2015年10月17日

 矢田部式部盛治(もりはる)

 三嶋大社護持と民心の安定に捧げた生涯
 第66代三嶋大社神主
 矢田部式部盛治(もりはる)

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 文政7(1824)年3月3日、掛川藩主・太田摂津守家老橋爪弥一右衛門の3男として生まれる。幼名岩吉。幼い頃より藩校徳造書院に学び、国学と算術と武術に励む。しばしば非凡な才能で人々を驚かせたが、特に槍術は宝蔵院流十文字槍に秀で、藩内の若者で彼の右に出る者はないとまでいわれた。
 天保14(1843)年、19歳の時、三嶋神社神主、矢田部伊織盛正の養子となり、名を式部盛治と改めた。嘉永3(1850)年、26歳で三嶋大社神主となる。そのわずか4年後の安政元(1854)年、東海大地震(安政地震)が起こり、三嶋大社は神殿を始め30有余の建造物が悉く倒壊した。盛治は早速幕府に造営を請い、募財のため東奔西走したが内憂外患の当時の情勢下、それは困難を極めた。しかし、盛治はいたずらに焦ることなく、粘り強く再建に向かった。神主、社家、三島宿民一丸となっての悲願達成への努力がついに実を結び、着工から13年の歳月を費やし、明治2(1869)年、新社殿が竣工した。それは街道筋に類を見ないほどの立派で勇壮なものであった。
 盛治は救世愛民を主義とし、震災風水害の度毎に救済事業に力を入れた。物価の暴騰甚だしく世相騒然となった慶応元(1865)年6月、三島宿で米屋数軒が打ち壊されるという事件が起こった。この時盛治は破格の値段で米を売り窮民の救済にあたったことは、今なお古老の語り草となっている。
 明治元(1868)年、官軍東征の折には、遠州に報国隊、駿河に赤心隊という神官を中心とする盟約がなされた。盛治はこれに呼応して伊豆の神官約70人を結集し伊豆伊吹隊を結成。自らその盟主となり、明治天皇東行を護衛し、人心の安定に力を尽くした。このため三島宿は騒乱の兵火を免れることができた。
 一方、盛治は、三嶋大社北東に位置する紙園原一帯の開発にも注目し、農民の長年の念願であった沢地川から水路をひき、10町歩に及ぶ水田開発に成功した。明治2(1869)年2月、村民総出の工事が始まり、盛治は陣頭指揮に立った。長さ250mの掘り抜きトンネルを含め、全長およそ500mの掘割用水路はわずか4カ月間で完成した。特筆すべきはこの工事にかかる費用は全て矢田部家で立て替えられたことである。死の直前、盛治は息子の盛次を枕元に呼び、「祇園原用水の工事費は、全部矢田部家で返すために、生活を切り詰めてやってきた。盛次、お前もどのような苦労をしてでも残りの金をしっかり返してくれ」と言い残したという。盛次は父の遺志を受け継ぎ、正月に餅もつけないほど貧乏になっても、借りたお金を返すために努力して、とうとう全額返した。この盛治の生き方に心打たれた人々は、「お殿様」と敬い親しみ、約100年後、三嶋大社境内に「矢田部式部盛治像」を建立した。
 明治4(1871)年、三嶋大社は*官幣大社に指定される。この朗報に接したのも束の間、同年9月14日、死去。享年47。波乱に満ちた時局下、絶えず民心の安定に心を配り、大社造営の悲願を達成した盛治は、新政府からの度々の招致にも拘わらず、三嶋大社護持に全生命を捧げた。
 *官幣大社 社格のひとつ。大社、中社、小社、別格官幣社の別がある。taisya

明治以後は宮内省から幣帛(へいはく・神に供える麻布の称)を供進した神社をいう。主として皇室尊崇の神社および天皇、皇親、功臣を祀る神社。第2次大戦後この制度は廃止された。
 出典= 『三島市誌・中巻』『群像いず』永岡治著(静岡新聞社発行)『矢田部式部盛治』伊藤三千夫著(矢田部盛治大人偉業顕彰会発行)『郷土につくした人々2大空にかけるゆめ』(静岡教育出版社発行)


