2021年12月01日
峰田武氏(みねた・たけし=三島信用金庫名誉顧問)
峰田武氏(みねた・たけし=三島信用金庫名誉顧問)
29日、心筋梗塞のため清永町内の病院で死去、87歳。清水町出身。自宅は清水町玉川54の4。通夜は一般参列が12月4目午後4時から6時まで、清水町伏見639の1の天翔苑清水で。葬儀・告別式は親族のみで行う。喪主は妻正子(まさご)さん。
三島信用金庫理事長、三島商工会議所会頭、佐野美術館(三島市)名誉会長などを歴任し、サンフロント21懇話会幹事も務めた。日系人で初めて米国の閣僚となった政治家ノーマン・ミネタ氏はいとこ。
【静新令和3年12月1日(水)朝刊】

2021年08月06日
訃報 サトウサンペイさん

「フジ三太郎」などサラリーマンの日常を描いた4コマ作品で知られる漫画家のサトウサンペイ(本名佐藤幸一=さとう・ゆきかず)さんが7月31日午前11時30分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都内の病院で死去した。91歳だった。名古屋市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻みどりさん。
1929年に名古屋市で生まれ、大阪市で育った。京都工業専門学校(現京都工芸繊維大)卒業後、大丸(現大丸松坂屋百貨店)に入社。宣伝部に勤め、社内報に漫画を寄稿したことなどをきっかけに、新大阪新聞の4コマ漫画「大阪の息子」で51年デビューした。
拠点を東京に移し、65年4月に朝日新聞夕刊で連載を始めた「フジ三太郎」は、高度経済成長からバブル期に至る平凡なサラリーマンの日常をユーモアや風刺を交えて描き、人気を集めた。79年に朝刊に移った後、91年9月まで26年半、8168回に及ぶ長期連載となった。
他の漫画作品に「夕日くん」「アサカゼ君」など。66年に文芸春秋漫画賞、97年に紫綬褒章、2006年に旭日小綬章を受けた。海外旅行好きで知られ、「スマートな日本人」などのエッセーも数多く執筆した。(2021/08/06-10:02)
タグ :訃報
2021年04月03日
赤崎勇さん死去 92歳
赤崎勇さん死去 92歳
ノーベル物理学賞青色LED開発

青色発光ダイオード(LED)の開発に世界で初めて成功し、ノーベル物理学賞を受賞した名城大特別栄誉教授の赤崎勇(あかさき・いさむ)さんが1日午前、肺炎のため名古屋市の病院で死去した。92歳。鹿児島県出身。
LEDは1960年代に赤や緑が開発されたが、光の三原色のうち青は素材の結晶作り
が難航し「20世紀中は困難」と言われていた。名古屋大教授だった赤崎さんは、大学院生だった天野浩名古屋大教授(浜松市出身)とともに86年、世界中の研究者が手を引いた窒化ガリウムを使って結晶化に成功。さらに研究を発展させ、89年に青色LEDを実現した。これにより、白色も含めて全ての色をLEDで出せるようになった。
LEDは省電力で長寿命という理想的な光源として地球温暖化対策としても注目され、世界各地で普及した。赤崎さんは2014年、天野さん、別の方法で青色LEDを作った米カリフォルニア大教授の中村修二さんとともにノーベル物理学賞を受賞した。
【静新令和3年4月3日(土)朝刊】
ノーベル物理学賞青色LED開発

青色発光ダイオード(LED)の開発に世界で初めて成功し、ノーベル物理学賞を受賞した名城大特別栄誉教授の赤崎勇(あかさき・いさむ)さんが1日午前、肺炎のため名古屋市の病院で死去した。92歳。鹿児島県出身。
LEDは1960年代に赤や緑が開発されたが、光の三原色のうち青は素材の結晶作り
が難航し「20世紀中は困難」と言われていた。名古屋大教授だった赤崎さんは、大学院生だった天野浩名古屋大教授(浜松市出身)とともに86年、世界中の研究者が手を引いた窒化ガリウムを使って結晶化に成功。さらに研究を発展させ、89年に青色LEDを実現した。これにより、白色も含めて全ての色をLEDで出せるようになった。
LEDは省電力で長寿命という理想的な光源として地球温暖化対策としても注目され、世界各地で普及した。赤崎さんは2014年、天野さん、別の方法で青色LEDを作った米カリフォルニア大教授の中村修二さんとともにノーベル物理学賞を受賞した。
【静新令和3年4月3日(土)朝刊】
2021年04月03日
田中邦衛さん死亡
田中邦衛さん死去88歳
俳優「北の国から」父親役

テレビドラマ「北の国から」の父親役などで人気を集めた俳優の田中邦衛(たなか・くにえ)さんが3月24日午前11時24分、老衰のため死去した。88歳。岐阜県出身。葬儀は家族で行った。
生家で陶芸に携わり、中学の臨時教員を務めた後、1955年に3度目の受験で俳優座養成所に合格。58年に舞台「幽霊はここにいる」に出演した。
映画は「純愛物語」で初出演後、61年からの「若大将」シリーズで主役の加山雄三さんと張り合う青大将役で評判に。「網走番外地」や「仁義なき戦い」シリーズや、黒沢明監督「椿三十郎」など多くの作品に出演。あくの強い風貌やコミカルな演技で憎めない脇役を好演した。口をとがらせてとつとつと話す語り口も親しまれた。
81年から、倉本聡さんの脚本で約20年間続いたフジテレビ系ドラマシリーズ「北の国から」に黒板五郎役で主演。子ども役の吉岡秀隆さんや中嶋朋子さんと共に、北海道・富良野の大自然の中でたくましく生きる家族を演じた。子どもたちに真っすぐな愛情を注ぐ不器用な父親像は、多くの共感を集めた。
94年に映画「学校」などで日本アカデミー賞最優秀助演男優賞。出演作はほかに映画「動乱」「居酒屋兆治」「優駿ORAC10N」「みんなのいえ」、ドラマ「若者たち」「あにき」「ラィスカレー」「新選組!」など。
99年紫綬褒章。2006年に旭日小綬章。
【静新令和3年4月3日(土)朝刊】
俳優「北の国から」父親役

