2017年03月08日
2017年02月28日
2017年02月22日
2017年02月22日
2016年05月28日
新会長に田中氏 沼津国際交流協
新会長に田中氏 沼津国際交流協

沼津国際交流協会はこのほど、沼津市内で本年度総会を開き、新会長に田中治之副会長(61)=県広告美術業協同組合副理事長=を選任した。任期は2年。
会長交代は12年ぶり。田中会長は就任のあいさつで「協会の若返りと会員拡大に取り組む」と抱負を述べ、顧問に就任した安田政義前会長(65)に感謝状を手渡した。沼津市の友好都市である中国・湖南省岳陽市の訪問団と研修生の受け入れや、広報ぬまづの翻訳発行などの本年度事業計画も承認した。
(静新平成28年5月28日朝刊)

沼津国際交流協会はこのほど、沼津市内で本年度総会を開き、新会長に田中治之副会長(61)=県広告美術業協同組合副理事長=を選任した。任期は2年。
会長交代は12年ぶり。田中会長は就任のあいさつで「協会の若返りと会員拡大に取り組む」と抱負を述べ、顧問に就任した安田政義前会長(65)に感謝状を手渡した。沼津市の友好都市である中国・湖南省岳陽市の訪問団と研修生の受け入れや、広報ぬまづの翻訳発行などの本年度事業計画も承認した。
(静新平成28年5月28日朝刊)
2016年05月07日
沼津市教育長に就任した服部裕美子さん
沼津市教育長に就任した
服部裕美子さん、(はっとりゆみこ)(沼津市〉

1978年に教員採用され、沼津市立の西浦小や開北小の教頭、浮島小や門池小の校長などを経て、今年4月から同市では初の女性教育長となった。新教育委員会制度に基づき栗原裕康市長が任命した初の教育長で、任期は3年間。60歳。
ー就任後の感想は。
「38年にわたって一貫して小学校の現場で子供たちの教育に携わってきた。就任してから、さまざまな教育施設などを見て回った。まだ学ぶことも多い。今はとにかく視野を広げたい」
ー教員に望むことは。
「全ての子供が素晴らしい感性を持ち、大きな可能性がある。子供一人一人をしっかりと見てほしい。子供の成長や保護者の声が糧になるはず。孤立せず、教員仲間や地域、保護者とつながりながら、子供の自信や夢を育んでもらいたい」
ー教育で重視する点は。
「人生はいくつになっても学ぶことばかり。子供たちが分かる楽しさを知ってくれれば。子供を取り巻く問題に対して、周囲の大人が協刀して対応する重要性も増している。市内全体で子供を育てやすい環境をつくっていく必要がある」
ー今後の抱負は。
「市内小中学校を回り、現場の様子を見て、声を聞きたい。現場が動きやすい体制づくりも進める。子供数が減少する中、市内全体で小中連携をより強化していく必要性は感じている」
◇
草花や星などを見てリフレッシュするという。
【静新平成28年5月7日(土)この人】
服部裕美子さん、(はっとりゆみこ)(沼津市〉

1978年に教員採用され、沼津市立の西浦小や開北小の教頭、浮島小や門池小の校長などを経て、今年4月から同市では初の女性教育長となった。新教育委員会制度に基づき栗原裕康市長が任命した初の教育長で、任期は3年間。60歳。
ー就任後の感想は。
「38年にわたって一貫して小学校の現場で子供たちの教育に携わってきた。就任してから、さまざまな教育施設などを見て回った。まだ学ぶことも多い。今はとにかく視野を広げたい」
ー教員に望むことは。
「全ての子供が素晴らしい感性を持ち、大きな可能性がある。子供一人一人をしっかりと見てほしい。子供の成長や保護者の声が糧になるはず。孤立せず、教員仲間や地域、保護者とつながりながら、子供の自信や夢を育んでもらいたい」
ー教育で重視する点は。
「人生はいくつになっても学ぶことばかり。子供たちが分かる楽しさを知ってくれれば。子供を取り巻く問題に対して、周囲の大人が協刀して対応する重要性も増している。市内全体で子供を育てやすい環境をつくっていく必要がある」
ー今後の抱負は。
「市内小中学校を回り、現場の様子を見て、声を聞きたい。現場が動きやすい体制づくりも進める。子供数が減少する中、市内全体で小中連携をより強化していく必要性は感じている」
◇
草花や星などを見てリフレッシュするという。
【静新平成28年5月7日(土)この人】
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2016年02月04日
清水ひなのさん (伊豆の国市)
沼津市松下町を紹介するパンフレットを制作した
清水ひなのさん (伊豆の国市)
人口減少に悩む沼津市松下町自治会からの依頼を受け、卒業制作として取り組んだ。同町内に全戸配布するなど、地域の魅力を伝える。県立沼津西高芸術科美術専攻3年。17歳。
ー制作までの経緯は。
「多くの人が住みたいと思うまちづくりのためにと企画した松下町自治会から、地域内にある沼津西高にパンフレットの制作依頼があった。地域活性化の勉強や、楽しい高校生活の恩返しをしたいと考え、『松下町応援フロジェクト』として作ることを決めた」
ー工夫した点は。
「地域住民に松下町について見詰め直してもらおうと、約半年間、月に1回『松下町通信からすの子』を発行した。地域に関するアンケートを毎号付け、書かれた意見を次号の内容に生かし、パンフレットに何を書くかの参考にもした」
ー松下町の魅力は。
「地域を知るために、半日かけて地元の方と町内を歩いた。小さな川や湧き水があるなど、歩いてみて初めて感じる地域の良さに気付いた。『からすの子』を読んだ方から声を掛けられたこともあり、人の温かさも大きな魅力の一つだと感じた」
ー制作を振り返って。
「地元の方から好評をいただいた。たくさんの人と出会い、普通の高校生ではできない体験ができて良かつた」
◇
趣味は観劇。都内の小劇場にも足を運ぶ。
【静新平成28年2月4日(木)この人】
清水ひなのさん (伊豆の国市)

人口減少に悩む沼津市松下町自治会からの依頼を受け、卒業制作として取り組んだ。同町内に全戸配布するなど、地域の魅力を伝える。県立沼津西高芸術科美術専攻3年。17歳。
ー制作までの経緯は。
「多くの人が住みたいと思うまちづくりのためにと企画した松下町自治会から、地域内にある沼津西高にパンフレットの制作依頼があった。地域活性化の勉強や、楽しい高校生活の恩返しをしたいと考え、『松下町応援フロジェクト』として作ることを決めた」
ー工夫した点は。
「地域住民に松下町について見詰め直してもらおうと、約半年間、月に1回『松下町通信からすの子』を発行した。地域に関するアンケートを毎号付け、書かれた意見を次号の内容に生かし、パンフレットに何を書くかの参考にもした」
ー松下町の魅力は。
「地域を知るために、半日かけて地元の方と町内を歩いた。小さな川や湧き水があるなど、歩いてみて初めて感じる地域の良さに気付いた。『からすの子』を読んだ方から声を掛けられたこともあり、人の温かさも大きな魅力の一つだと感じた」
ー制作を振り返って。
「地元の方から好評をいただいた。たくさんの人と出会い、普通の高校生ではできない体験ができて良かつた」
◇
趣味は観劇。都内の小劇場にも足を運ぶ。
【静新平成28年2月4日(木)この人】
2016年02月02日
沼津青年会議所の理事長に就任した 鈴木一範さん
沼津青年会議所の理事長に就任した
鈴木一範さん(すずきかずのり)(沼津市)