【グランドワーク三島:ボランラリーニュース№57号「みしま歴史旅その20」より】
  

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2011年07月10日

長井長義さん

長井長義(ながいながよし)さん
ぜんそくの特効薬 漢方薬から化学式導く
 日本薬学の父と呼ばれ、薬学研究者らでつくる「日本薬学会」初代会頭をつとめた長井長義(ながいながよし)さんは、ぜんそくの特効薬として世界中で使われている「エフェドリン」の発見者です。
 有機化学の専門家で、同学会の前常任理事平井功一(ひらいこういち)さんは「わたしたち研究者にとって、超伝説的な人」と評します。
 幕末の徳島藩に仕えた医師の家に生まれた長井さんは、誕生間もない明治政府の第1回国費留学生としてドイツに渡り、約13年間、有機化学を学びました。
 1884年帰国。東京帝国大(現・東大)教授や大日本製薬合資会社(現・大日本住友製薬)技師長などに就いていた長井さんは、翌85年に、古くから漢方薬として使われていた「マオウ」と呼ばれる植物からエフェドリンを分離し、分子構造を突き止めて化学式を決定、人工的な合成にも成功しました。
 ただし、気管支ぜんそくの発作を抑えるなどの効果があることは、さらに40年近くたった1924年に海外の研究者が明らかにしました。
 これを機に27年、名前にちなんだ気管支拡張・せき止め剤「エフェドリン『ナガヰ』」が発売され、今でも一般のかぜ薬などに改良型のエフェドリンが入っています。
 平井さんは「化学式が正しいか、簡単に確かめられなかった時代の成果ですごいことです。エフェドリンの化学構造は基本的なもので、これを基に改良や薬効のメカニズムの解明など、その後の化学研究につながっていきました」と話します。
 故郷の徳島大薬学部が中心となって製作された、半生をえがいた映画「こころざし」が今年3月に完成したばかりです。
【静新平成23年7月10日(日)「発明発見伝」】
  

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2009年07月24日

橘周太中佐

「板妻駐屯地の橘中佐銅像」(御殿場)
 生きざま「現役隊員の誇り」
 陸上自衛隊板妻駐屯地(御殿場市)の第34普通科連隊は別名「橘連隊」。日露戦争中、中国・首山堡で戦死した名指揮官橘周太中佐の名に由来する通称で、全国で個人の名を冠した部隊は唯一だといわれる。
 橘中佐は陸軍の教官などを経て、静岡の歩兵第34連隊大隊長に就いた。厳しい修練に率先して臨み、戦地では住民の生活安定に励んだとされ、情深く統率の取れた34連隊の紋章は戦乱に巻き込まれた人々にも安心感を与えたと評されている。
 その至誠の生涯を模範にしようと、1977年に多くの人々の寄付で銅像が建立された。軍刀を手に戦況をうかがう姿を再現した立像で、連隊幹部は「陸軍と自衛隊の立場は異なるけれど、日本の未来のため命を懸けた生きざまは現役隊員の誇りだ」と力を込める。
(静新平成21年7月24日「ふるさと探訪」)
  

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2008年11月28日

名取栄一翁伝:5完

名取栄一翁伝5完
没後50年、足跡は今5
統制下、沼津市長に:政策の最大課題は合併
 「沼津市トノ合併ハ純農村ノ機構ヲ破壊スルモノニシテ絶対二好マザル所ナリ駿東郡大岡村上石田区」ー。沼津市明治史料館に、こんな合併反対決議書(昭和十五年)が残されている。当時の沼津市長は名取栄一翁だった。
 戦後施行の地方自治法、公職選挙法以前、市長は市議の中から間接選挙で選出されていた。十年から市議を務めていた名取翁は、市長派、反市長派、中立派の三派による意見交換の上、全会一致で次期市長に推された。
 名取翁は当初、「器ではない」と固辞したが、議会や経済界、地元大手町町内会の再三の説得を受け受諾。十五年二月、第七代沼津市長に就任した。六十八歳だった。
 名取市長は戦時統制の中、出征将兵の遺・家族援護などに尽くすとともに、近隣町村との合併を最大課題に置いた。名取栄一翁伝記は「最大の壁であった愛鷹山組合の改組並びに、門池水利組合の一時清算に成功して、その土台をつくった」としている。
 だが、十五年七月、県当局が強くあっせんした沼津、片浜、静浦、大岡、金岡の五市村合併による会談は、決着がつかず挫折した。九月には大岡村上石田の住民が、反対決議を挙げている。翌十六年、名取市長や各村長の奔走で、いったんは大岡、片浜、金岡が合併に傾いた。名取市長は静浦を除く三村との合併を正式に申し入れたが、情勢は逆転し、四市村合併も暗礁に乗り上げた。
 十六年十一月、名取市長はわずか一年九カ月で辞表を提出した。名取栄一翁伝記は「健康上の理由」とするが、ひ孫の名取正純さん(五〇)=沼津ヤナセ社長=は、「栄一翁の潔癖な性格からして、合併問題の責任をとり辞職したのでは」とみる。
 昭和三十三年十一月九日、石橋湛山葬儀委員長の下、名取翁の葬儀に委員として名を連ねた田上博沼津市議(八三)は慨嘆する。「名取先生にしても湛山先生にしても、当時若かった自分は仰ぎ見るしかなかったが、政策に向かう気迫、出処進退の潔さが強く感じられた」
 名取翁の没後、半世紀。沼津市は今月、新しい市長,を迎えた。栗原裕康新市長は沼津主導の東部合併を最大課題とする。栗原市長は「合併は自分一人の力だけでできるとは思わないが、先人の情熱は受け継ぎたい」と話す。

