2008年03月26日
仙石規氏
沼津の医師仙石さん
御成橋開通、明治だった
橋への思いつづり出版

大正時代といわれていた狩野川の御成橋の開通が明治時代だったことを解明した静新新書「時を駆けた橋ー井上靖も愛した沼津御成橋の謎ー」(静岡新聞社)が県内の書店で発売された。著者は沼津市の郷土史研究家で、耳鼻咽喉科医師の仙石規さん(五一)。新事実を突き止めたのをきっかけに執筆を思い立ち、御成橋の歴史や橋への思いなどもつづっている。
市史などに記されている御成橋の完成は大正二年(一九一三年)。同三月の沼津大火で港橋(木製)が焼失した後、鉄橋に建て替えられたーとの説に対し「そんなに早く橋ができるものか」と疑問を抱いていた仙石さん。昨年秋、古本屋で御成橋関連の資料を手に入れ、明治四十五年(一九一二年)築の記述がある古い公文書を発見した。
裏付けの資料を求めて静岡市の県立図書館に足を運び、静岡民友新聞(静岡新聞の前身)の記事から「橋の完成は明治四十五年七月。港橋から御成橋に改称したのは翌月の大正元年八月」と結論づけた。本の表紙には「『大正の橋』は『明治の橋』だった!」のキャッチフレーズを入れた。
沼津御用邸に向かう皇族方が「お成りになる」と命名された御成橋。県東部初の鉄橋として誕生した。仙石さんは「もし御用邸がなければ名前も港橋のままで、鉄橋になるのももっと後だった」「明治天皇の崩御で御成橋の開通式が中止となった」など皇室との不思議な縁を強調している。
御成橋からの眺めの場面も登場する井上靖の自伝的小説「夏草冬濤」も紹介し、明治九年にできた初代港橋、同二十三年に改築された港橋、昭和九年の御成橋の改築工事など貴重な数々の写真も掲載している。
仙石さんは生まれも育ちも今の住み家も御成橋のすぐ近く。橋に関する知識も愛着も人一倍で、診療前の時間などを使って一気に書き上げた。かつての橋周辺のにぎわいも描写した仙石さんは「沼津が再び元気になってほしいとの思いを込めた」と話している。
(静新平成20年3月25日夕刊)
御成橋開通、明治だった
橋への思いつづり出版


市史などに記されている御成橋の完成は大正二年(一九一三年)。同三月の沼津大火で港橋(木製)が焼失した後、鉄橋に建て替えられたーとの説に対し「そんなに早く橋ができるものか」と疑問を抱いていた仙石さん。昨年秋、古本屋で御成橋関連の資料を手に入れ、明治四十五年(一九一二年)築の記述がある古い公文書を発見した。
裏付けの資料を求めて静岡市の県立図書館に足を運び、静岡民友新聞(静岡新聞の前身)の記事から「橋の完成は明治四十五年七月。港橋から御成橋に改称したのは翌月の大正元年八月」と結論づけた。本の表紙には「『大正の橋』は『明治の橋』だった!」のキャッチフレーズを入れた。
沼津御用邸に向かう皇族方が「お成りになる」と命名された御成橋。県東部初の鉄橋として誕生した。仙石さんは「もし御用邸がなければ名前も港橋のままで、鉄橋になるのももっと後だった」「明治天皇の崩御で御成橋の開通式が中止となった」など皇室との不思議な縁を強調している。
御成橋からの眺めの場面も登場する井上靖の自伝的小説「夏草冬濤」も紹介し、明治九年にできた初代港橋、同二十三年に改築された港橋、昭和九年の御成橋の改築工事など貴重な数々の写真も掲載している。
仙石さんは生まれも育ちも今の住み家も御成橋のすぐ近く。橋に関する知識も愛着も人一倍で、診療前の時間などを使って一気に書き上げた。かつての橋周辺のにぎわいも描写した仙石さんは「沼津が再び元気になってほしいとの思いを込めた」と話している。
(静新平成20年3月25日夕刊)
前田嘉男N観光ボランティア会長
植松泰右 トーヨーアサノ社長
ゴトー社長 後藤久徳(ごとうひさのり)氏(56)
法華宗第138代管長に 光長寺原井日鳳貫首が就任
沼津市教育長に就任した 奥村篤(おくむらあつし)さん
光藤あさ美さん
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Posted by パイプ親父 at 21:51│Comments(0)
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