2007年、沼津青年会議所(JC)に入会し、副理事長、日本JC東海地区協議会役員などを歴任。本業は東邦印刷包装(沼津市)の専務。39歳。
ー沼津市の現状は。
「長い海岸線を有する沼津市は東日本大震災以降、津波への危機感などから人口流出が進む。一方、沼津港には県内外から多くの人が訪れるなど、海の魅力がにぎわいをもたらしている。良い面も悪い面も含め、まちの特性を正しく理解した上でのまちづくりが求められている」
ー注力する事業は。
「沼津の特性として、高校が多いという点がある。昨年は沼津の新しい土産を開発しようと、高校と企業を結び付けた事業を行った。引き続き高校生に着目したい。夏の参院選から選挙年齢が18歳以上に引き下げられるので、高校生の政治参画への意識を醸成する取り組みもしたい」
ー沼津JCの課題は。
「会員数の減少が進み、現在は38人。ことしは20人以上の会員獲得を目指したい。JCは地域で活躍できる人材を育成する役割も担っているので、まずは仲間を増やしたい」
ー会員に伝えていきたいことは。
「『機会に参加しょう』と呼び掛けている。何でもやってみなくては始まらないし、やれば必ず身に付くことがある」
◇
趣味はラジコン、プラモデル。
【静新平成28年2月2日(火)朝刊】
鈴木一範さん(すずきかずのり)(沼津市)

2007年、沼津青年会議所(JC)に入会し、副理事長、日本JC東海地区協議会役員などを歴任。本業は東邦印刷包装(沼津市)の専務。39歳。
ー沼津市の現状は。
「長い海岸線を有する沼津市は東日本大震災以降、津波への危機感などから人口流出が進む。一方、沼津港には県内外から多くの人が訪れるなど、海の魅力がにぎわいをもたらしている。良い面も悪い面も含め、まちの特性を正しく理解した上でのまちづくりが求められている」
ー注力する事業は。
「沼津の特性として、高校が多いという点がある。昨年は沼津の新しい土産を開発しようと、高校と企業を結び付けた事業を行った。引き続き高校生に着目したい。夏の参院選から選挙年齢が18歳以上に引き下げられるので、高校生の政治参画への意識を醸成する取り組みもしたい」
ー沼津JCの課題は。
「会員数の減少が進み、現在は38人。ことしは20人以上の会員獲得を目指したい。JCは地域で活躍できる人材を育成する役割も担っているので、まずは仲間を増やしたい」
ー会員に伝えていきたいことは。
「『機会に参加しょう』と呼び掛けている。何でもやってみなくては始まらないし、やれば必ず身に付くことがある」
◇
趣味はラジコン、プラモデル。
【静新平成28年2月2日(火)朝刊】
2015年12月26日
田村俊子さん
田村俊子さんが歌文集「花吹雪」
自身の半生と花柳流の歴史振り返る
今年の刊行本から

花柳流日本舞踊、香道・茶道安藤家御家流、石水流盆石の各師範、田村俊子さん(89)は、卆寿を前に、歌文集「花吹雪」を発刊した。昭和十五年ごろから書きためてきた短歌を掲載し、夫の故花柳稔(田村稔)氏と歩んだ花柳流の歴史を写真で紹介。戦中や戦後復興期の沼津を詠った短歌、随筆を掲載した百九十八ページ。
田村さんは大正十五年、真砂町生まれ。昭和十五年、十五歳の時に駿河(現スルガ)銀行に就職し、二十一年に職場での勧めもあり日本舞踊花柳流花柳稔師に入門し、二十三年に花柳師と結婚。
花柳咲海として舞踊の舞台に立つとともに、後進を指導する一方、茶道、香道、盆石の師範となり、水墨画、ちぎり絵、大和絵も趣味で描く。
短歌は五十六年、東海短歌に入会して本格的に取り組むようになり、久田次郎氏(故人)に師事。久田氏が「寸信」創刊と同時に同人となり、二十三年に終刊するまで投稿。久田氏からは生前、歌集の出版を強く勧められていたが実現せず、その間、平成十七年には稔師を亡くした。
二十四年には、五十年来の付き合いがある居山郁子さんが主宰する茜塾に入り、短歌結社「沃野」に入会して三枝浩樹氏に師事。居山さんの協力で歌文集の発刊が実現した。
歌文集には駿河銀行入社時の記念写真から舞台での姿まで写真や文章を掲載している。
花柳流に関する歌も多く、亡き夫を詠ったものもあるが、戦時中に防空壕に隠したため焼失を免れたという短歌の中から抜粋し、戦死した兄を思う歌のほか、「かぼちゃ畑にうずくまり居りし空襲の夜 今は新たに生きねばならぬ」など当時の心境を詠ったものも。
晩年は孫、ひ孫と過ごす穏やかな日々を詠い「公園で旭と遊べば陽に光る花は珍し黄金桜よ」、孫の活躍を詠った「二二三の日御用邸には人あふれ孫の『序の舞』光まばゆき一など。
沼津朝日の沼津歌壇に投稿した歌の中から、「沃野」の東京大会で評価が高かった「米寿越して身の丈ちぢむ齢となりぬ木綿針もて作務衣なおす」などがあり、随筆は十編を掲載している。
田村さんは「写真と短歌を通して花柳流と、主人も愛した沼津の復興の歴史を語りたかった」と話している。
歌文集は二千五百円。二十七日までマルサン書店仲見世店に並ぶほか、吉田町の文化サロンからすうりでも扱っている。
【沼朝平成27年12月26日(土)号】
自身の半生と花柳流の歴史振り返る
今年の刊行本から