 【メモ】沼津市の合併片浜、静浦、大岡、金岡との合併は昭和19年。歴代市長の努力に、戦争を控えた総力戦の構築という国家的要請で実現した。その後、30年に愛鷹、大平、内浦、西浦、43年には原町、平成17年は戸田と合併したが、政令市を目指した東部5市4町の研究会は今年2月、破たんしている。
(静新平成20年11月28日「名取栄一翁伝:完」)
  

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2008年11月27日

 名取栄一翁伝4

 名取栄一翁伝4
 石橋湛山会
 東部政財界が後押し

 先月七日、大正ロマン漂う木造建築、沼津市千本郷林の「沼津倶楽部」がレストランとして再オープンした。ここはかつて、県内選出代議士で唯一、首相となった石橋湛山を育てた「湛山会」の拠点の一つだった。
 山梨県出身の石橋湛山の静岡第二選挙区(当時)での担ぎ出しを持ちかけたのは、終戦後、初めて行われた総選挙で当選しながら、公職追放となった佐藤虎次郎(元旧清水市長)だったとされる。
 解散風が強まった昭和二十二年一月、佐藤は沼津市大手町の名取栄一邸を訪れ、石橋の静岡二区での出馬を相談、同じ山梨出身の名取翁を中心とする沼津政財界の支援を要請した。石橋は当時大蔵大臣だったが、東京の選挙区で落選していた。
 快諾した名取翁はその翌日、沼津や御殿場、下田などの政財界を仕切る「名取門下」の幹部を名取邸に集めた。「石橋さんを担ぎ、静岡県から総理を出そう」
 同年三月、石橋は本籍を名取邸に移し自由党公認として出馬。名取翁は選挙直前に公職追放の身となったが、県東部の保守が結集して石橋はトップ当選した。
 「湛山会」重鎮だった父親の死後、名取翁に目をかけられた勝亦一強沼津観光協会長(七三)は「当時は東部政財界に大物が多かったが、あれだけ集められたのは名取翁だったからこそ」とみる。
 三十一年十二月、石橋は首相の座を射止める。翌年一月、沼津駅前に朝から数千人が集まったお国入りパレードで、名取翁はオープンカーに石橋首相と並んで座った。
 石橋の代議士五期はさまざまな起伏があった。利益誘導を行わず、演説は大所高所に立った内容がほとんど。若手市議として選挙戦に加わった田上博沼津市議(八三)は「世界平和のため、私が日米ソ中を同盟させるーと街頭演説した時は驚いた」と懐かしむ。
 名取翁は三十三年に没するまで石橋を支え続けた。名取栄一翁伝記は「名取翁は石橋氏のために次々と土地を売り、全財産を投げ出したといってもよかった」と記す。
 石橋は在任二カ月で病気のため首相の座を降りた。湛山会は石橋湛山の引退後、自然消滅した。やはり父親が湛山会主要メンバーだった沼津倶楽部理事長の林茂樹乗運寺住職(七〇)は「名取翁の大きな人柄、湛山先生の高潔さは絶対忘れてはならない」と、沼津倶楽部の再出発とともに湛山会で培われた政治風土、文化の流れの再興を願う。

 【メモ】石橋湛山(いしばし・たんざん)1884ー1973年(明治17ー昭和48年)。東京生まれ、1歳で山梨県に。早大卒後、東京毎日新聞社などを経て41年東洋経済新報社社長。47年静岡2区で衆院初当選。56年12月に首相となったが脳梗塞を発症し翌年2月辞任。63年の総選挙で落選し政界引退した。
(静新平成20年11月27日「名取栄一翁伝4」)
  

