栄一翁伝:3
名取栄一翁伝3
没後50年足跡は今3
沼津駅前に13間半道路
地主説得し都市計画

JR沼津駅から真っすぐ南に延びる四車線の駅前通り。この広い幹線道路の骨格は大正末期、まだ沼津市内に自動車が六十台ほどしか普及していなかった時代に、市復興部長を務めた名取栄一翁=当時(五四)=の尽力で整備された。
沼津市史によると同市は大正二年の大火、十三年の我入道大火、十五年の大火に相次ぎ襲われた。中でも十五年十二月の大火は、市役所や警察署、病院なども巻き込んだ。焼失は当時の市全戸数の三分の一におよび、市中心部は焦土と化した。
市は焼失地の区画整理を基本とした道路拡張・復興計画を決め、これを執行する部署として復興部を新設。市長推薦で民間から名取翁に部長が委嘱された。
新道路拡張は大幹線を幅十三間半(二四・五㍍)、幹線は十間半などとする画期的な計画だった。だが、地主との換地折衝は難航を極めた。
「道の真ん中で田植えでもするのか」。通る自動車が一日二十台あるかないかの中、店や住居の移転、減歩を強いる区画整理。大正八年まで区長を務めた足元の追手町(現大手町)から猛反対ののろしが上がった。
反対者たちは「都市計画反対」「名取復興部長を葬れ」と、むしろ旗を掲げ、名取邸に押しかけた。だが名取翁は「沼津の将来の発展のために」と全区で地主を訪問。粘り強く折衝を重ね、問題を一つ一つ解決した。
昭和五年ごろ撮影された駅前通りと国道1号線(旧国一通り)の交差点付近の写真を見れば、広い道幅で真ん中に路面電車が通る幹線の完成が分かる。後藤全弘沼津商工会議所会頭は、「(名取翁は)とにかく力があったと聞く。都市整備では、町の骨格を形作った沼津の創業者とも言える」と評価する。
駅前通り(現さんさん通り)裏手に地元市民が集う会館と神社が建てられた一角がある。「土地の多くは名取翁の寄付」と同町内会の露木博行事務長が教えてくれた。大手町や繭市場(現在の市立図書館)敷地など、多くの土地を所有していたとされる名取翁が子孫に残した不動産は少ない。
名取翁のひ孫、名取正純さん(五〇)=沼津ヤナセ社長=は、しのんだ。「栄一翁は『財を残そうと思えば残せたが、性分から住むところだけ残し全部譲った。人脈と信用が残せるもののすべてだ』と遺言したと聞く。確かに形はないが、大きな財産を残してくれた」
【沼津市街地の拡大】市区改正復興事業は、狭小な道路や家屋の乱雑な建て方が大火につながったという反省から断行された。市庁舎が現在の上香貫に完成したのは昭和三年。狩野川への三園橋架橋、上香貫の区画整理などで上香貫方面へ市街地が拡大した。
(静新平成20年11月26日「名取栄一翁3」)
没後50年足跡は今3
沼津駅前に13間半道路
地主説得し都市計画

JR沼津駅から真っすぐ南に延びる四車線の駅前通り。この広い幹線道路の骨格は大正末期、まだ沼津市内に自動車が六十台ほどしか普及していなかった時代に、市復興部長を務めた名取栄一翁=当時(五四)=の尽力で整備された。
沼津市史によると同市は大正二年の大火、十三年の我入道大火、十五年の大火に相次ぎ襲われた。中でも十五年十二月の大火は、市役所や警察署、病院なども巻き込んだ。焼失は当時の市全戸数の三分の一におよび、市中心部は焦土と化した。
市は焼失地の区画整理を基本とした道路拡張・復興計画を決め、これを執行する部署として復興部を新設。市長推薦で民間から名取翁に部長が委嘱された。
新道路拡張は大幹線を幅十三間半(二四・五㍍)、幹線は十間半などとする画期的な計画だった。だが、地主との換地折衝は難航を極めた。
「道の真ん中で田植えでもするのか」。通る自動車が一日二十台あるかないかの中、店や住居の移転、減歩を強いる区画整理。大正八年まで区長を務めた足元の追手町(現大手町)から猛反対ののろしが上がった。
反対者たちは「都市計画反対」「名取復興部長を葬れ」と、むしろ旗を掲げ、名取邸に押しかけた。だが名取翁は「沼津の将来の発展のために」と全区で地主を訪問。粘り強く折衝を重ね、問題を一つ一つ解決した。
昭和五年ごろ撮影された駅前通りと国道1号線(旧国一通り)の交差点付近の写真を見れば、広い道幅で真ん中に路面電車が通る幹線の完成が分かる。後藤全弘沼津商工会議所会頭は、「(名取翁は)とにかく力があったと聞く。都市整備では、町の骨格を形作った沼津の創業者とも言える」と評価する。
駅前通り(現さんさん通り)裏手に地元市民が集う会館と神社が建てられた一角がある。「土地の多くは名取翁の寄付」と同町内会の露木博行事務長が教えてくれた。大手町や繭市場(現在の市立図書館)敷地など、多くの土地を所有していたとされる名取翁が子孫に残した不動産は少ない。
名取翁のひ孫、名取正純さん(五〇)=沼津ヤナセ社長=は、しのんだ。「栄一翁は『財を残そうと思えば残せたが、性分から住むところだけ残し全部譲った。人脈と信用が残せるもののすべてだ』と遺言したと聞く。確かに形はないが、大きな財産を残してくれた」
【沼津市街地の拡大】市区改正復興事業は、狭小な道路や家屋の乱雑な建て方が大火につながったという反省から断行された。市庁舎が現在の上香貫に完成したのは昭和三年。狩野川への三園橋架橋、上香貫の区画整理などで上香貫方面へ市街地が拡大した。
(静新平成20年11月26日「名取栄一翁3」)
Posted by パイプ親父 at 11:27│Comments(0)
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