花柳流日本舞踊、香道・茶道安藤家御家流、石水流盆石の各師範、田村俊子さん(89)は、卆寿を前に、歌文集「花吹雪」を発刊した。昭和十五年ごろから書きためてきた短歌を掲載し、夫の故花柳稔(田村稔)氏と歩んだ花柳流の歴史を写真で紹介。戦中や戦後復興期の沼津を詠った短歌、随筆を掲載した百九十八ページ。
田村さんは大正十五年、真砂町生まれ。昭和十五年、十五歳の時に駿河(現スルガ)銀行に就職し、二十一年に職場での勧めもあり日本舞踊花柳流花柳稔師に入門し、二十三年に花柳師と結婚。
花柳咲海として舞踊の舞台に立つとともに、後進を指導する一方、茶道、香道、盆石の師範となり、水墨画、ちぎり絵、大和絵も趣味で描く。
短歌は五十六年、東海短歌に入会して本格的に取り組むようになり、久田次郎氏(故人)に師事。久田氏が「寸信」創刊と同時に同人となり、二十三年に終刊するまで投稿。久田氏からは生前、歌集の出版を強く勧められていたが実現せず、その間、平成十七年には稔師を亡くした。
二十四年には、五十年来の付き合いがある居山郁子さんが主宰する茜塾に入り、短歌結社「沃野」に入会して三枝浩樹氏に師事。居山さんの協力で歌文集の発刊が実現した。
歌文集には駿河銀行入社時の記念写真から舞台での姿まで写真や文章を掲載している。
花柳流に関する歌も多く、亡き夫を詠ったものもあるが、戦時中に防空壕に隠したため焼失を免れたという短歌の中から抜粋し、戦死した兄を思う歌のほか、「かぼちゃ畑にうずくまり居りし空襲の夜 今は新たに生きねばならぬ」など当時の心境を詠ったものも。
晩年は孫、ひ孫と過ごす穏やかな日々を詠い「公園で旭と遊べば陽に光る花は珍し黄金桜よ」、孫の活躍を詠った「二二三の日御用邸には人あふれ孫の『序の舞』光まばゆき一など。
沼津朝日の沼津歌壇に投稿した歌の中から、「沃野」の東京大会で評価が高かった「米寿越して身の丈ちぢむ齢となりぬ木綿針もて作務衣なおす」などがあり、随筆は十編を掲載している。
田村さんは「写真と短歌を通して花柳流と、主人も愛した沼津の復興の歴史を語りたかった」と話している。
歌文集は二千五百円。二十七日までマルサン書店仲見世店に並ぶほか、吉田町の文化サロンからすうりでも扱っている。
【沼朝平成27年12月26日(土)号】
2015年12月26日
矢田凡久(保久)さん
元政治家秘書 矢田凡久(保久)さん

「 やた・ぼんきゅう==やすひさ 1915年11月30日、小山町生まれ。8人きょうだいの長男として、町立成美小一沼津中(現沼津東高)に進んだ。卒業後は紀伊国屋書店や日本読書新聞社などで働き、近衛歩兵第2連隊、支那駐屯歩兵第2連隊に転属した。53年から遠藤三郎氏の秘書に就き、遠藤氏が他界した後は富士通や東タイなどで勤務。原田昇左右氏の統括責任者として選挙を担い、9回連続当選を支えた。沼津市企画部長のほか、市内の企業や医療法人の役員などさまざまな職を経て、85歳で職業的な仕事から引退した。」
政治の大切さを痛感
東名高速道や首都高速道の建設、狩野川台風の被災地復旧などに尽力した裾野市出身の政治家故遠藤三郎。旧衆院静岡2区で連続9期当選し、岸信介内閣で建設相を務めた大物を県東部の選挙区で秘書として支えた一人が、小山町出身の矢田凡久(本名・保久)さん(99)=沼津市=。政治家秘密の世界に飛び込み、遠藤の地元筆頭秘書として若かりし日の自民党総務会長の二階俊博氏らを育ててきた。数奇な縁からさまざまな職を経験した。今年11月に100歳。今でもその人望は厚い。
◇
政治家秘書は主人本位の一体感で臨まなければできません。経験を通じて政治ほど大変なことはなく、政治ほど大切なことはないと痛感しました。秘書に就いたきっかけは沼津中(現県立沼津東高)の恩師で、私たち夫婦の媒酌人だった前田千寸先生が「沼中卒の秘書になれる人を探している」と声を掛けてくれたこと。1953年1月から遠藤先生の沼津市の事務所で、書生ら5人ほどの取りまとめ役として働くことになりました。秘書としての始まりでした。
携わった選挙は3回目から。先輩秘書に教わりながら富士川以東の支援者回りなどを続け、血の小便が出たこともあったほど。遠藤先生が建設相として入閣して大臣秘書官を務めるなど選挙や秘書の仕事から多くの人脈ができました。二階俊博先生もその一人。中央大卒業後に秘書に加わり、選挙区にも頻繁に訪れてくれました。
秘書同士が立場を超えてまとまる場として「初心会」を発足しました。保守合同前の民主党幹事長だった岸信介氏が筆頭副幹事長の遠藤先生に贈った「初心忘るべからず」の一幅に由来しています。遠藤先生の命日12月27日を中心に集まって、しのんできました。
りーダーの資質学ぶ
遠藤先生は寡黙で地元のために献身した人でした。高速道路をめぐり東名か中央かどちらを先に着工するかという問題では意見を言いませんでした。土地を取られる農家に配慮した行動です。やると決断した時、決断後の行動は迅速でした。リーダーとして機を見るタイミング、決断すれば一気に動く行動力などを肌で学びました。
好きな書葉に「即離即覚(そくりそっかく)」があります。選挙に負けてもとちわれずに次を考える。くよくよしても仕方がないという意味です。遠藤先生の長兄が裾野市長選で敗れた時の言葉で、選挙の戦訓が万事に当てはまると自戒しています。遠藤先生は首都高速建設も力を注ぎ、首都高速道路公団が設立されると、私は秘書から公団調査役になり、遠藤先生の支援者でつくる遠藤会の原精一氏が沼津市長に当選した年からは、先生に言われて市企画部長として勤務しました。御用邸の払い下げ、東海大誘致などの課題を抱えていました。どれもこれまでに得た人脈が生き、実現や解決につながったと思います。
絶え間ない縁
書店の小僧から始まった人生を振り返ると、何回職業を変えたことか。行きたいという自分の意思で行ったところは一つもありません。次から次へと絶え間ない縁を与えてもらい、縁に従って生きた、いわば「随縁」です。縁は不思議です。どこでもここで一生働く気持ちで懸命に取り組んだ結果が次の縁につながってきたのではと思ったりもしますが、分かりません。
戦後70年です。真実を伝えることが生き残った人間の役目ですが難しい。近衛歩兵第2連隊に入隊し、翌年二・二六事件に巻き込まれました。戒厳令下鎮圧部隊の日々は忘れられない。その後は中国で第27師団支那駐屯歩兵第2連隊に転属し、師団司令部参謀部の作戦教育所属として打通作戦(大陸縦断作戦)にも参加しました。敗戦は広東から転進する途中で聞き、復員したのは31歳でした。
平和追求の努力を
仲間とともに戦後の郷土のために未来の道筋を考える場として「沼津自由大学講座」を企画しました。芹沢光治良や林芙美子、美濃部亮吉など各界を代表する人を講師に迎え、文化運動として結実しました。
「戦争はないほうが良い」。
誰もがそう思うでしょう。戦争をなくすためには、平素から皆で話し合い、英知を尽くして順序を踏んで平和を追求する努力をしなければならない。立派な政治家を輩出し、世界各国と話し、国内的には大同団結しないといけないでしょう。非常の時には非常の人が出てこないと非常を突破できません。
富士山に登るにもいくつもの道があります。一つの道でつっかえたら別の道を進む。道は一つではありません。お互いに助け合って良い方向を目指してほしい。同じ時代を生きているのだから。
『 遠藤三郎(1904-1971年)裾野市(旧富岡村)出身。旧制沼津中、第一高等学校、東京帝国大法律学科卒。農林省に進み食糧庁企画課長、和歌山県経済部長、農林省畜産局長などを歴任。1949年の総選挙で旧静岡2区より立候補して初当選し、衆院議員を連続9期務めた。大蔵政務次官や建設相のほか、自民党では副幹事長や政調副会長などの重職に就き、国土開発や農林水産業振興などに力を注いだ。狩野川台風の復旧には建設相として陣頭に立って対応した。』
(東部総局・杉山武博・宮崎隆男)
【静新平成27年5月1日「生きる」】