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2008年11月27日

西周

西周の学問と沼津:四方一瀰
 十一月十六日、沼津駅前に香陵ライオンズクラブが西周の記念碑を建立した。同クラブは今までも、畏友大場俊雄君をはじめ、会員の方々が長年にわたり、沼津兵学校や西周の顕彰に努め、明治初年、日本の近代文化が沼津の地に輝いたことを広く沼津市民に弘めてきた。
 沼津兵学校については昨年、熊沢恵理子、樋口雄彦の二人の新進気鋭の学者が大著を刊行している。沼津兵学校に比べて西周の名はまだ知られていないが、十二日の本紙に、栗田昌彦氏が周到・綿密な紹介文を寄せられた。
 西は近代日本の初頭を飾り、その後の我が国の帆近代的・科学的な学問・思想の方向付けをし、思考の法則をも打ち立てるなど、凡人には成しがたい不朽の業績を残した。彼が作った「哲学」「定義」「概念」「理想」「抽象」「主観」「肯定」「本能」など新しい概念・用語が今日、日常的に用いられていることからも知られる。
 しかも、その西の画期的な思索が、沼津で、しかも今は道路となってしまったイーラdeの西端の一九番屋敷で生み出されたのである。いわば、我が国の近代的学問や、思想・科学的研究は沼津で、その「あまねガード」上り口の西の住居から生まれたと言うことができよう。
 確かに西が沼津に在住した期間は二年足らずで、大きな著書を世に問うてはいない。この時期は、新しい学校=沼津兵学校の組織づくり・人材育成や教育課程の編成・学校経営に忙殺されており、学問的著書を世に問う情況ではなかった。
 ではこの時期、西の思想や学問は等閑に付されていたのだろうか。否、である。
 明治三年九月に沼津を去った西は、その翌月には、東京に育英舎を創設し、『百学連環』で、もろもろの学問を「普通学」と「殊別学」に大分し、「殊別学」を、さらに「心理上学」と「物理上学」に専門分化して学問領域を明確にするが、しかも、それら個別の学問を哲学によって統一的組織的に考察しようとする壮大な学問体系の構築を意図した講義を行っている。
 これは公務や健康上の問題で完成はできなかった。柳田泉が、それが大成していれば「明治文明における日本人の学問的業績の最大な一つとして、おそらくは世界に誇れるものとなっていたであろう」と述べた画期的なものであった。
 この宏壮な学問体系が離沼後の多忙な一カ月の間に構築されたと見ることは不可能であり、沼津で想が練られていたのである。
 この学問構築のため、日本にも中国にもなかった思考の形式である「論理学」を沼津兵学校で初めて講義し、明治二年、〔沼津で「学原稿本」を起稿。やがて『致知啓蒙」として出版している。三年には近代的な思想のもとに国学・儒学を批判した「復某氏書」を記し、さらに言葉を正しく伝えるために日本語文法論「ことばのいしずゑ」も沼津で作られたと考えられている。
 そのほか、沼津で政律(法律学・政治学)・史道(論理学・哲学・文学・歴史学)・医学・利用(数学・物理学・化学・経済学)を包摂した、我が国最初の総合大学構想「沼津学校追加掟書」・「文武学校基本井規則書」(津和野藩主に提出)が練られた。
 このように、封建社会から近代社会への転換期に画期的な日本文化構築の役割を果たした西の主要な業績は、沼津で創出されたと見られるのである。
 (元国士舘大学教授.沼津史談会会長、松下町)
(沼朝平成20年11月27日「言いたいほうだい」)
  

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2008年11月21日

名取栄一翁:1

名取栄一翁伝 
 【名取栄一】明治6ー昭和33(1873ー1958)年。山梨県中巨摩郡生まれ。14歳の時、繭仲買の父の招きで御殿場に転住。翌年沼津に。名取商会を創設、沼津信用金庫初代理事長。昭和15年沼津市長

没後50年足跡は今:1
「沼津に築いた製糸産業」 全国有数の繭市場に
 車が激しく行き交う国道414号沿いに立つ沼津市三枚橋町の市立図書館。ここに日本の繭相場を支配した市場があったことを知る人は今は、もう少ない。
 山梨県出身の名取栄一=以降、名取翁=は大正五(一九一六)年、名取商会「沼津繭市場」を沼津駅前に開設(昭和二年、三枚橋に移転)した。先行していた松崎市場との激しい競争を経て、全国相場を左右する市場に急成長させた。
 名取栄一翁伝記は繁栄ぶりをこう記す。「初取引には新聞記者が詰め掛け、結果は全国に報道、あるいは直接横浜の貿易業者に打電された。名取市場は世界中にその名を知られるようになった」
 名取翁は繭市場を興すとともに製糸企業の誘致にも精力的に取り組んだ。「千人挽(ひ)き規模」(沼津市史)などの大規模拠点が沼津繭市場の成長と合わせ計画され、四工場が進出した。
 製糸企業の労務人事担当だった父と幼少時、長野県から沼津に転居してきた沼津信用金庫の堀田大洋専務(六五)は、「長野などから今日は三十人、次は何人と働く人たちを連れてきたと聞いた」と記憶する。
 大正四年から十一年の七年間で沼津の人口は67%増えた。同期間に県が5%増だったことを見れば、企業誘致による人口増の大きさが分かる。
 だが、世界恐慌が日本の製糸業に致命的打撃となった。沼津繭市場も昭和九年、強制合併を余儀なくされ
た。名取翁は実質的に経営に携わったが、戦時統制経済下の十三年、第一線から退いた。
 戦後まで生き残った大製糸工場もやがて相次ぎ閉鎖。このうち二工場の跡には西友、イトーヨーカドーの大型商業施設がそれぞれ立地している。
 「ようやく名取商会出身の名に恥じない会社になれた」。精密板金加工で高度な技術を持つ沼津市の安田製作所社長安田忠博さん(六〇)は、創業者の父・忠雄さんが生前、名取翁が創設、した沼津信用金庫との取引開始を、こう喜んでいたことを懐かしむ。
 名取商会で働き、「名取翁の秘蔵っ子」を自負していた忠雄さんの鉄工所が軌道に乗ったのは四十年代。「それまでどんな苦しい時も沼津信金を頼らなかった。そのくらい名取に対する思い入れが強かった」と忠博社長は振り返る。沼津繭市場を中心に名取翁が築いた産業を、直接引き継ぐ企業は沼津に残されていない。だが、起業精神は受け継がれる。