テレビドラマ「北の国から」の父親役などで人気を集めた俳優の田中邦衛(たなか・くにえ)さんが3月24日午前11時24分、老衰のため死去した。88歳。岐阜県出身。葬儀は家族で行った。
生家で陶芸に携わり、中学の臨時教員を務めた後、1955年に3度目の受験で俳優座養成所に合格。58年に舞台「幽霊はここにいる」に出演した。
映画は「純愛物語」で初出演後、61年からの「若大将」シリーズで主役の加山雄三さんと張り合う青大将役で評判に。「網走番外地」や「仁義なき戦い」シリーズや、黒沢明監督「椿三十郎」など多くの作品に出演。あくの強い風貌やコミカルな演技で憎めない脇役を好演した。口をとがらせてとつとつと話す語り口も親しまれた。
81年から、倉本聡さんの脚本で約20年間続いたフジテレビ系ドラマシリーズ「北の国から」に黒板五郎役で主演。子ども役の吉岡秀隆さんや中嶋朋子さんと共に、北海道・富良野の大自然の中でたくましく生きる家族を演じた。子どもたちに真っすぐな愛情を注ぐ不器用な父親像は、多くの共感を集めた。
94年に映画「学校」などで日本アカデミー賞最優秀助演男優賞。出演作はほかに映画「動乱」「居酒屋兆治」「優駿ORAC10N」「みんなのいえ」、ドラマ「若者たち」「あにき」「ラィスカレー」「新選組!」など。
99年紫綬褒章。2006年に旭日小綬章。
【静新令和3年4月3日(土)朝刊】
2021年03月17日
元沼津信金理事長が滑落死 石鎚山系笹ケ峰に登山中
元沼津信金理事長が滑落死 石鎚山系笹ケ峰に登山中
2021/03/16 17:16毎日新聞
元沼津信金理事長が滑落死 石鎚山系笹ケ峰に登山中
愛媛県警本部=中川祐一撮影
(毎日新聞)
15日午後2時40分ごろ、愛媛、高知両県にまたがる石鎚山系笹ケ峰(標高・1859メートル)を登山中の静岡県沼津市、元沼津信用金庫理事長、堀田大洋(おおみ)さん(78)から滑落したと110番があった。約5時間後に山頂から約600メートル北の愛媛県西条市側の山中で捜索中の地元消防隊員が見つけたが、その後死亡が確認された。
愛媛県警西条署によると、堀田さんは同日午前9時ごろ、知人男性(81)と入山。中腹の山荘で別れて山頂を目指し、単独で下山中に登山道から滑落したらしい。発見時は複数の骨折や脱臼が認められ、頭からの出血もあった。意識もあったがその後容体が急変した。
笹ケ峰は「伊予の三名山」と称され、登山客にも人気が高い。沼津信金によると、堀田さんは2010〜13年に理事長を務め、現在は相談役。【遠藤龍】
登山中に滑落の沼信相談役死亡 愛媛
愛媛県警西条署は16日、同県西条市の笹ケ峰を登山中に滑落し、心肺停止状態となっていた沼津信用金庫相談役の堀田大洋さん(78)=沼津市西椎路=の死亡を確認したと発表した。死亡推定日時は15日午後11時半ごろとしている。
同署によると、15日午後7時20分ごろ、捜索甲の消防署員が堀田さんを発見。当初は意識があったが、頭部からの出血や骨盤骨折などのけがが確認されていた。
堀田さんと一緒に山に入った男性(81)は16日午前に下山した。
堀田さんは沼津信金の常務理事、専務理事などを経て、2010~13年に同信金理事長を務め、現在は相談役。沼津法人会会長も13~19年に歴任した。関係者によると、日本百名山を全て踏破するなど、山登りが長年の趣味だったという。
【静新令和3年3月17日(水)朝刊】

2021/03/16 17:16毎日新聞
元沼津信金理事長が滑落死 石鎚山系笹ケ峰に登山中
愛媛県警本部=中川祐一撮影
(毎日新聞)
15日午後2時40分ごろ、愛媛、高知両県にまたがる石鎚山系笹ケ峰(標高・1859メートル)を登山中の静岡県沼津市、元沼津信用金庫理事長、堀田大洋(おおみ)さん(78)から滑落したと110番があった。約5時間後に山頂から約600メートル北の愛媛県西条市側の山中で捜索中の地元消防隊員が見つけたが、その後死亡が確認された。
愛媛県警西条署によると、堀田さんは同日午前9時ごろ、知人男性(81)と入山。中腹の山荘で別れて山頂を目指し、単独で下山中に登山道から滑落したらしい。発見時は複数の骨折や脱臼が認められ、頭からの出血もあった。意識もあったがその後容体が急変した。
笹ケ峰は「伊予の三名山」と称され、登山客にも人気が高い。沼津信金によると、堀田さんは2010〜13年に理事長を務め、現在は相談役。【遠藤龍】
登山中に滑落の沼信相談役死亡 愛媛
愛媛県警西条署は16日、同県西条市の笹ケ峰を登山中に滑落し、心肺停止状態となっていた沼津信用金庫相談役の堀田大洋さん(78)=沼津市西椎路=の死亡を確認したと発表した。死亡推定日時は15日午後11時半ごろとしている。
同署によると、15日午後7時20分ごろ、捜索甲の消防署員が堀田さんを発見。当初は意識があったが、頭部からの出血や骨盤骨折などのけがが確認されていた。
堀田さんと一緒に山に入った男性(81)は16日午前に下山した。
堀田さんは沼津信金の常務理事、専務理事などを経て、2010~13年に同信金理事長を務め、現在は相談役。沼津法人会会長も13~19年に歴任した。関係者によると、日本百名山を全て踏破するなど、山登りが長年の趣味だったという。
【静新令和3年3月17日(水)朝刊】