「 やた・ぼんきゅう==やすひさ 1915年11月30日、小山町生まれ。8人きょうだいの長男として、町立成美小一沼津中(現沼津東高)に進んだ。卒業後は紀伊国屋書店や日本読書新聞社などで働き、近衛歩兵第2連隊、支那駐屯歩兵第2連隊に転属した。53年から遠藤三郎氏の秘書に就き、遠藤氏が他界した後は富士通や東タイなどで勤務。原田昇左右氏の統括責任者として選挙を担い、9回連続当選を支えた。沼津市企画部長のほか、市内の企業や医療法人の役員などさまざまな職を経て、85歳で職業的な仕事から引退した。」
政治の大切さを痛感
東名高速道や首都高速道の建設、狩野川台風の被災地復旧などに尽力した裾野市出身の政治家故遠藤三郎。旧衆院静岡2区で連続9期当選し、岸信介内閣で建設相を務めた大物を県東部の選挙区で秘書として支えた一人が、小山町出身の矢田凡久(本名・保久)さん(99)=沼津市=。政治家秘密の世界に飛び込み、遠藤の地元筆頭秘書として若かりし日の自民党総務会長の二階俊博氏らを育ててきた。数奇な縁からさまざまな職を経験した。今年11月に100歳。今でもその人望は厚い。
◇
政治家秘書は主人本位の一体感で臨まなければできません。経験を通じて政治ほど大変なことはなく、政治ほど大切なことはないと痛感しました。秘書に就いたきっかけは沼津中(現県立沼津東高)の恩師で、私たち夫婦の媒酌人だった前田千寸先生が「沼中卒の秘書になれる人を探している」と声を掛けてくれたこと。1953年1月から遠藤先生の沼津市の事務所で、書生ら5人ほどの取りまとめ役として働くことになりました。秘書としての始まりでした。
携わった選挙は3回目から。先輩秘書に教わりながら富士川以東の支援者回りなどを続け、血の小便が出たこともあったほど。遠藤先生が建設相として入閣して大臣秘書官を務めるなど選挙や秘書の仕事から多くの人脈ができました。二階俊博先生もその一人。中央大卒業後に秘書に加わり、選挙区にも頻繁に訪れてくれました。
秘書同士が立場を超えてまとまる場として「初心会」を発足しました。保守合同前の民主党幹事長だった岸信介氏が筆頭副幹事長の遠藤先生に贈った「初心忘るべからず」の一幅に由来しています。遠藤先生の命日12月27日を中心に集まって、しのんできました。
りーダーの資質学ぶ
遠藤先生は寡黙で地元のために献身した人でした。高速道路をめぐり東名か中央かどちらを先に着工するかという問題では意見を言いませんでした。土地を取られる農家に配慮した行動です。やると決断した時、決断後の行動は迅速でした。リーダーとして機を見るタイミング、決断すれば一気に動く行動力などを肌で学びました。
好きな書葉に「即離即覚(そくりそっかく)」があります。選挙に負けてもとちわれずに次を考える。くよくよしても仕方がないという意味です。遠藤先生の長兄が裾野市長選で敗れた時の言葉で、選挙の戦訓が万事に当てはまると自戒しています。遠藤先生は首都高速建設も力を注ぎ、首都高速道路公団が設立されると、私は秘書から公団調査役になり、遠藤先生の支援者でつくる遠藤会の原精一氏が沼津市長に当選した年からは、先生に言われて市企画部長として勤務しました。御用邸の払い下げ、東海大誘致などの課題を抱えていました。どれもこれまでに得た人脈が生き、実現や解決につながったと思います。
絶え間ない縁
書店の小僧から始まった人生を振り返ると、何回職業を変えたことか。行きたいという自分の意思で行ったところは一つもありません。次から次へと絶え間ない縁を与えてもらい、縁に従って生きた、いわば「随縁」です。縁は不思議です。どこでもここで一生働く気持ちで懸命に取り組んだ結果が次の縁につながってきたのではと思ったりもしますが、分かりません。
戦後70年です。真実を伝えることが生き残った人間の役目ですが難しい。近衛歩兵第2連隊に入隊し、翌年二・二六事件に巻き込まれました。戒厳令下鎮圧部隊の日々は忘れられない。その後は中国で第27師団支那駐屯歩兵第2連隊に転属し、師団司令部参謀部の作戦教育所属として打通作戦(大陸縦断作戦)にも参加しました。敗戦は広東から転進する途中で聞き、復員したのは31歳でした。
平和追求の努力を
仲間とともに戦後の郷土のために未来の道筋を考える場として「沼津自由大学講座」を企画しました。芹沢光治良や林芙美子、美濃部亮吉など各界を代表する人を講師に迎え、文化運動として結実しました。
「戦争はないほうが良い」。
誰もがそう思うでしょう。戦争をなくすためには、平素から皆で話し合い、英知を尽くして順序を踏んで平和を追求する努力をしなければならない。立派な政治家を輩出し、世界各国と話し、国内的には大同団結しないといけないでしょう。非常の時には非常の人が出てこないと非常を突破できません。
富士山に登るにもいくつもの道があります。一つの道でつっかえたら別の道を進む。道は一つではありません。お互いに助け合って良い方向を目指してほしい。同じ時代を生きているのだから。
『 遠藤三郎(1904-1971年)裾野市(旧富岡村)出身。旧制沼津中、第一高等学校、東京帝国大法律学科卒。農林省に進み食糧庁企画課長、和歌山県経済部長、農林省畜産局長などを歴任。1949年の総選挙で旧静岡2区より立候補して初当選し、衆院議員を連続9期務めた。大蔵政務次官や建設相のほか、自民党では副幹事長や政調副会長などの重職に就き、国土開発や農林水産業振興などに力を注いだ。狩野川台風の復旧には建設相として陣頭に立って対応した。』
(東部総局・杉山武博・宮崎隆男)
【静新平成27年5月1日「生きる」】
2015年12月03日
青島正和さん(あおしままさかず)(沼津市)
沼津御用邸記念公園西付属邸で個展を開催している
青島正和さん(あおしままさかず)(沼津市)