 沼津繭市場や沼津信用金庫を創設、県政史上唯一の首相石橋湛山を静岡の選挙区に招いた明治から戦後の沼津政財界の重鎮、名取栄一が今月、没後五十年を迎えた。ひ孫の名取正純沼津ヤナセ社長が所有する原稿「名取栄一翁伝記」(未出版)を見ながら、名取翁の足跡と今を探った。(東部総局・海野俊也が担当します)
(静新平成20年11月21日「名取栄一翁伝」)
  

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2008年07月29日

河鍋暁斎

「河鍋暁斎と沼津」
望月宏充(原ルネッサンスの会会長、原西町二区)

 先日、大塚・長興寺の松下宗柏住職から八月三日まで東京の国立博物館で開催されている「フランスが夢見た日本」展の招待券をいただき、今月二十三日に博物館を訪ね、鑑賞してきた。
 この展覧会は日本の浮世絵・版本を基に制作されたオルセー美術館所蔵の陶磁器(テーブルウェア)と浮世絵版画を対比して展示しているもので、この中に北斎や廣重の沼津、浮島ケ原の作品と並んで河鍋暁斎の版本「暁斎楽画」を基に制作された作品が多数展示されていた。
 暁斎は沼津に縁を持ち、・また海外で、その作品が再評価されて人気が高く、「明治の北斎」とも言われる画家・浮世絵師である。
 私は以前から彼の作品や沼津とのつながりに興味を持ち、昭和六十三年、埼玉県蕨(わらび)市にある「河鍋暁斎記念美術館」を訪れ、そこで、暁斎の子孫の河鍋楠美館長にお目にかかり、食事を交え、いろいろと話をすることができた。
 その中で、会誌『暁斎』への投稿を依頼され、浮世絵「東海道之内 田子浦蛇松」について書かせていただいた。さる六月十三日、図らずも、暁斎のことで沼津を訪れた楠美先生に二十一年ぶりに再会し、懐かしく話をすることができた。この機会に、「河鍋暁斎と沼津」のことについて、本欄をお借りして紹介させていただく。
 河鍋暁斎(天保二年-明治十八年)は下総国古河生まれ。名は周三郎。七歳で歌川国芳に入門し、後に狩野派の狩野洞白陳信門に移り、洞郁陳之と称した。自由奔放、酒を愛し、天才肌の画家で初期浮世絵の画号は周麿(ちかまろ)を名乗り、また狂斎など多くの号を使ったが、一般的には惺々暁斎(せいせいきょうさい)の名で知られる。
 彼と沼津とのつながりは、明治維新で彼の兄が徳川家の駿河入りについて母と沼津に移住、それが縁で暁斎も明治四年(このころ、狂斎を暁斎に改める)、沼津や修善寺に足を留め、その間に沼津の女性、宇田しんと結ばれ、明治五年に宇田雨柳が生まれた。
 雨柳は俳号で、本名は竜蔵・柳三郎と言い、画号は父と同じ「惺々暁斎」を名乗る。沼津でペンキ業・看板店を営み、沼津のペンキ業のはしりと言われ、父譲りの画才があり、俳句・絵・絵馬などを描き活躍した。雨柳の次女は、日本画家の佐々木古桜と結婚した。
 佐々木古桜は京都生まれで、谷口香キョウ・小堀靹音に学んだ大和絵画家で、武者絵を得意とした。縁あって沼津に逗留し、後に永住した。代表作は三嶋大社に奉納され、また太平洋戦争中の生活を絵で綴った「画便り」「画日記」で知られる。
 このように沼津の暁斎の流れは子孫に受け継がれている。
 暁斎の沼津の浮世絵には周麿時代の「東海道之内田子浦蛇松」、暁斎画「東海道五十三駅名画之書分原」等があり、沼津兵学校教授の渡部温が翻訳した「通俗 伊蘇
普(イソップ)物語」に挿絵を描き、また明治五年に沼津で没し、本光寺に葬られた母の墓石には暁斎が描いた「枯木寒鴉図」が彫られていたが、今は失われている。
 このように沼津と深い縁がある大画家「河鍋暁斎」や宇田雨柳、佐々木古桜の作品を集めた展覧会を、ぜひ地元の沼津を中心にした施設で開催していただきたいものと願っている。
(沼朝平成20年7月29日「言いたい放題」)



