2010年02月13日

「立松和平さんを悼む」 福島泰樹

「立松和平さんを悼む」 福島泰樹
君が遺した活字 心に歩き続ける
 
「立松和平さんを悼む」 福島泰樹 作家早乙女貢一周忌の集いに出席のため有楽町に着いたときだった。美千糟さんからの報(しら)せを受け、品川の病院に向かった。正月、春の盃(さかずき)を酌み交わしたばかりではないか。私は、亡くなったばかりのまだ温かな両足をもんでやった。この足で君は、結婚したばかりの彼女を置き去りにしてインドを放浪したのだ。
 作家への決意を固め、居を郷里宇都宮に移した君は、この足で自転車をこぎ田舎道を勤務先の市役所に通い続けたのだ。村と家族の崩壊を書いた「遠雷」で作家の足場を固めた君は、報道番組「ニュースステーションこころと感動の旅」で国民的人気を獲得することとなる。取材のため君は、この足で世界中を駆け巡ったのだ。君は、歩きながら書き続けた。語り口からにじみでる木訥(ほくとつ)な人柄は、メディアを通して人々の心をとらえた。環境保護問題などにも積極的に取り組むようになる。
 君の歩みが止まった。
連合赤軍粛正(リンチ)事件を見据えた、雑誌連載中の小説「光の雨」(1993年)が盗用問題を引き起こしたのだ。当事者である連赤幹部が書いた総括は、すでにして歴史的資料のはずではないかというのが、私の個人的感想だ。謝るな!と私は叫んだ。
 立松和平の文学的出発は、全共闘体験であった。冷えてゆく孤立の時代の中で、もし闘い続けていたとしたら「私」も人を殺していたか。殺されていたかもしれない。その重たい問いかけが「光匂い満ちてよ」(79年)を生み、死者と生者が交流する文体となり「性的黙示録」(85年)を完結させたのである。
 全共闘世代が葬り去った時代の闇を書き留めておくことが、責務となって作家を衝(つ)き動かしたのである。僚友中上健次亡き後、誠実の二字をもって君は「純文学」を支え続けた。この間、「卵洗い」で坪田譲治文学賞を、「毒-風聞・田中正造」で毎日出版文化賞を受賞する。
 やがて、君の歩みは、「求道」へと向かってゆく。人はどのように生き、どのように死ななければならないのか。再びインドへ向かった君は仏陀(ブッダ)の経典に出会う。高田良信師の導きで法隆寺へ参籠(さんろう)。「法華経」を手にした君は、9年もの歳月をかけて400字詰め原稿用紙2100枚もの大作「道元禅師」(2007年)上下2巻を開版。泉鏡花文学賞を受賞。
 亡くなる10日ほど前だった、入院中の君を案じて恵比寿の自宅を訪ねた。書架をあふれた乱雑な書籍の山は、さながら学者の書斎だ。ここで、君は、数百冊もの単行本を書き上げたのか。冊数で数えるなら、なみの作家の十倍は生き、活躍してきたことになる。取材のため歩き続けた距離、研鑽してきた書籍の数を思った。
 勉誠出版から配本が始まった「立松和平全小説」全30巻推薦文に、北方謙三が書いている。「立松の足跡は、愚直である。ひたすら、地平線にむかっているのだ」。「行き着く果てのない旅が、文学の本質」であるなら、「足跡そのものが文学である」。これからは、君が遺(のこ)した膨大な活字が、人の心の中で歩き続けてゆくのだ。
(歌人)

立松和平さんは8日死去、62歳。
(静新平成22年2月13日「文化・文芸」)


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Posted by パイプ親父 at 20:11│Comments(0)作家
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