個展会場は110年前に天皇の御用邸として設置された木造平屋建ての建物。墨や和紙、アクリル絵の具、金銀の箔(はく)で端正な図形を描く近作など30点を展示した。66歳。
ー由緒正しい和風建築での展覧会。
「『モダンな和』をイメージして描いた平面作品を畳敷きの和室に置いた。格調高い空間が絵を引き立たせ、自宅で見るのとは全く異なり、驚いた。思いがけない出合いだと感じた」
ー「和」を主題に創作を始めたきっかけは。
「約10年前、琳派(りんぱ)の画家酒井抱一の『夏秋草図屏風』を見て感動したこと。尾形光琳や俵屋宗達ら琳派の色彩や構図に漂う、モダンな感覚にあらためて気付かされた。自分も和紙や墨などを取り入れて、和の現代性を追求しようと考えた」
ー描き続ける原動力は。
「1973年から所属する地元の美術集団『グループ風土』の存在。メンバー間で作品を批評し合う例会や、年2回の展覧会が創作の後押しになっている」
ー絵を描くとはどんな行為か。
「とても苦しいこと。絶望を何度も味わいながら、ようやく完成にたどり着く。その瞬間ほっとし、満足感を得る。この繰り返しを50年以上続けている」
◇
静岡大での恩師は洋画家の故長岡宏さん。2008年度まで田方地区の小中学校で美術を教えた。
【静新平成27年12月3日(木)この人】
青島正和さん(あおしままさかず)(沼津市)

個展会場は110年前に天皇の御用邸として設置された木造平屋建ての建物。墨や和紙、アクリル絵の具、金銀の箔(はく)で端正な図形を描く近作など30点を展示した。66歳。
ー由緒正しい和風建築での展覧会。
「『モダンな和』をイメージして描いた平面作品を畳敷きの和室に置いた。格調高い空間が絵を引き立たせ、自宅で見るのとは全く異なり、驚いた。思いがけない出合いだと感じた」
ー「和」を主題に創作を始めたきっかけは。
「約10年前、琳派(りんぱ)の画家酒井抱一の『夏秋草図屏風』を見て感動したこと。尾形光琳や俵屋宗達ら琳派の色彩や構図に漂う、モダンな感覚にあらためて気付かされた。自分も和紙や墨などを取り入れて、和の現代性を追求しようと考えた」
ー描き続ける原動力は。
「1973年から所属する地元の美術集団『グループ風土』の存在。メンバー間で作品を批評し合う例会や、年2回の展覧会が創作の後押しになっている」
ー絵を描くとはどんな行為か。
「とても苦しいこと。絶望を何度も味わいながら、ようやく完成にたどり着く。その瞬間ほっとし、満足感を得る。この繰り返しを50年以上続けている」
◇
静岡大での恩師は洋画家の故長岡宏さん。2008年度まで田方地区の小中学校で美術を教えた。
【静新平成27年12月3日(木)この人】
2015年12月03日
園田勝さん(そのだまさる)沼津青年会議所の理事長
高校生や企業と連携し商品開発に取り組んだ 沼津青年会議所の理事長
園田勝さん(そのだまさる)(清水町)

2010年に入会し、日本青年会議所(JC)東海地区静岡ブロック協議会役員、沼津JC副理事長を歴任した。おでんで有名な居酒屋「飛騨」(沼津市大手町)を経営する。40歳。
ー10月下旬に「『自慢のコレ』高校生×企業コラボ甲子園」を主催した。
「沼津の新しい土産を作り出そうと、高校生と企業がスクラムを組んで開発した新商品の発表の場。5月から開発を進めてきた6チームが新製品を披露し、大好評だった。実際に売れている商品も出ている。高校生は勉強になり、企業にもいい刺激になったはず」
ー企画した目的は。
「高校生に郷土愛を育んでもらうのが狙い。人口流出が全国でも顕著な沼津。大学進学で沼津を離れた高校生が就職の際に戻るためにも今回の企画を通して地元を好きになってほしかった。高校生が一番楽しめていたようでうれしかった」
ー活動の成果は。
「高校生や地元の企業のために取り組んだことが結果的に沼津のためになったという実感がある。沼津JCの会員も裏方として一生懸命に支えてくれた。関わったみんなが成長できた」
ー沼津JCへの思いは。
「会員が同じ土俵で意見を言い合い、自らの成長につながる。今後も仲間を増やしながら、失敗を恐れず前に進む組織でありたい」
◇
店では「自分が作った料理でお客さんを笑顔にする」を心掛ける。
【静新平成27年12月2日(水)この人】
園田勝さん(そのだまさる)(清水町)

2010年に入会し、日本青年会議所(JC)東海地区静岡ブロック協議会役員、沼津JC副理事長を歴任した。おでんで有名な居酒屋「飛騨」(沼津市大手町)を経営する。40歳。
ー10月下旬に「『自慢のコレ』高校生×企業コラボ甲子園」を主催した。
「沼津の新しい土産を作り出そうと、高校生と企業がスクラムを組んで開発した新商品の発表の場。5月から開発を進めてきた6チームが新製品を披露し、大好評だった。実際に売れている商品も出ている。高校生は勉強になり、企業にもいい刺激になったはず」
ー企画した目的は。
「高校生に郷土愛を育んでもらうのが狙い。人口流出が全国でも顕著な沼津。大学進学で沼津を離れた高校生が就職の際に戻るためにも今回の企画を通して地元を好きになってほしかった。高校生が一番楽しめていたようでうれしかった」
ー活動の成果は。
「高校生や地元の企業のために取り組んだことが結果的に沼津のためになったという実感がある。沼津JCの会員も裏方として一生懸命に支えてくれた。関わったみんなが成長できた」
ー沼津JCへの思いは。
「会員が同じ土俵で意見を言い合い、自らの成長につながる。今後も仲間を増やしながら、失敗を恐れず前に進む組織でありたい」
◇
店では「自分が作った料理でお客さんを笑顔にする」を心掛ける。
【静新平成27年12月2日(水)この人】
2015年07月10日
満丸導子さん(みつまるみちこ)(沼津市)
86歳で初の個展を開いた
満丸導子さん(みつまるみちこ)(沼津市)

県立沼津高等女学校(現沼津西高)を卒業後、多田北烏氏らに絵画を学び、1952年から30年余、公立中学校の美術教師を務めた。絵画教室「かりんの会」講師、新協美術会員、沼津文化協会役員。個展は5月下旬から6月中旬まで沼津市内で開いた。86歳。
ー個展を終えた心境は。
「たくさんの方の手助けがあり、ありがたかった。作品との距離を変えながらじっくり鑑賞する方が多いのがうれしかった。絵を通じて皆さんが私と対話してくれているようだった」
ー35点の出品作を選定する際に感じたことは。
「描いた時期はまちまちだが、当時の周囲の状況や、一つ一つの絵に対して当時どんな思いを注いだか、鮮明によみがえった」
ー100号の大作にも挑戦を続ける理由は。
「毎年秋に東京で開催される『新協美術展』に出品するため。自己研さんだと思っている。この習慣をやめてしまうと、他の会員に後れを取ったように感じられ、悔しさが募るだろう」
ー高校時代から70年以上描き続ける原動力は。
「絵で自分の存在価値を示すんだ、という意識だろう。キャンバスに向かうと無の境地に達する。創作が進むにつれて絵の中にどんどん入り込んでいくような感覚が楽しい」
◇
健康法は「小さいことを気にせず、のんきに暮らすこと」。
【静新平成27年7月10日(金)この人】
満丸導子さん(みつまるみちこ)(沼津市)