↑河鍋暁斎の代表作品  

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2008年03月10日

本居宣長

本居宣長
「源氏物語千年⑧」島内景二.
「もののあはれ」見抜いた宣長
本居宣長(一七三〇年ー一八〇一年)の著作を読むと、底なしの学力に恐ろしくなる。人間は努力すれば、ここまで思索を高められるのだ。源氏物語を最も深く読んだ日本人は、宣長だろう。
北村季吟が「湖月抄」で集大成したのは、それ以前の読み方だった。その伝統的な解釈史を、宣長はたった一人で見事にひっくり返した。
宣長の代表作は「古事記伝」だが、源氏物語の魅力を縦横に論じた柵玉の小櫛(おぐし」もまた、奇跡の書である。季吟が過去の解釈のすべてを踏まえて、「この文章はこう解釈するのが穏当だ」と整理したので、普通の読者ならばすんなりと納得する。だが宣長は、平然と膨大な個所の異議申し立てを行う。ほとんどの場合、宣長の新解釈の方が深い。
しかも宣長は、この物語の大前提である「光源氏の年齢」を正確に計算し、季吟までの学者が犯していた年齢の間違いを訂正した。現在市販されているテキスト類は、自明のように「この巻は光源氏の十七歳から翌年までを描く」などと説明しているが、この数字は宣長が計算し直した数字である。
天才的な分析力と論理力を武器に、深く正しく本文を読み抜いた宣長は、源氏物語の生命力の正体を見抜き、「もののあはれ」と名づけた。
論理の人である宣長は、何と情緒の人でもあったのだ。人間は、理屈で人を好きになったり、死者を哀惜するのではない。腹の底からこみあげてくる、自分でも説明できない根源的な感情があって、それに突き動かされて、泣いたり笑ったりするのだ。それが「もののあはれ」である。
光源氏は、最も大きな「もののあはれ」を抱いて苦しんだ人間だった。そう語る宣長は、紫式部が源氏物語を書かずにはいられなかった「暗い宿命」を見つめていた。なぜ紫式部はこの物語を書いたのか。自分でもわからない、せっぱ詰まった情動が、彼女を動かしたのだ。
宣長が没して、二百年以上になる。彼以後の研究者は、まだ「もののあはれ」にかわる源氏物語の生命力を発見できていない。それほど、宣長がこの物語から発見した心の闇は深かった。(電気通信大教授)
(静新平成20年3月10日「命をつなげた人々」)
  

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2008年03月03日

北村季吟

源氏物語千年⑦ 島内景二
注・解を併記、北村季吟の名編集
大坂夏の陣が終わり、待望久しい平和な時代となった。そして、絢欄(けんらん)たる元禄文化が花開いた。
長い戦乱に苦しみ、平和を願った文学者たちの悲願が、ついに実現する時が来た。「古今伝授」の流れをくむ第一人者の名前は、北村季吟(一六二四ー一七〇五年)。
新しい文化の中心地である江戸で、京都から来た季吟を迎えたのは、徳川第五代将軍綱吉と、側用人の柳沢吉保だった。
季吟は柳沢吉保に向かって、古今伝授のエッセンスを「為政者の心の持ち方」として熱く語りかけた。その成果が、東京・本駒込の六義園である。六義園こそは、季吟の夢を実現したユートピアだった。
季吟は、平和な時代に人々が幸福に暮らすために、源氏物語を活用したいと願った。それには、何よりもこの作品が正しく読まれねばならない。そこで、画期的なアイデアに満ちた「湖月抄」を書いた。
「湖月抄」には、源氏物語の「本文」が掲載してある。その行間に、言葉の意味や主語・目的語が「傍注」として書き込まれている。なおかつ上欄の「頭注」には、解釈の分かれる個所が懇切に解きほぐされている。
この三要素の一つ一つは、過去の研究史を交通整理したもの。内容的には目新しくない。だが、一冊の本で三要素を視覚的にデザインしたのは、季吟の名編集者としての才能であり、天才的なオリジナリティーである。「湖月抄」があれば、「原文」でそのまま源氏物語が読める!
藤原定家以来の本文校訂の努力も、四辻善成のモデルの指摘も、一条兼良の文脈の把握も、宗祇の平和への希求も、三条西実隆の鑑賞も、すべてが「湖月抄」で適切に再整理された。中世の集大成である「眠江入楚(みんこうにつそ)」は、残念なことにビジュアル性に欠けていた。
「湖月抄」から、近世の日本文化が大きく動き始める。向学心さえあれば誰でも源氏物語の原又が味読でき、文化の創造に応用できたからだ。
「湖月抄」で学んだ文化人は、源氏物語の文体とボキャブラリーで、自分の思想を表明することなど自由自在だった。
私自身、「湖月抄」を初めて入手した喜びを記憶している。そして、今も使い続けている。(電気通信大教授)
(静新平成20年3月3日「命をつないだ人々」)
  