2020年12月15日
矢田凡久氏「訃報」
矢田保久(凡久)氏
(やた・やすひさ=遠藤三郎元建設大臣秘書)は12日、老衰のため上土町の自宅で死去した。105歳。

通夜が15日午後6時、葬儀・告別式が16日午前11時半から下香貫上障子の沼津平安典礼会館本館で行われる。喪主は長女の杉本万千さん。
矢田氏は小山町出身。旧制沼中(現・東高)29回卒。書店などの勤務を経て、当時の衆院静岡第二選挙区選出の遠藤代議士(故人)の秘書を務め、現在の自民党幹事長二階俊博氏らの育成にも携わった。
後、首都高速公団調査役として首都高建設、沼津市の原精一市政で企画部長を務め、御用邸払い下げ、東海大学誘致などにかかわった。
字画の関係から「凡久」のペンネームで「やすひさ」を名乗ったが、「ぼんきゅう」として通り親しまれた。
【沼朝令和2年12月15日(火)号】
矢田保久氏死去
105歳、元建設相元秘書
故遠藤三郎元建設相の秘書を務めた矢田保久(やた・やすひさ)氏は12日午後5時51分、老衰のため、沼津市上土町の自宅で死去した。105歳。小山町出身。通夜は15日午後6時から、葬儀は16日午前11時半から沼津市下香貫上障子402の1の沼津平安典礼会館本館で。喪主は長女杉本万千(すぎもと・まち)さん。
矢田氏は1953年から長年にわたって、旧衆院静岡2区選出の遠藤氏の秘書を務め、後輩秘書だった二階俊博氏(現自民党幹事長)らを育てた。沼津市企画部長も務め、沼津御用邸の市への移譲に関わった。
政治の舞台裏活躍
12日に105歳で死去した矢田保久さんは、東名高速道や狩野川放水路の建設に尽力した故遠藤三郎元建設相を秘書として支えた。「不正を嫌い、清貧」「やると決めたら諦めずに必ず成し遂げる」。関係者は矢田さんの人柄や功績をしのんだ。矢田さんは遠藤氏と同じ旧制沼津中(現沼津東高)出身。後輩秘書の土屋孝男さん(73)=沼津市=は「遠藤先生とはあうんの呼吸で縁の下の力持ちだった」と振り返る。矢田さんは自民党の二階俊博幹事長の活躍を期待していたという。
大中寺(沼津市)の下山光悦住職(73)は矢田さんと親交が厚く、沼津御用邸移譲の経緯などを郷土誌に掲載した。「軍人として二・二六事件を、秘書として政治の舞台裏を目撃した。まさに歴史の生き証人。どの話も印象的だった」と悼んだ。
【静新令和2年12月15日(火)朝刊】
(やた・やすひさ=遠藤三郎元建設大臣秘書)は12日、老衰のため上土町の自宅で死去した。105歳。

通夜が15日午後6時、葬儀・告別式が16日午前11時半から下香貫上障子の沼津平安典礼会館本館で行われる。喪主は長女の杉本万千さん。
矢田氏は小山町出身。旧制沼中(現・東高)29回卒。書店などの勤務を経て、当時の衆院静岡第二選挙区選出の遠藤代議士(故人)の秘書を務め、現在の自民党幹事長二階俊博氏らの育成にも携わった。
後、首都高速公団調査役として首都高建設、沼津市の原精一市政で企画部長を務め、御用邸払い下げ、東海大学誘致などにかかわった。
字画の関係から「凡久」のペンネームで「やすひさ」を名乗ったが、「ぼんきゅう」として通り親しまれた。
【沼朝令和2年12月15日(火)号】
矢田保久氏死去
105歳、元建設相元秘書
故遠藤三郎元建設相の秘書を務めた矢田保久(やた・やすひさ)氏は12日午後5時51分、老衰のため、沼津市上土町の自宅で死去した。105歳。小山町出身。通夜は15日午後6時から、葬儀は16日午前11時半から沼津市下香貫上障子402の1の沼津平安典礼会館本館で。喪主は長女杉本万千(すぎもと・まち)さん。
矢田氏は1953年から長年にわたって、旧衆院静岡2区選出の遠藤氏の秘書を務め、後輩秘書だった二階俊博氏(現自民党幹事長)らを育てた。沼津市企画部長も務め、沼津御用邸の市への移譲に関わった。
政治の舞台裏活躍
12日に105歳で死去した矢田保久さんは、東名高速道や狩野川放水路の建設に尽力した故遠藤三郎元建設相を秘書として支えた。「不正を嫌い、清貧」「やると決めたら諦めずに必ず成し遂げる」。関係者は矢田さんの人柄や功績をしのんだ。矢田さんは遠藤氏と同じ旧制沼津中(現沼津東高)出身。後輩秘書の土屋孝男さん(73)=沼津市=は「遠藤先生とはあうんの呼吸で縁の下の力持ちだった」と振り返る。矢田さんは自民党の二階俊博幹事長の活躍を期待していたという。
大中寺(沼津市)の下山光悦住職(73)は矢田さんと親交が厚く、沼津御用邸移譲の経緯などを郷土誌に掲載した。「軍人として二・二六事件を、秘書として政治の舞台裏を目撃した。まさに歴史の生き証人。どの話も印象的だった」と悼んだ。
【静新令和2年12月15日(火)朝刊】
2020年11月13日
ノーベル物理学賞・小柴昌俊さん死去、94歳 ニュートリノ観測成功
ノーベル物理学賞・小柴昌俊さん死去、94歳 ニュートリノ観測成功
毎日新聞2020年11月13日 12時47分(最終更新 11月13日 13時12分)