県立沼津高等女学校(現沼津西高)を卒業後、多田北烏氏らに絵画を学び、1952年から30年余、公立中学校の美術教師を務めた。絵画教室「かりんの会」講師、新協美術会員、沼津文化協会役員。個展は5月下旬から6月中旬まで沼津市内で開いた。86歳。
ー個展を終えた心境は。
「たくさんの方の手助けがあり、ありがたかった。作品との距離を変えながらじっくり鑑賞する方が多いのがうれしかった。絵を通じて皆さんが私と対話してくれているようだった」
ー35点の出品作を選定する際に感じたことは。
「描いた時期はまちまちだが、当時の周囲の状況や、一つ一つの絵に対して当時どんな思いを注いだか、鮮明によみがえった」
ー100号の大作にも挑戦を続ける理由は。
「毎年秋に東京で開催される『新協美術展』に出品するため。自己研さんだと思っている。この習慣をやめてしまうと、他の会員に後れを取ったように感じられ、悔しさが募るだろう」
ー高校時代から70年以上描き続ける原動力は。
「絵で自分の存在価値を示すんだ、という意識だろう。キャンバスに向かうと無の境地に達する。創作が進むにつれて絵の中にどんどん入り込んでいくような感覚が楽しい」
◇
健康法は「小さいことを気にせず、のんきに暮らすこと」。
【静新平成27年7月10日(金)この人】
2015年06月25日
黒沢功一さん(くろさわ いさお)(沼津市)
沼津地区安全運転管理協会の新会長
黒沢功一さん(くろさわ いさお)(沼津市)

1997年に沼津市の自動車整備会社、山田自動車に就職し、2001年に同社の安全運転管理者に。8年間、沼津地区安全運転管理協会の副会長を務め、本年度総会で会長に選ばれた。会社では経理を担当する。伊東市出身。53歳。
ー会長就任の感想は。
「 身が引き締まる思い。副会長として前会長を補佐してきたが、これまで以上に加盟事業所の従業員の事故を減らしていけるように貢献していきたい」
ー協会の主な活動は。
「安全運転管理者への講習をはじめ、加盟事業所の従業員を対象にした講習会の開催や、事故防止の相談、交通安全運動への参加、事業所が安全運転を競うコンクールも実施している」
ー管内の交通事情は。
「沼津地区の協会には5月時点で872事業所が加盟し、事業所の従業員による交通事故は減少傾向にある。ただ、沼津地区を東西に走る国道1号は交通量が多く、ドライバーも疲れやすい。そのため追突事故が目立つ。緊張感を持った運転が求められる」
ー活動の方針は。
「引き続き各事業所ヘドライブレコーダーを設置するよう呼び掛けていく。事業所や地元自治会、他地区の安全運転管理協会からも話を聞いて、参考になる活動があれば、取り入れていきたい」
◇
趣味は読書とスポーツ。週1回はバドミントンで汗を流す。
【静新平成27年6月25日「この人」】
黒沢功一さん(くろさわ いさお)(沼津市)

1997年に沼津市の自動車整備会社、山田自動車に就職し、2001年に同社の安全運転管理者に。8年間、沼津地区安全運転管理協会の副会長を務め、本年度総会で会長に選ばれた。会社では経理を担当する。伊東市出身。53歳。
ー会長就任の感想は。
「 身が引き締まる思い。副会長として前会長を補佐してきたが、これまで以上に加盟事業所の従業員の事故を減らしていけるように貢献していきたい」
ー協会の主な活動は。
「安全運転管理者への講習をはじめ、加盟事業所の従業員を対象にした講習会の開催や、事故防止の相談、交通安全運動への参加、事業所が安全運転を競うコンクールも実施している」
ー管内の交通事情は。
「沼津地区の協会には5月時点で872事業所が加盟し、事業所の従業員による交通事故は減少傾向にある。ただ、沼津地区を東西に走る国道1号は交通量が多く、ドライバーも疲れやすい。そのため追突事故が目立つ。緊張感を持った運転が求められる」
ー活動の方針は。
「引き続き各事業所ヘドライブレコーダーを設置するよう呼び掛けていく。事業所や地元自治会、他地区の安全運転管理協会からも話を聞いて、参考になる活動があれば、取り入れていきたい」
◇
趣味は読書とスポーツ。週1回はバドミントンで汗を流す。
【静新平成27年6月25日「この人」】
2015年06月23日
浅原和美さん(あさはらかずみ)(沼津市)
沼津市議会議長に就任した
浅原和美さん(あさはらかずみ)(沼津市)

1999年に初当選し、現在5期目。副議長や議会運営委員長などを歴任し、5月に第82代の議長に就いた。64歳。
ー就任の抱負を。
「人口減少や少子高齢化など市が重要な課題に直面している中、市民の期待と信頼に応える議会として堅実で活発な議会運営を進めたい。現在は試行的に導入している一般質問の一問一答方式など市民に分かりやすく、開かれた議会とする改革もさらに前進させる」
ー市政の課題は。
「最も重視するのは地方創生。若者の定住を促し、子育てしやすいまちづくりのため、市政に若者と女性の声を十分に反映させていくことが必要。そのためにも市が考えている婚活や企業誘致などを着実に行っていくしかない。プラサヴェルデなど沼津駅周辺の開発が進み、大型商業施設ららぽーとの進出も予定されている。沼津に明るい兆しは見えてきている」
ー沼津への思いを。
「海や山、川といった恵まれた自然環境があり、交通の要衝としての文化や歴史も残っている。沼津のもつ潜在能力は高いはず。魅力をさらに掘り起こし、交流人口の拡大を図りたい」
ー議員としての信条は。
「有言実行が信条。明治時代からの網元の家に育った。『海から陸を眺める』という人生観を大切にし、ささいなことにはとらわれないように心掛けている」
◇
趣味は登山とゴルフ。
【静新平成27年6月23日(火)この人】
浅原和美さん(あさはらかずみ)(沼津市)

