2015年11月26日

原 節子さん死去

原 節子さん死去 95歳、
 女優「東京物語」
harasetuko

 戦前から1960年代にかけて日本映画を代表する女優として活躍した原節子(はら・せつこ、本名会田昌江=あいだ・まさえ)さんが9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去したことが25日分かつた。95歳。横浜市出身。戦後、今井正監督「青い山脈」に主演。「晩春」「東京物語」など小津安二郎監督の代表作でヒロインを演じた。日本映画史を飾る名作に出演し、42歳で引退した。
【静新平成27年11月26日(木)朝刊】
  

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2015年11月17日

及川さくらさん(沼津市)

内閣府「家族、地域の大切さ」コンクール
 母への感謝つづる
oikawa
 沼津中央高1年の及川さくらさん(沼津市)がこのほど、内閣府の「家族や地域の大切さに関する作品コンクール」の手紙・メール部門中高生の部で最優秀賞に輝いた。
 11月の第3日曜日の「家族の日」に合わせ、文章や写真で家族や地域への思いを表現するコンクール。「母の存在」と題した作品に、母子家庭で自分と弟を育てる看護師の母親が働く姿を見て「かっこいい」と感じたことや、日頃の感謝などをつづった。
 「母子家庭はつらいことばかりじゃない。ほかの家族に負けないくらい幸せになれると伝えたかった」。言いたいことがあふれ、2日間で書き上げた。
 応募761点の中から最高賞を獲得し、15日に山口県で行われた表彰式には、母と一緒に参加した。母と同じ看護師を目指して勉強しているという。及川さんは「母への感謝を伝えられて良かった」と受賞を喜んだ。(手紙・メール部門761点の応募)
【静新平成27年11月17日(火)朝刊】
  

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2015年11月15日

杉浦千畝(すぎうら うちね)

杉原千畝
(すぎはら ちうね)、SUGIHARA"Sempo"Chiune
杉浦千畝
 1900年(明治33)1月1日一1986年(昭和61)7月31日外交官。
 第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて、現在数十万人以上にも及び、世界各国で活躍している。
 海外では、センポ・スギ八ラ、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる、「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。

 ビザ発給後の杉原千畝
 1947年杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの解職であった。その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。しかし、1968年8月、突然に杉原ヘ一人のユダヤ人殻連絡があった。杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。翌年、彼らを救つた功績力から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣より勲章が授与された。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰。1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシ江ム賞)」を受賞した。
 命のビザとは、リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝領事代理によって、ユダヤ人難民に発給された日本通過ビザをいいます。1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込みました。しかし、ソ連によるリトアニア併合が確実となり、彼らには日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという方法しか残されていませんでした。1940年7月18日、ビザを求めたユダヤ人難民が領事館へ押し寄せたため、杉原は本国ヘビザ発給を打診しますが、回答は「NO!」でした。しかし.彼は悩み苫しんだ末、命令に反してユダヤ人難民にビザを書き始めました。それは、人道・博愛精神第一という大きな決断でした。

 生い立ち
 1900年(明治33)岐阜県加茂郡八百津町北山に生まれる
 1918年(大正7)早稲田大学高等師範部(現在の教育学部)英語科予科に入学
 1919年(大正8)外務省留学生採用試験に合格
外務省ロシア語留学生として八ルピンに留学
 1924年(大正13)外務省書記生として採用
在ハルピン総領事館の勤務を命ぜられる
 1932年(昭和7)満州国外交部特派員公署事務官に任命
 1935年(昭和10)北満州鉄道の譲渡交渉で活躍する
 1936年(昭和11)菊池幸子と結婚
 1937年(昭和12)フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任
 1939年(昭和14)リトアニア・カウナス日本領事館領事代理に任命
 1940年(昭和15)ユダヤ人難民が領事館に集まる
 ユダヤ人難民に大量のビザ発給を始める
 領事館閉鎖後ホテルへ移動する
 カウナス駅からベルリンに向かう
 総領事代理としてプラハに赴任
 1941年(昭和16)東プロイセン・ケーニヒスベルク日本総領事館に赴任
 ルーマニア・ブカレスト日本公使館に赴任
 1945年(昭和20)ブカレストの捕虜収容所に入る
 1947年(昭和22)ウラジオストクから興安丸で博多港に上陸
 外務省を退職
 *この間沼津にて居住
 1947年(昭和22)(株)世界平和建設団事務局に就職、以後9回職場を変わる
 1968年(昭和43)ユダヤ人難民だったニシュリと再会
 1969年(昭和44)イスラエルで政府宗教大臣より勲章を授与
 1975年(昭和50)国際交易(株)を退社、モスクワより帰国
 1985年(昭和60)イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシエム賞)1を受賞
 1986年(昭和61)鎌倉にて永眠(享年86歳)