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2008年02月25日

細川幽斎

細川幽斎
源氏物語千年:島内 景二
細川幽斎の個性的文学観
細川幽斎(一五三四-一六一〇年)は、中世の最後に現れた文武両道の巨人である。
足利将軍家の奉公衆、三淵晴員の子として生まれ(室町幕府第十二代将軍の足利義晴の子という説もある)、天下人である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と渡り合い、天下分け目の関ケ原の合戦を切り抜け、熊本藩五十四万石の基礎を築いた武人である。
文人としても偉大だった。彼は、藤原定家以来の中世の古典学を集大成しようとした。伊勢物語の解釈の歴史を一覧・整理したけつきしよう「闘疑抄」は、二十一世紀から見ても決定版と言える。
だが残念なことに、政道で多忙な幽斎には、源氏物語に関する膨大な解釈の歴史を取捨選択しながら集大成する時間がなかった。
そこで幽斎は、自分の芸術観を伝授した中院通勝(なかのいんみちかつ)に援助して、大著「眠江入楚」(みんこうにつそ)をまとめさせた。これは、中世源氏学の決定版である。
幽斎は、単に諸説を寄せ集めたのではない。彼は強烈にして個性的な文学観の持ち主だった。それでは、源氏物語をどう読んだのか。
キーワードは、二つある。一つは、宗祇以来の「平和を希求する心」。三人の天下人と親しく接し、彼らの栄枯盛衰を眺め続けた幽斎だからこそ、平和を待望する心は人一倍強かった。それが、伊勢物語や源氏物語にぶつけられた。
幽斎の文学観の二つ目のキーワードは「ユーモア精神」。戦乱に明け暮れた彼の心は、意外なほど温かかった。政治にも文学にも、緩急の使い分けが必要だと信じていたのだろう。
だから、光源氏は紫の上たちとまじめな生活を送るだけでなく、末摘花のようにコミカルな女性との交際を必要とした、と幽斎は考えた。
そして、ユーモラスな場面を「物語の誹譜(はいかい)」と呼んだ。誹譜は古今和歌集の和歌から始まり、中世の連歌を経て、近世では「俳譜」となって大輪の花を咲かせた。俳譜を大成した松尾芭蕉には、幽斎と同じく、「わび・さび」のまじめな姿勢と、滑稽(こつけい)な俳譜精神が同居していた。
中世の最良の文化は、細川幽斎というダムに集積し、近世の日本文化へと流れ出していった。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月25日「命をつないだ人々」)
  

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2008年02月18日

三条西実隆

三条西実隆
源氏物語千年:島内景二
鋭く深い鑑賞力、三条西実隆
昨年末に出光美術館(東京・丸の内)で見た「乾山の芸術と光琳」は、名品ぞろいだった。中でも、尾形乾山(一六六三~一七四三年)が三条西実隆(一四五五~一五三七年)の和歌にヒントを得て描いた「花籠図」(重要又化財)は、見事なものだった。
三条西実隆は宗祇から古今伝授を受け、源氏物語の第一人者となった。実隆の子も孫も、一流の源氏学者としての業績を残し、「源氏学の家元」の観があった。
三条西家は、香道の「御家流」(おいえりゆう)家元でもある。江戸時代の香道は、「源氏香」という遊びを洗練させてゆく。実隆も、一条兼良や宗祇と同じく、乱世を生きた。
皮肉なことに、日本文化の最大の危機だった戦国時代に、源氏研究は飛躍的に進んだのだ。
危機の時代にこそ批評精神が育ち、研究は進展し、その成果が多くの人々にも恩恵を及ぼす。ちょうど、近代に入って外国語に堪能な教養人ですら九百年前の源氏物語が難解になった時代に、与謝野晶子が「口語訳」という画期的な"治療薬"を発明したように。
今年は、源氏物語千年紀だが、浮かれてばかりもいられない。この物語を、IT社会にふさわしいスタイルで一般読書人に手渡すための独創的なアイデアが、必要とされている。それには、三条西実隆ら先人の努力を参考にすべきだろう。
さて実隆の源氏研究のオリジナリティーは、「鑑賞」の鋭さと深さにあった。既に、この物語で用いられている語句、およびその出典、モデル、文脈、思想については、突き詰められていた。実隆はそれを踏まえ、一つ一つの文章に込められた作中人物と作者の思いをじっくり味わった。
芸術作品の生命に到達するためには、研ぎ澄まされた鑑賞力が必要とされる。光源氏や紫の上が抱いた巨大な悲哀感を、読者が自分の心に引き受けねば、源氏物語を読んだことにはならない。
粗筋をたどることに気を取られず、作品の進行を停止させて立ち止まる。登場人物の時間と心理を共有する。それに成功した読者は、登場人物の叫びや、作者のメッセージを明瞭(めいりよう)に聞き取れる。このような読み方を教えてくれたのが、実隆だった。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月18日「命をつないだ人々」)
  