1999年に初当選し、現在5期目。副議長や議会運営委員長などを歴任し、5月に第82代の議長に就いた。64歳。
ー就任の抱負を。
「人口減少や少子高齢化など市が重要な課題に直面している中、市民の期待と信頼に応える議会として堅実で活発な議会運営を進めたい。現在は試行的に導入している一般質問の一問一答方式など市民に分かりやすく、開かれた議会とする改革もさらに前進させる」
ー市政の課題は。
「最も重視するのは地方創生。若者の定住を促し、子育てしやすいまちづくりのため、市政に若者と女性の声を十分に反映させていくことが必要。そのためにも市が考えている婚活や企業誘致などを着実に行っていくしかない。プラサヴェルデなど沼津駅周辺の開発が進み、大型商業施設ららぽーとの進出も予定されている。沼津に明るい兆しは見えてきている」
ー沼津への思いを。
「海や山、川といった恵まれた自然環境があり、交通の要衝としての文化や歴史も残っている。沼津のもつ潜在能力は高いはず。魅力をさらに掘り起こし、交流人口の拡大を図りたい」
ー議員としての信条は。
「有言実行が信条。明治時代からの網元の家に育った。『海から陸を眺める』という人生観を大切にし、ささいなことにはとらわれないように心掛けている」
◇
趣味は登山とゴルフ。
【静新平成27年6月23日(火)この人】
2015年05月16日
沼津高専新校長に藤本晶氏
沼津高専新校長に藤本晶氏
和歌山高専在職時には実用的な研究

沼津高専は、柳下福蔵校長が三月で定年退職し、後任に和歌山高専専攻科長の藤本晶氏(63)が赴任した。
藤本校長は昭和四十七年、奈良高専電気工学科卒。同年、立石電機(現オムロン)の中央研究所研究員となり、平成二年に大阪大学で工学博士。三年から和歌山高専に勤務し、副校長、専攻科長を歴任。
半導体発光装置が専門だが、半導体の一種を用いた匂いセンサーでミカンの香りを識別するシステムを開発するなど、本来の領域以外の実用的な研究も行っている。
和歌山県には、特定の地域だけで生産されるジャバラという柑橘類がある。ユズやダイダイ、カボスの仲間だが、ユズよりも果汁が豊富で、ユズやスダチとは違った風味があるという。藤本校長は、これにアレルギー性鼻炎や花粉症などに効果のある成分が含まれているという話を聞き、興味を持って研究を始めた。
この薬用成分は皮に多く含まれているが、皮には独特の苦みがるため、ほとんど利用されていなかった。そこで、藤本校長は、独自の製法で皮の苦味を軽減し、素材の新しい旨みを引き出し、菓子に応用することに成功した。
また二年前には、ビンチョウマグロの肉質を弾力性あるものにする研究に成功し、テレビでも紹介された。
和歌山県の特産の一つであるビンチョウマグロ(ビンナガ)が、おいしく食べることができるようになったが、ビンナガはクロマグロに比べて安く、これがおいしく食べられるようになったことに意味がある。
藤本校長は、沼津高専では校長職に専念したい考えだが、柳下前校長は校長職とともに研究を続けていたこともあり、周囲は藤本校長にも研究室を持って研究を続けることを願っている。
(沼朝平成27年5月15日号)
和歌山高専在職時には実用的な研究

沼津高専は、柳下福蔵校長が三月で定年退職し、後任に和歌山高専専攻科長の藤本晶氏(63)が赴任した。
藤本校長は昭和四十七年、奈良高専電気工学科卒。同年、立石電機(現オムロン)の中央研究所研究員となり、平成二年に大阪大学で工学博士。三年から和歌山高専に勤務し、副校長、専攻科長を歴任。
半導体発光装置が専門だが、半導体の一種を用いた匂いセンサーでミカンの香りを識別するシステムを開発するなど、本来の領域以外の実用的な研究も行っている。
和歌山県には、特定の地域だけで生産されるジャバラという柑橘類がある。ユズやダイダイ、カボスの仲間だが、ユズよりも果汁が豊富で、ユズやスダチとは違った風味があるという。藤本校長は、これにアレルギー性鼻炎や花粉症などに効果のある成分が含まれているという話を聞き、興味を持って研究を始めた。
この薬用成分は皮に多く含まれているが、皮には独特の苦みがるため、ほとんど利用されていなかった。そこで、藤本校長は、独自の製法で皮の苦味を軽減し、素材の新しい旨みを引き出し、菓子に応用することに成功した。
また二年前には、ビンチョウマグロの肉質を弾力性あるものにする研究に成功し、テレビでも紹介された。
和歌山県の特産の一つであるビンチョウマグロ(ビンナガ)が、おいしく食べることができるようになったが、ビンナガはクロマグロに比べて安く、これがおいしく食べられるようになったことに意味がある。
藤本校長は、沼津高専では校長職に専念したい考えだが、柳下前校長は校長職とともに研究を続けていたこともあり、周囲は藤本校長にも研究室を持って研究を続けることを願っている。
(沼朝平成27年5月15日号)
2015年05月14日
藤岡啓太郎さん(ふじおかけいたろう)(沼津市)
沼津市副市長に就任した
藤岡啓太郎さん(ふじおかけいたろう)(沼津市)

国土交通省で都市づくり分野を中心に歩んできた。中国地方整備局建政部都市調整官や福井市特命幹兼都市戦略部長、国土技術政策総合研究所都市施設研究室長などを歴任し、4月から現職。淡路島出身。47歳。
ー就任の抱負は。
「まちづくりの中心的な役割を果たすのが市。一番の現場に来た気持ち。これまで経験してきたことを生かし、地元の声を聞きながらまちづくりを目に見える形でいい方向に進めたい」
ー沼津の印象は。
「山や海、川があり、非常に変化に富んだ自然を感じられる。既存の都市のストックはいろいろとある。遊休化している施設や空いている民間の不動産をどうやって効果的に使わわるようにするのか。少しずつ動かしていくことで、町の雰囲気を変えていくつもり」
ー職員に望むことは。
「人口減少は全国共通の問題。沼津に住み、沼津を拠点に仕事をしていくことがライフスタイルとして価値を生み出せるか。真剣に考えないと都市間競争で生き残れない。職員は危機感を強めて、当事者意識を持って取り組んでほしい」
ー重視することは。
「企業などが沼津で投資したいと思える環境づくりが大切。そのためには民間サイドのニーズを理解し行政がサポートできることを.考えることが重要になる」
◇
妻と2人暮らし。まちを歩きながら歴史的な施設を巡るのが趣味。
(静新平成27年5月14日「この人」)
藤岡啓太郎さん(ふじおかけいたろう)(沼津市)