小柴昌俊さん=文部科学省で2003年10月6日、塩入正夫撮影
超新星爆発に先立って飛来する素粒子ニュートリノを観測する天文学に道を開き、2002年にノーベル物理学賞を受賞した東京大特別栄誉教授の小柴昌俊(こしば・まさとし)さんが12日、死去した。94歳。東京大が明らかにした。
1926年、愛知県豊橋市生まれ。東京大理学部物理学科4年の時、湯川秀樹氏のノーベル賞受賞を記念して創設された「湯川奨学金」を取得。大学院に進み、宇宙線の実験を始めた。55年に博士号を取得し、70年には教授に就任した。
78年、岐阜県神岡町(現飛驒市)にある鉱山の地下1000メートルに3000トンの水をたたえた巨大装置「カミオカンデ」の建設を発案。研究グループを率いて83年から観測を始めた。
定年直前の87年2月23日、地球から約16万光年の大マゼラン雲で起きた超新星爆発(星が寿命を終える時に起こす爆発)で放出されたニュートリノを観測することに成功した。天体からのニュートリノを、その方向、時刻、エネルギー分布まで明確に検出したのは世界初で、この成果は超新星爆発の仕組みやニュートリノの謎の解明に大きく貢献。02年のノーベル賞受賞につながった。
カミオカンデはその後、数十倍の観測能力を備えた「スーパーカミオカンデ」に引き継がれた。98年にはニュートリノに質量があることを示す「振動」という現象がこの実験装置でとらえられ、世界にセンセーションを巻き起こした。
この間、スイスの欧州合同原子核研究所(CERN)、米シカゴ大などで客員教授を歴任。03年にはノーベル賞の賞金をもとに、基礎科学や科学教育の振興を目的にした「平成基礎科学財団」(現在は解散)を設立、理事長に就任した。
87年仁科記念賞、88年文化功労者、97年文化勲章。00年には、ノーベル賞を一緒に受けた米ペンシルベニア大の故レイモンド・デービス名誉教授と、イスラエルのウォルフ賞を共同受賞している。
毎日新聞2020年11月13日 12時47分(最終更新 11月13日 13時12分)

小柴昌俊さん=文部科学省で2003年10月6日、塩入正夫撮影
超新星爆発に先立って飛来する素粒子ニュートリノを観測する天文学に道を開き、2002年にノーベル物理学賞を受賞した東京大特別栄誉教授の小柴昌俊(こしば・まさとし)さんが12日、死去した。94歳。東京大が明らかにした。
1926年、愛知県豊橋市生まれ。東京大理学部物理学科4年の時、湯川秀樹氏のノーベル賞受賞を記念して創設された「湯川奨学金」を取得。大学院に進み、宇宙線の実験を始めた。55年に博士号を取得し、70年には教授に就任した。
78年、岐阜県神岡町(現飛驒市)にある鉱山の地下1000メートルに3000トンの水をたたえた巨大装置「カミオカンデ」の建設を発案。研究グループを率いて83年から観測を始めた。
定年直前の87年2月23日、地球から約16万光年の大マゼラン雲で起きた超新星爆発(星が寿命を終える時に起こす爆発)で放出されたニュートリノを観測することに成功した。天体からのニュートリノを、その方向、時刻、エネルギー分布まで明確に検出したのは世界初で、この成果は超新星爆発の仕組みやニュートリノの謎の解明に大きく貢献。02年のノーベル賞受賞につながった。
カミオカンデはその後、数十倍の観測能力を備えた「スーパーカミオカンデ」に引き継がれた。98年にはニュートリノに質量があることを示す「振動」という現象がこの実験装置でとらえられ、世界にセンセーションを巻き起こした。
この間、スイスの欧州合同原子核研究所(CERN)、米シカゴ大などで客員教授を歴任。03年にはノーベル賞の賞金をもとに、基礎科学や科学教育の振興を目的にした「平成基礎科学財団」(現在は解散)を設立、理事長に就任した。
87年仁科記念賞、88年文化功労者、97年文化勲章。00年には、ノーベル賞を一緒に受けた米ペンシルベニア大の故レイモンド・デービス名誉教授と、イスラエルのウォルフ賞を共同受賞している。
2020年08月09日
杉山治孝氏(すぎやま・はるたか)(高尾山古墳を守る会会長)
杉山治孝氏(すぎやま・はるたか)(高尾山古墳を守る会会長)

8日午前7時17分、死去。86歳。
自宅は沼津市神田町。
通夜は10日午後6時から沼津市新沢田町2の53ののぼり平安典礼ホールで。
告別式は11日に家族葬で行う。喪主は妻恭子(きょうこ)さん。
【静新令和2年8月9日(日)「おくやみ申し上げます」爛】

