2008年02月25日

細川幽斎

細川幽斎
源氏物語千年:島内 景二
細川幽斎の個性的文学観
細川幽斎細川幽斎(一五三四-一六一〇年)は、中世の最後に現れた文武両道の巨人である。
足利将軍家の奉公衆、三淵晴員の子として生まれ(室町幕府第十二代将軍の足利義晴の子という説もある)、天下人である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と渡り合い、天下分け目の関ケ原の合戦を切り抜け、熊本藩五十四万石の基礎を築いた武人である。
文人としても偉大だった。彼は、藤原定家以来の中世の古典学を集大成しようとした。伊勢物語の解釈の歴史を一覧・整理したけつきしよう「闘疑抄」は、二十一世紀から見ても決定版と言える。
だが残念なことに、政道で多忙な幽斎には、源氏物語に関する膨大な解釈の歴史を取捨選択しながら集大成する時間がなかった。
そこで幽斎は、自分の芸術観を伝授した中院通勝(なかのいんみちかつ)に援助して、大著「眠江入楚」(みんこうにつそ)をまとめさせた。これは、中世源氏学の決定版である。
幽斎は、単に諸説を寄せ集めたのではない。彼は強烈にして個性的な文学観の持ち主だった。それでは、源氏物語をどう読んだのか。
キーワードは、二つある。一つは、宗祇以来の「平和を希求する心」。三人の天下人と親しく接し、彼らの栄枯盛衰を眺め続けた幽斎だからこそ、平和を待望する心は人一倍強かった。それが、伊勢物語や源氏物語にぶつけられた。
幽斎の文学観の二つ目のキーワードは「ユーモア精神」。戦乱に明け暮れた彼の心は、意外なほど温かかった。政治にも文学にも、緩急の使い分けが必要だと信じていたのだろう。
だから、光源氏は紫の上たちとまじめな生活を送るだけでなく、末摘花のようにコミカルな女性との交際を必要とした、と幽斎は考えた。
そして、ユーモラスな場面を「物語の誹譜(はいかい)」と呼んだ。誹譜は古今和歌集の和歌から始まり、中世の連歌を経て、近世では「俳譜」となって大輪の花を咲かせた。俳譜を大成した松尾芭蕉には、幽斎と同じく、「わび・さび」のまじめな姿勢と、滑稽(こつけい)な俳譜精神が同居していた。
中世の最良の文化は、細川幽斎というダムに集積し、近世の日本文化へと流れ出していった。(電気通信大教授)
(静新平成20年2月25日「命をつないだ人々」)


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Posted by パイプ親父 at 10:58│Comments(0)歴史上の人物
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