外交官からビジネスマンに
 「六千人の命のビザ」の杉原千畝
 戦後七十年記念企画展として先月、プラサヴェルデで開かれた「杉原千畝と命のビザ~戦後過ごしたゆかりの沼津市にて~」では、関連行事として杉原美智さんによる講演が同施設コンベンションホールで行われた。
 
戦中から晩年の様子など
 企画展で長男の妻が講演
 杉原千畝(一九〇〇~一九八六)は、戦前から戦中にかけての外交官。東欧リトアニアへの赴任時、ナチスドイツによる迫害政策から逃れたユダヤ人難民に日本滞在を認めるビザを発給。本にもなった『六千人の命のビザ』として知られる。
 戦後、外務省の方針に反してビザ発給を行ったことが問題視されて退職。その後はビジネスマンなどとして過ごした。美智さんは杉原の長男の夫人。
 美智さんは、杉原の生涯について触れる中で、江戸川乱歩と同じ旧制中学を卒業したこと、医師になるという父の意向に背いて進路を変えたため学資の援助を得られず苦学したことなどを話した。
 父親が望んだ医学専門学校ではなく早稲田大学高等師範部英語科予科に進学した杉原は、外務省の留学生として中国東北部のハルビンでロシア語を学び、一九二四年(大正一三)に外務省職員として採用された。三一年(昭和六)に満州事変が起きて満州国が成立すると満州国政府の外務部(外務省)に在籍したが、満州国の実情に我慢ができなくなり、再び日本の外交官になったという。
 その後、フィンランドやリトアニアに赴任し、四〇年(昭和一五)にユダヤ人難民へのビザ発給を行うことになる。
 美智さんは、晩年の杉原についても話し、商社のモスクワ事務所長として単身赴任し帰国するのは年一回だったこと、当時は身なりも仕草も日本人離れしていたことなどを紹介した。
 また、最晩年は「誰かにロシア語を教えたい」と、たびたび周囲に話していたという。
 今回の講演会と企画展は、杉原の母校でもある早稲田大学の同窓会組織沼津支部の「沼津稲門会」の協力も得て実施された。
【沼朝平成27年12月16日(水)号】

  

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2015年11月10日

加藤訓久(かとうくにひさ)さん(沼津市)

地域資源の発掘に取り組む
沼津商工会議所青年部会長
 加藤訓久(かとうくにひさ)さん(沼津市)
katoukuni

 「継承と発展個を結集して大きなカへ沼津YEG」をスローガンに掲げ、若手経営者や後継者などの会員約200人をリードする。第27代会長。勢和警備保障社長。45歳。
 ー重点を置く活動は。
 「人口減少を沼津の課題として捉え、定住人口の拡大につながる取り組みを進めていきたいと考えている。本年度は地域資源の掘り起こしを大きなテーマとしている」
 ー具体的な取り組みは。
 「郷土を育む次世代の人材として高校生に注目している。沼津夏まつりでは、市内3校に働き掛け、木工体験や地域商品を販売するブースを出店してもらった。今後も若い世代に対して、地域の魅力に気付いてもらえる仕掛けをしていきたい」
 ー農業や漁業との連携にも意欲的。
 「新産業の創出も今後、力を入れていきたい分野。9月末にJAなんすん青壮年部との勉強会をスタートした。商品開発を含めた地域ブランドの確立を大きな目標とし、勉強会を重ねていきたい」
 ー組織の強みは。
 「27年の歴史、経験が蓄積され、個々の持つスキルが高い。一致団結した時に大きな力を発揮する。今後も経営者としてのスキルはもちろん、広い視野と地域愛を持った人材の育成を進めていきたい」

趣味は野球とバイクのツーリング。
【静新平成27年11月10日(火)この人】
  

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2015年11月07日

福本薫さん(ふくもとかおる)(沼津市

沼津茶の普及に向けイベントを展開する
 福本薫さん(ふくもとかおる)(沼津市)
お茶きん

 日本茶インストラクターとして活動し、今年4月には日本茶インストラクター沼津支部の支部長に就任した。茶の小売りを行う「お茶きん」(沼津市市場町)の5代目店主。沼津茶商組合長も務めている。58歳。
 ー支部の取り組みは。
 「沼津茶の振興のため、市役所での呈茶サービスや市内小学校での茶の出前講座を行い、さまざまな形で沼津茶に親しんでもらう取り組みを進めている。10月には初の試みとして、茶を通して男女の出会いを応援する『お茶婚』も開いた」
 ー茶を取り巻く現状は。
 「ペットボトル茶が普及し、急須を知らない子供が増えている。それでも小学校の出前講座で子供たちが急須で入れたお茶を口にすれば、必ず『おいしい』という反応が返ってくる。とにかくお茶を味わう機会を増やしていくしかない。体にいいなど茶の効能を地道に広めていく必要もある」
 ー沼津茶の特徴は。
 「なんといっても水色がさわやか。ただ、認知度が低いのが実情。ブレンドで水色の良さを生かす方法もある。沼津茶がもっと知られるような取り組みを考えて盛り上げていくつもり」
 ー文部の目標は。
 「4月から沼津だけでなく、近隣市町の人も会員になれるようにした。支部の一員になることで活動の幅が広がる。一緒に活動する仲間を増やしていきたい」