8日午前7時17分、死去。86歳。
自宅は沼津市神田町。
通夜は10日午後6時から沼津市新沢田町2の53ののぼり平安典礼ホールで。
告別式は11日に家族葬で行う。喪主は妻恭子(きょうこ)さん。
【静新令和2年8月9日(日)「おくやみ申し上げます」爛】
2020年06月12日
訃報 勝呂安氏
勝呂安氏
(すぐろ・やすし=元県医師会会長、勝呂衛・前沼津医師会会長の父)は、5日午後6時4分、老衰のため、自宅で死去した。95歳。自宅は千本中町19。
葬儀・告別式は妻の輝代さんが喪主となり密葬で行われた。改めて偲ぶ会を開く予定。
勝呂氏は大正13年、旧戸田村の旧家の生まれ。旧制富士中(現富士高)から千葉医専(現千葉犬医学部)を昭和20年に卒業。21年から沼津市立病院外科に勤務し、29年に開業、院長となり、平成4年から名誉院長。
沼津医師会では昭和43年から55年の間に正副会長などを歴任し、同59年から平成2年まで沼津医師会病院院長。県医師会では昭和62年から平成8年まで副会長を務めた後、会長に就任。12年まで在職した。この間、日本医師会理事を務めるなど医師会組織の発展に貢献。
このほか、各種医業関係団体の役員、公的団体の委員などを務め、地域の公衆衛生の向上、救急医、療業務の拡冠に寄与。沼津市長、県知事、沼津市長、(当時)の各表彰、沼津市特別表彰、日本医師会優功賞などを受け、平成13年春の叙勲で勲四等瑞宝章を受章した。
一方、長年にわたって沼津朝日賞の選考委員を務め、明るい社会づくり、地域振興、沼津発信などのために地道な努力や精進を続ける市民・らを評価し光を当てようという同賞で、豊かな学識を踏まえて選考に当たり運営に尽力した。
【沼朝令和2年6月12日(金)号】
(すぐろ・やすし=元県医師会会長、勝呂衛・前沼津医師会会長の父)は、5日午後6時4分、老衰のため、自宅で死去した。95歳。自宅は千本中町19。
葬儀・告別式は妻の輝代さんが喪主となり密葬で行われた。改めて偲ぶ会を開く予定。
勝呂氏は大正13年、旧戸田村の旧家の生まれ。旧制富士中(現富士高)から千葉医専(現千葉犬医学部)を昭和20年に卒業。21年から沼津市立病院外科に勤務し、29年に開業、院長となり、平成4年から名誉院長。
沼津医師会では昭和43年から55年の間に正副会長などを歴任し、同59年から平成2年まで沼津医師会病院院長。県医師会では昭和62年から平成8年まで副会長を務めた後、会長に就任。12年まで在職した。この間、日本医師会理事を務めるなど医師会組織の発展に貢献。
このほか、各種医業関係団体の役員、公的団体の委員などを務め、地域の公衆衛生の向上、救急医、療業務の拡冠に寄与。沼津市長、県知事、沼津市長、(当時)の各表彰、沼津市特別表彰、日本医師会優功賞などを受け、平成13年春の叙勲で勲四等瑞宝章を受章した。
一方、長年にわたって沼津朝日賞の選考委員を務め、明るい社会づくり、地域振興、沼津発信などのために地道な努力や精進を続ける市民・らを評価し光を当てようという同賞で、豊かな学識を踏まえて選考に当たり運営に尽力した。
【沼朝令和2年6月12日(金)号】
2020年05月08日
外交評論家の岡本行夫氏が新型コロナに感染し死去
外交評論家の岡本行夫氏が新型コロナに感染し死去…74歳、橋本内閣と小泉内閣で首相補佐官
読売新聞オンライン2020/05/08 00:09
新型コロナ

外交評論家の岡本行夫氏(2019年7月、東京都港区で)=園田寛志郎撮影
外交評論家の岡本行夫(おかもと・ゆきお)氏が新型コロナウイルスに感染し、先月亡くなっていたことが7日わかった。74歳だった。外務省関係者が明らかにした。
岡本氏は、1968年外務省入省。北米1課長などを歴任した後、91年、外務省を退官した。橋本内閣で沖縄問題担当の首相補佐官を務め、米軍普天間飛行場移設問題などに携わった。政府が2000年の主要国首脳会議(サミット)開催地に沖縄を選ぶにあたり、沖縄担当として誘致運動に尽力した。
小泉内閣では、内閣官房参与を経て首相補佐官に任命された。外交・安全保障問題に関して首相に助言する専門家チーム「対外関係タスクフォース」の座長を務めた。イラク問題担当として、イラク戦争後の支援策の策定などを担った。
首相補佐官を退任した後は、外交評論家として活動していた。
読売新聞オンライン2020/05/08 00:09
新型コロナ

外交評論家の岡本行夫氏(2019年7月、東京都港区で)=園田寛志郎撮影
外交評論家の岡本行夫(おかもと・ゆきお)氏が新型コロナウイルスに感染し、先月亡くなっていたことが7日わかった。74歳だった。外務省関係者が明らかにした。
岡本氏は、1968年外務省入省。北米1課長などを歴任した後、91年、外務省を退官した。橋本内閣で沖縄問題担当の首相補佐官を務め、米軍普天間飛行場移設問題などに携わった。政府が2000年の主要国首脳会議(サミット)開催地に沖縄を選ぶにあたり、沖縄担当として誘致運動に尽力した。
小泉内閣では、内閣官房参与を経て首相補佐官に任命された。外交・安全保障問題に関して首相に助言する専門家チーム「対外関係タスクフォース」の座長を務めた。イラク問題担当として、イラク戦争後の支援策の策定などを担った。
首相補佐官を退任した後は、外交評論家として活動していた。
2020年04月21日
長倉三郎氏が死去 沼津出身、元日本学士院長 99歳
長倉三郎氏が死去 沼津出身、元日本学士院長 99歳

(2020/4/21 12:22)
物理化学の分野で顕著な業績を挙げ、日本学士院長を務めた東京大名誉教授の長倉三郎(ながくら・さぶろう)氏が16日午後7時40分、老衰のため東京都内で死去した。99歳。沼津市出身。自宅は東京都武蔵野市。葬儀、告別式は近親者で済ませた。喪主は妹の西島静子(にしじま・しずこ)さん。遺族らは後日、しのぶ会を検討している。
分子の電子構造と化学反応の関係を解明する「電荷移動理論」を確立。1981年には化学者の国際組織「国際純正・応用化学連合」(IUPAC)の会長に日本人で初めて就任、90年に文化勲章を受章した。
■ 「われわれの希望の星」地元で惜しむ声
1920年に鷹根村(現沼津市)で生まれ、90年には沼津市名誉市民に推された長倉三郎さん。浜松ホトニクス(浜松市中区)が設立した光科学技術研究振興財団(同)の理事も務めた。故郷沼津の関係者は希代の科学者の死を惜しんだ。
長倉さんの母校県立沼津東高には、長倉さんが後輩へのメッセージをつづった石碑が残る。神田不二彦校長は「文化勲章を受章されるなどの多大な功績で、多くの生徒を感化し触発してくださった。生徒、教職員ともに業績を振り返って学んでいきたい」と話した。卒業生でつくる香陵同窓会の小野毅会長は「われわれの希望の星と言える大先輩。母校をとても愛されていた」と哀悼した。
沼津市立愛鷹小には、卒業生の長倉さんが植樹に尽力した、ニュートンが万有引力の法則を発見するきっかけとなったリンゴの木の子孫が残る。勝又昭洋校長は「『天賦の才能は不断の努力により美しく花開く』という先生の言葉と意思を伝えていきたい」と語った。
頼重秀一沼津市長も「言語教育特区や隣接校選択制度の創設、教育基本構想の策定など、本市ならではの特色ある教育に多大なるご尽力をいただいた」と喪失感を口にした。
【しずしんアットエス令和2年4月21日(火)】
名誉市民長倉三郎氏が死去
99歳 文化勲章受章 柳沢出身