国土交通省で都市づくり分野を中心に歩んできた。中国地方整備局建政部都市調整官や福井市特命幹兼都市戦略部長、国土技術政策総合研究所都市施設研究室長などを歴任し、4月から現職。淡路島出身。47歳。
ー就任の抱負は。
「まちづくりの中心的な役割を果たすのが市。一番の現場に来た気持ち。これまで経験してきたことを生かし、地元の声を聞きながらまちづくりを目に見える形でいい方向に進めたい」
ー沼津の印象は。
「山や海、川があり、非常に変化に富んだ自然を感じられる。既存の都市のストックはいろいろとある。遊休化している施設や空いている民間の不動産をどうやって効果的に使わわるようにするのか。少しずつ動かしていくことで、町の雰囲気を変えていくつもり」
ー職員に望むことは。
「人口減少は全国共通の問題。沼津に住み、沼津を拠点に仕事をしていくことがライフスタイルとして価値を生み出せるか。真剣に考えないと都市間競争で生き残れない。職員は危機感を強めて、当事者意識を持って取り組んでほしい」
ー重視することは。
「企業などが沼津で投資したいと思える環境づくりが大切。そのためには民間サイドのニーズを理解し行政がサポートできることを.考えることが重要になる」
◇
妻と2人暮らし。まちを歩きながら歴史的な施設を巡るのが趣味。
(静新平成27年5月14日「この人」)
2015年05月12日
杉村進さん(すぎむらすすむ)〈沼津市)
海辺の花の復活を目指す
杉村進さん(すぎむらすすむ)〈沼津市)

沼津市小諏訪の千本浜海岸で4月から6月にかけて咲くハマエンドウとハマヒルガオ。ごみの不法投棄などで一時期、数が減っていたが、「ハマヒルガオを育てる会」の会長として復活に努めている。64歳。
ー会発足のきっかけは。
「4年前に福祉施設などで手笛を披露する慰問を始めた。その際に歌詞の中にハマヒルガオが出てきた昔の流行歌が話題になった。地元の浜でも咲いていたのを思い出し、復活させようと育てる会をつくった」
ー活動内容は。
「ほぼ毎日一人で海岸のごみを拾い集めている。空き缶やペットボトルなどの不法投棄や流木などの漂着物が、花の生育の妨げになっている。現在では群生範囲も広がり、開花時期には辺り一面、紫やピンク色の花で覆われる」
ー海辺の花への思いを。
「これだけの群生は全国でも珍しいと思う。桜が終わった時期に、ハマエンドウが咲き始め、続いてハマヒルガオが花を咲かす。富士山と共に色鮮やかな花が楽しめるので、地元の新たな観光資源として活用できるように、まずは多くの人に知ってもらうようにしたい」
ー今後の目標は。
「近隣住民や地引き網の網元も保護に協刀してくれる。いずれは『ぬまづの宝100選』に選ばれたい」
◇
海岸清掃には愛犬の「くま」がいつも一緒に付いてくる。
(平成27年5月12日朝刊「この人」)
杉村進さん(すぎむらすすむ)〈沼津市)

沼津市小諏訪の千本浜海岸で4月から6月にかけて咲くハマエンドウとハマヒルガオ。ごみの不法投棄などで一時期、数が減っていたが、「ハマヒルガオを育てる会」の会長として復活に努めている。64歳。
ー会発足のきっかけは。
「4年前に福祉施設などで手笛を披露する慰問を始めた。その際に歌詞の中にハマヒルガオが出てきた昔の流行歌が話題になった。地元の浜でも咲いていたのを思い出し、復活させようと育てる会をつくった」
ー活動内容は。
「ほぼ毎日一人で海岸のごみを拾い集めている。空き缶やペットボトルなどの不法投棄や流木などの漂着物が、花の生育の妨げになっている。現在では群生範囲も広がり、開花時期には辺り一面、紫やピンク色の花で覆われる」
ー海辺の花への思いを。
「これだけの群生は全国でも珍しいと思う。桜が終わった時期に、ハマエンドウが咲き始め、続いてハマヒルガオが花を咲かす。富士山と共に色鮮やかな花が楽しめるので、地元の新たな観光資源として活用できるように、まずは多くの人に知ってもらうようにしたい」
ー今後の目標は。
「近隣住民や地引き網の網元も保護に協刀してくれる。いずれは『ぬまづの宝100選』に選ばれたい」
◇
海岸清掃には愛犬の「くま」がいつも一緒に付いてくる。
(平成27年5月12日朝刊「この人」)
2015年02月19日
勝又あすかさん(沼津市)
沼津仲見世商店街に
無料休憩所兼居場所を開設した
勝又あすかさん(沼津市)

中心市街地に年齢や障害にかかわらず誰でも利用できる場所「カフェつばき」を設けた。県の「ふじのくに型福祉サービス」の居場所の一つ。介護支援事業を展開するきずなグループの代表。沼津市出身。42歳。
ー開設した狙いは。
「シニア世代は社会への参加意欲は旺盛だが、足を運べる場所が少ない。高齢化の進展を見据えると、シニアがシニアを介護する時代が来る。お互いに助け合う共助の基盤を築きたい」
ー今後の展開は。
「特技を持つ人を講師に迎えてセミナーを開く。それが社会に参加する糸口になる。カフェ部分はNPO化して専門スタッフが対応できるようにし、福祉や介護の駆け込み寺にしたい」
ーなぜ福祉の道を志したのか。
「高校時代の米国留学で施設のボランティアをしたのがきっかけ。施設で働きながら大学で福祉を学び、大学院では感性教育を専攻した。福祉を変えたいと教壇にも立った。36歳で起業してから、地域密着の小規模多機能にこだわったサービス提供を心掛けている」
ー目指している活動は。
「にぎわい創出や大規模イベントも必要だが、福祉のまちづくりが大切と思っている。人と人が助け合って手をつなぎ、共に生きていく社会をつくりたい。年を取った時に寂しくないような地域にしたい」
◇
沼津の海でのスキューバダイビングが趣味。
(静新平成27年2月19日「この人」)
無料休憩所兼居場所を開設した
勝又あすかさん(沼津市)

中心市街地に年齢や障害にかかわらず誰でも利用できる場所「カフェつばき」を設けた。県の「ふじのくに型福祉サービス」の居場所の一つ。介護支援事業を展開するきずなグループの代表。沼津市出身。42歳。
ー開設した狙いは。
「シニア世代は社会への参加意欲は旺盛だが、足を運べる場所が少ない。高齢化の進展を見据えると、シニアがシニアを介護する時代が来る。お互いに助け合う共助の基盤を築きたい」
ー今後の展開は。
「特技を持つ人を講師に迎えてセミナーを開く。それが社会に参加する糸口になる。カフェ部分はNPO化して専門スタッフが対応できるようにし、福祉や介護の駆け込み寺にしたい」
ーなぜ福祉の道を志したのか。
「高校時代の米国留学で施設のボランティアをしたのがきっかけ。施設で働きながら大学で福祉を学び、大学院では感性教育を専攻した。福祉を変えたいと教壇にも立った。36歳で起業してから、地域密着の小規模多機能にこだわったサービス提供を心掛けている」
ー目指している活動は。
「にぎわい創出や大規模イベントも必要だが、福祉のまちづくりが大切と思っている。人と人が助け合って手をつなぎ、共に生きていく社会をつくりたい。年を取った時に寂しくないような地域にしたい」
◇
沼津の海でのスキューバダイビングが趣味。
(静新平成27年2月19日「この人」)