趣味はカメラ。収集も、撮影も楽しむ。
【静新平成27年11月7日(土)「この人」】
  

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2015年11月05日

シニアのレスリング世界大会で優勝 沼工の三澤泰雄教諭

シニアのレスリング世界大会で優勝
フリー58㌔級 沼工の三澤泰雄教諭
misawa
 沼工保健体育科の三澤泰雄教諭(59)=写真=は、十月十三日からアテネで開かれたアマチュアレスリングの世界ベテランズ選手権に出場し、Eクラス(56~60歳)のフリースタイル58㌔級で優勝した。今年一月に開催された全日本マスターズレスリング選手権大会63㌔級で優勝し、全日本マスターズレスリング連盟から世界大会への出場を推薦された。
 清水町柿田生まれの三澤教諭は清水中学卒業後、修善寺工業高校(現・伊豆総合高校)へ進学。同校でレスリングを始め、グレコローマン(以下グレコ)主体に取り組んできた。
 高校三年の時には、フリースタイルのみ実施される高校総体52㌔級でベスト8入り。進学した日体大では三年生の時に全日本学生選手権大会グレコ57㌔級で準優勝、四年生で優勝。その年の全日本選手権グレコ57㌔級で三位に入ったが、五輪出場は果たせなかった。
 卒業後、県内の公立校で二年間、講師を務めてから教諭となったが、赴任先の高校にレスリング部はなく、大学卒業から十八年目、三島南高でレスリング部を立ち上げ監督に就任した。
 沼工勤務は今年で十五年目。レスリング部を指導する傍ら、自らも鍛錬を怠らず、一月の全日本マスターズ出場前には二週間に一度、生徒と共に伊豆総合高へ出向いて練習し、普段66~67㌔ある体重を減量した。
 この全日本を機に引退する考えだったが、同僚の勧めもあり、「58歳(世界大会出場時)、58㌔級」の語呂合わせで世界大会出場を決断したのが四月。勝負に徹するため一階級下の58㌔級での挑戦を決め、出勤前、雨の日を除き、柿田の自宅から香貫大橋経由で香貫山香陵台を走って往復。
 夏休み期間中には香貫山の坂道をレスリング部の練習前に部員と一緒に走り、練習後も走り込んで体重を落とし続け、八月には目標の58㌔を下回る日もあり、約六㌔の減量に成功した。
 世界大会で三澤教諭がエントリーしたクラスには八選手が出場。一回戦、カザフスタンの選手に二ラウンドフォール勝ち、二回戦のトルコの選手には9対2の判定勝ち、決勝ではアメリカの選手を一ラウンドフォールで破り、初出場で初優勝を飾った。
 三澤教諭は「背中を押してくれたレスリング部の先生、そして大会のために休ませてくれた校長はじめ職員、特に体育科の先生に感謝したい。それと、食事など健康面で配慮してくれた妻の支援が大きかった。最後の大会と思っていたので有終の美を飾ることができ、うれしいの一言」と喜びを語った。
【沼朝平成27年11月5日(木)号】
  

Posted by パイプ親父 at 10:47Comments(0)素晴らしい

2015年11月03日

石井直樹さん(いしいなおき)

 旭日小綬章(地方自治功労)
 石井直樹さん(いしいなおき)
 (元下田市長、下田市)
石井

 財政再建へ3期尽力
 3期12年間の任期中は、市民や市職員の協刀で、悪化していた市の財政再建に力を注いできました。家庭では妻に相談に乗ってもらうことも度々ありました。受章はそうした多くの支えがあってこそで、身に余る光栄です。心から感謝したいです。地方都市の首長ながら、黒船祭などを通じ、外国の要人と交流させていただいたのも貴重な体験として思い出に残っています。
【静新平成27年11月3日(火)朝刊】
  

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2015年11月03日

 小川良昭(おがわよしあき)さん

 旭日小綬章(弁護士功労)
 小川良昭(おがわよしあき)さん
(元日本弁護士連合会常務理事、沼津市)
ogawabengoshi

 人権擁護を胸に活動
 県弁護士会を代表して頂いたと思っています。弁護士の使命である人権擁護と社会正義の実現を忘れずに活動してきました。日弁連や県弁護士会の活動では公設事務所の下田ひまわり基金法律事務所や法テラスの開設準備などに励んだのが思い出深いです。法曹界もどんどん若い世代が入ってきています。しっかりと経験を引き継ぎ、若い世代の活躍に期待したいです。
【静新平成27年11月3日(火)朝刊】
  

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