柳沢出身の科学者で、日本学士院第23代院長を務めた長倉三郎氏が16日、老衰のため亡くなった。99歳。分子化学分野の功績により1990年(平成2)に文化勲章を受章し、沼津市の名誉市民にも選ばれている。
長倉氏は大正9年1920年(大正9)、駿東郡鷹根村柳沢で生まれ、38年(昭和13)に旧制沼中(現・沼津東高)、16年(1941)に旧制静岡高校(現・静岡大学)、43年(同18)に東京帝国大学(現・東京大学)理学部化学科を卒業し、59年(同34)に東大教授に就任。81年(同56)に東大名誉教授。
分子軌道論を用いて分子の電子状態とその反応性に関する研究を行い、様々な理論の確立と検証、電荷移動理論の実験的証明などで成果を上げたが、中でも、「分子間電荷移動錯体」の実験的確証に成功したことは、その後、電荷移動の概念が有機化学及び無機化学の研究に広く適用される端緒を築いたものとして、高い評価を受けた。
81年(同56)にはIUPAC(国際純正・応用化学連合)会長に日本人で初めて就任。84年(同59)には学術上功績顕著な科学者で組織し文部科学省が設置する国立アカデミー「日本学士院」の会員に選出され、2001年(平成13)から07年(同19)まで院長を務めた。
名誉市民に選ばれたのは文化勲章受章の翌年で、岡野喜太郎、芹沢光治良、井上靖の各氏に次いで4人目。04年には大岡信氏が5人目に選ばれている。
郷土沼津のためにも力を尽くし、市の「人づくり未来塾」などの委員を務め、言語教育特区の創設にも関わった。「万有引力発見」の契機となったと言われるニュートンのリンゴの樹の穂木(ほぎ=接ぎ穂に用いる木の枝)が、長倉氏の仲介で沼津市に贈られ柳沢の故小野保さんによって台木に接がれ、母校の愛鷹小をはじめ各小学校に移植された。
08年(同20)には、日本学士院の特別講演会「学びのススメ~ゆめをみつけよう~」を市立高で開催。学士院として初の試みで、長倉氏をはじめ国際的に高い評価を受ける会員が、中高校生に平易な言葉で直接語りかけた。長倉氏は、粘り強く、納得いくまで考え抜くことの重要性を訴え、同校や沼工の生徒、近隣中・高校の教諭らが聴講。沼津で始まった同企画は、その後、各地で同様に開かれた。
東高には文化勲章受章記念碑が1994年(同6)、香陵記念館前に建てられ、長倉氏により「二十一世紀は若人の知的創造に期待する時代。柔軟な思考と逞しい気力で独自の道を拓き、新しい文化の創造に貢献して下さい」と若い後輩達へのメッセージが刻まれている。
訃報を受けて頼重秀一市長がコメント。「長倉三郎先生の突然の訃報に接し、深い悲しみと大きな喪失感を禁じえません」とし、分子化学の分野での多大な功績や沼津市への貢献を挙げ、「この度の御逝去に際し、市民の皆様とともに、改めて長倉先生の御功績に対し、心より感謝申し上げますとともに、謹んでお悔やみ申し上げます」と哀悼の意を示した。
【沼朝令和2年4月22日(水)号】

(2020/4/21 12:22)

物理化学の分野で顕著な業績を挙げ、日本学士院長を務めた東京大名誉教授の長倉三郎(ながくら・さぶろう)氏が16日午後7時40分、老衰のため東京都内で死去した。99歳。沼津市出身。自宅は東京都武蔵野市。葬儀、告別式は近親者で済ませた。喪主は妹の西島静子(にしじま・しずこ)さん。遺族らは後日、しのぶ会を検討している。
分子の電子構造と化学反応の関係を解明する「電荷移動理論」を確立。1981年には化学者の国際組織「国際純正・応用化学連合」(IUPAC)の会長に日本人で初めて就任、90年に文化勲章を受章した。
■ 「われわれの希望の星」地元で惜しむ声
1920年に鷹根村(現沼津市)で生まれ、90年には沼津市名誉市民に推された長倉三郎さん。浜松ホトニクス(浜松市中区)が設立した光科学技術研究振興財団(同)の理事も務めた。故郷沼津の関係者は希代の科学者の死を惜しんだ。
長倉さんの母校県立沼津東高には、長倉さんが後輩へのメッセージをつづった石碑が残る。神田不二彦校長は「文化勲章を受章されるなどの多大な功績で、多くの生徒を感化し触発してくださった。生徒、教職員ともに業績を振り返って学んでいきたい」と話した。卒業生でつくる香陵同窓会の小野毅会長は「われわれの希望の星と言える大先輩。母校をとても愛されていた」と哀悼した。
沼津市立愛鷹小には、卒業生の長倉さんが植樹に尽力した、ニュートンが万有引力の法則を発見するきっかけとなったリンゴの木の子孫が残る。勝又昭洋校長は「『天賦の才能は不断の努力により美しく花開く』という先生の言葉と意思を伝えていきたい」と語った。
頼重秀一沼津市長も「言語教育特区や隣接校選択制度の創設、教育基本構想の策定など、本市ならではの特色ある教育に多大なるご尽力をいただいた」と喪失感を口にした。
【しずしんアットエス令和2年4月21日(火)】
名誉市民長倉三郎氏が死去
99歳 文化勲章受章 柳沢出身