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2008年02月04日

一条兼良

一条兼良
源氏物語千年:島内景二
一条兼良、近代的研究の源
一四六七年に応仁の乱が起き、下克上の戦国時代が始まった。信じられるのは、自分の目で見、自分の耳で聞いたものだけ。混乱とひきかえに、合理的精神が日本全国に広く行き渡った。
合理主義者が、古典を読んだらどうなるか。例えば伊勢物語に「女」とあれば、ただの「女」と解釈すべきで、二条の后がモデルだとか小野小町のことだとか空想するのはもってのほか、ということになる。
それが、一条兼良(一四〇二ー一四八一年)の信条だった。合理主義者の彼は、足利義政の妻で、実質的な幕府の最高権力者、日野富子に取り入った。「日本はアマテラス以来、女性が支配者だとうまく治まる」などと、著書で述べている。
兼良は、関白太政大臣まで上りつめた。しかも、「学問の神様」である菅原道真よりも自分の知識量が優れていると自負していた。彼が著した「花鳥余情」(かちようよせい)には、「我が国の至宝は、源氏の物語に過ぎたるはなかるべし」とある。
おそらく、自分以前の源氏研究は不十分で、自分が史上初めて、源氏物語が宝であるゆえんを解明したと信じたのだろう。ここに、近代的な源氏研究の源がある。
兼良が得意としたのは、「文脈」と「分類」の二つ。彼以前の研究は、「語釈=単語」にとどまっていた。言葉は、単語が連なった文章となって初めて意味を持つ。同じ言葉でも、文脈次第で意味が変わってくる。
四辻善成の研究で、一つの単語はすべての個所で同じ意味だとされていたのとは段違いである。
兼良の優れた分析力は、五十四の巻名を四つに分類した点に表れている。「その巻の歌の言葉から取った」「その巻の散文の言葉」「和歌にも散文にもある」「和歌にも散文にもない」の四分類である。これは、現代の市販されているほとんどすべてのテキストに踏襲されている。
一族が血で血を洗い、平和が失われた時代に、現在の高等学校の古文教育上の「基本理念」が確立していたのである。兼良は、源氏物語を近代人の解釈にたえる古典にまで高めた恩人である。だが、夢や空想力が失われた側面もある。ここが、源氏物語の分岐点だったかもしれない。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月4日「命をつないだひとたち」)

  

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2008年01月28日

四辻善成

「四辻善成」

源氏物語千年:島内 景二
「真実味加えた四辻善成」


正月七日には、七草がゆを食べる。この日に、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・仏の座・すずな・すずしろ、これぞ七草」という和歌を唱える人は多いだろう。
俗説では、この歌の作者は四辻善成だとされる。今日は彼をめぐって、話を進めよう。
源氏物語は虚構の作り話であり、光源氏は架空のヒーローである。そう思って読み始めた読者も、次第に抜き差しならない「現実感=リアリティー」を感じるようになる。登場人物の喜怒哀楽が、読者の心に直接にびんびんと響いてくる。
ここで、発想を変えてみよう。もし彼らが実在の人物であるとしたら、どうだろう。伊勢物語で「昔男」と呼ばれる男が、実際には在原業平をモデルとしていたように、源氏物語の登場人物にも、あるいは舞台となっている地名にもモデルがあるのではないか。
そういう読み方をしたのが、源氏物語の注釈書「河海抄」で知られる四辻善成(一三二六ー一四〇二年)なのだ。鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府が樹立され、南北朝の争いが続いた動乱の時代に、彼は研究に没頭した。
物語の書き出しは、「いづれの御時にか」(どの天皇の御代であったか)。紫式部は、桐壼帝の実名が誰か、ついに明かさなかった。
善成は、桐壺帝が醍醐天皇だと突き止めた。在位期間は八九七年から九三〇年。約千年前に書かれた源氏物語は、さらにその七、八十年前を描いた歴史小説だったのだ。
醍醐天皇の皇子で、源氏となった人はいないか。その人に、左遷された経験があればなおよい。いるのだ、そういう人が。源高明(九一四ー九八二年)。ならば、彼が光源氏のモデルだろう。
物語は、歴史以上に真実味がある。善成は、夕顔が光源氏の目の前で急死した「なにがしの院」が、源融の住んだ「河原の院」だとも特定している。このような「モデル読み」に従って、江戸時代には、夕顔の住んだ家の敷地を特定した源氏ファンさえいた。
善成は、紫式部の墓が「雲林院白毫院の南」にあったと証言している。ただし、真偽は定かではない。虚構と真実の絶妙のブレンドの楽しみ方を教えてくれたのが、四辻善成という人物だった。(電気通信大教授)
(静新平成20年1月28日(月)朝刊)

  

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