柳沢出身の科学者で、日本学士院第23代院長を務めた長倉三郎氏が16日、老衰のため亡くなった。99歳。分子化学分野の功績により1990年(平成2)に文化勲章を受章し、沼津市の名誉市民にも選ばれている。
長倉氏は大正9年1920年(大正9)、駿東郡鷹根村柳沢で生まれ、38年(昭和13)に旧制沼中(現・沼津東高)、16年(1941)に旧制静岡高校(現・静岡大学)、43年(同18)に東京帝国大学(現・東京大学)理学部化学科を卒業し、59年(同34)に東大教授に就任。81年(同56)に東大名誉教授。
分子軌道論を用いて分子の電子状態とその反応性に関する研究を行い、様々な理論の確立と検証、電荷移動理論の実験的証明などで成果を上げたが、中でも、「分子間電荷移動錯体」の実験的確証に成功したことは、その後、電荷移動の概念が有機化学及び無機化学の研究に広く適用される端緒を築いたものとして、高い評価を受けた。
81年(同56)にはIUPAC(国際純正・応用化学連合)会長に日本人で初めて就任。84年(同59)には学術上功績顕著な科学者で組織し文部科学省が設置する国立アカデミー「日本学士院」の会員に選出され、2001年(平成13)から07年(同19)まで院長を務めた。
名誉市民に選ばれたのは文化勲章受章の翌年で、岡野喜太郎、芹沢光治良、井上靖の各氏に次いで4人目。04年には大岡信氏が5人目に選ばれている。
郷土沼津のためにも力を尽くし、市の「人づくり未来塾」などの委員を務め、言語教育特区の創設にも関わった。「万有引力発見」の契機となったと言われるニュートンのリンゴの樹の穂木(ほぎ=接ぎ穂に用いる木の枝)が、長倉氏の仲介で沼津市に贈られ柳沢の故小野保さんによって台木に接がれ、母校の愛鷹小をはじめ各小学校に移植された。
08年(同20)には、日本学士院の特別講演会「学びのススメ~ゆめをみつけよう~」を市立高で開催。学士院として初の試みで、長倉氏をはじめ国際的に高い評価を受ける会員が、中高校生に平易な言葉で直接語りかけた。長倉氏は、粘り強く、納得いくまで考え抜くことの重要性を訴え、同校や沼工の生徒、近隣中・高校の教諭らが聴講。沼津で始まった同企画は、その後、各地で同様に開かれた。
東高には文化勲章受章記念碑が1994年(同6)、香陵記念館前に建てられ、長倉氏により「二十一世紀は若人の知的創造に期待する時代。柔軟な思考と逞しい気力で独自の道を拓き、新しい文化の創造に貢献して下さい」と若い後輩達へのメッセージが刻まれている。
訃報を受けて頼重秀一市長がコメント。「長倉三郎先生の突然の訃報に接し、深い悲しみと大きな喪失感を禁じえません」とし、分子化学の分野での多大な功績や沼津市への貢献を挙げ、「この度の御逝去に際し、市民の皆様とともに、改めて長倉先生の御功績に対し、心より感謝申し上げますとともに、謹んでお悔やみ申し上げます」と哀悼の意を示した。
【沼朝令和2年4月22日(水)号】
2019年11月30日
中曽根康弘元首相令和1年11月29日死去
静岡の青春「原風景」
中曽根元首相死去
旧制静高で礎築く
「県民に支えられ育った」

29日死去した中曽根康弘元首相は、多感な青春時代の3年間を旧制静岡高(現静岡大)で過ごし、静岡への愛情を終生持ち続けた。晩年には、学生当時に寮から毎日眺めたという冨士山の世界還産登録にも情熱を注いだ。
群馬県出身で、親類の勧めで旧制静岡高に進んだ。同窓会にも参加を続け、旧交を温めた。会は同窓生の高齢化に伴い2012年に解散したが、その節目の集まりでは「われわれが学んだ精神が伝承され、日本のために役立つことを心から念じている」とあいさつ。静高生を育てた静岡の人々への感謝を盛んに口にした。取材に対しても「霊峰冨士、臨済寺の鐘、そして静岡市民、県民に支えられて静高生は育ち、国の役にも立った」としみじみと語っていた。
〈私が今も思い出すのは、昔の静岡駅舎や駅前の小さな町並み、浅間神社である。とりわけ、松原と煙を上げて航行する汽船のはるか頭上に雪を抱いてぽっかり浮かんでいる富士山のすがすがしさは学生時代の原風景であるV(月刊誌『文芸春秋』11年1月号)。自由主義者の本を読みふけり、友人と議論し、ときに旅をした。寮では、炊事部長や寮誌編さん委員長を務めたという。後年、人生を決定付けた体験の一つに静高生活を挙げた。
同窓会の代表幹事を務めていた草野芳正さん(90)=東京都杉並区=は「解散後も、4~5年ほど前までは先生(中曽根氏)を囲む会を開いていた」と振り返り、静高時代のつながりを大切にしていた中曽根氏の人柄を懐かしむ。「いつも国のことを思い、一つの理想を追求されていた。非常に偉大な方で、こんなに寂しいことはない」と悼んだ。
複数の関係者によると、中曽根氏の膨大な蔵書の寄贈先の一つとして、静大も一時期候補に挙がっていたことがあるという。
(社会部・佐藤章弘)
【静新令和1年11月30日(土)朝刊】
中曽根元首相死去
旧制静高で礎築く
「県民に支えられ育った」

29日死去した中曽根康弘元首相は、多感な青春時代の3年間を旧制静岡高(現静岡大)で過ごし、静岡への愛情を終生持ち続けた。晩年には、学生当時に寮から毎日眺めたという冨士山の世界還産登録にも情熱を注いだ。
群馬県出身で、親類の勧めで旧制静岡高に進んだ。同窓会にも参加を続け、旧交を温めた。会は同窓生の高齢化に伴い2012年に解散したが、その節目の集まりでは「われわれが学んだ精神が伝承され、日本のために役立つことを心から念じている」とあいさつ。静高生を育てた静岡の人々への感謝を盛んに口にした。取材に対しても「霊峰冨士、臨済寺の鐘、そして静岡市民、県民に支えられて静高生は育ち、国の役にも立った」としみじみと語っていた。
〈私が今も思い出すのは、昔の静岡駅舎や駅前の小さな町並み、浅間神社である。とりわけ、松原と煙を上げて航行する汽船のはるか頭上に雪を抱いてぽっかり浮かんでいる富士山のすがすがしさは学生時代の原風景であるV(月刊誌『文芸春秋』11年1月号)。自由主義者の本を読みふけり、友人と議論し、ときに旅をした。寮では、炊事部長や寮誌編さん委員長を務めたという。後年、人生を決定付けた体験の一つに静高生活を挙げた。
同窓会の代表幹事を務めていた草野芳正さん(90)=東京都杉並区=は「解散後も、4~5年ほど前までは先生(中曽根氏)を囲む会を開いていた」と振り返り、静高時代のつながりを大切にしていた中曽根氏の人柄を懐かしむ。「いつも国のことを思い、一つの理想を追求されていた。非常に偉大な方で、こんなに寂しいことはない」と悼んだ。
複数の関係者によると、中曽根氏の膨大な蔵書の寄贈先の一つとして、静大も一時期候補に挙がっていたことがあるという。
(社会部・佐藤章弘)
【静新令和1年11月30日(土)朝刊】
2019年11月05日
岡田剛武氏逝去「訃報」
訃報
弊社 代表取締役社長 岡田剛武儀 十一月三日八十二歳にて永眠いたしました、ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご適知申し上げます。
遣って告別式は左記の通り執り行います
一・通夜 十一月八日(金)十九時○〇分
一・葬儀 十一月九日(土)十三時三十分
一・出棺 十一月九日(土)十五時二十分
一・ 場所 大岡平安典礼会館
静岡県沼津市大岡二一七〇ー一
静岡県沼津市大手町四ー六ー一三
喪主 岡田重子
施主 岡田貴之
株式会社 岡藤硝子店

弊社 代表取締役社長 岡田剛武儀 十一月三日八十二歳にて永眠いたしました、ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご適知申し上げます。
遣って告別式は左記の通り執り行います
一・通夜 十一月八日(金)十九時○〇分
一・葬儀 十一月九日(土)十三時三十分
一・出棺 十一月九日(土)十五時二十分
一・ 場所 大岡平安典礼会館
静岡県沼津市大岡二一七〇ー一
静岡県沼津市大手町四ー六ー一三
喪主 岡田重子
施主 岡田貴之
株式会社 岡藤硝子店

2019年08月29日
和田一夫氏死去
和田一夫氏死去
元ヤオハングループ代表 90歳

熱海市を発祥の地とし、昭和から平成にかけて国内外に総合スーパーを展開した元国際流通グループヤオハン代表の和田一夫(わだ・かずお)氏が19日午前2時54分、老衰のため伊豆の国市の自宅で死去したことが28日、分かった。90歳。熱海市出身。葬儀・告別式は9月21日午前10時から、伊豆の国市四日町528の2のJAハートフルメモリー韮山会館で執り行う予定。喪主は妻きみ子さん。
日本大経済学部を卒業後の1951年、両親の営んでいた熱海市の青果商、八百半商店に入社した。62年、八百半デパート設立とともに社長に就き、伊豆半島からチェーン展開に乗り出した。
高度成長期に国内の流通競争が激しくなる中、海外に活路を求めて71年にブラジル進出。以降、欧米や東南アジアで事業を広げ、最盛期には16の国・地域に約430店舗を持つ一大流通グループに育て上げた。
しかし、96年に国内事業を担つていたグループ中核のヤオハンジャパン(91年に八百半デパートから社名変更)の資金繰り悪化が表面化し、97年9月、静岡地裁に会社更生法の適用を申請した。バブル崩壊後の売り上げ低迷や資金調達のために大量発行した転換社債の償還難などが要因となった。負債総額は1600億円で当時、戦後最大規模の流通業の企業倒産だった。
破綻によりグループの全役職から退き、しばらくして経営コンサルタント業や講演活動を始めた。ヤオハンの成功と失敗からの教訓を経営者らに伝えた。
近年はふるさとの伊豆で暮らしていた。昨夏には熱海市で元社員らを招いて「お詫(わ)びと感謝の会」を開いた。家族によると、亡くなる少し前から体調を崩していたという。
ヤオハンジャパンはジャスコ(現イオン)の支援を受けて経営再建を果たし、2OO2年にマックスバリュ東海に社名を変更した。
【静新令和1年8月29日(木)朝刊】
元ヤオハングループ代表 90歳

熱海市を発祥の地とし、昭和から平成にかけて国内外に総合スーパーを展開した元国際流通グループヤオハン代表の和田一夫(わだ・かずお)氏が19日午前2時54分、老衰のため伊豆の国市の自宅で死去したことが28日、分かった。90歳。熱海市出身。葬儀・告別式は9月21日午前10時から、伊豆の国市四日町528の2のJAハートフルメモリー韮山会館で執り行う予定。喪主は妻きみ子さん。
日本大経済学部を卒業後の1951年、両親の営んでいた熱海市の青果商、八百半商店に入社した。62年、八百半デパート設立とともに社長に就き、伊豆半島からチェーン展開に乗り出した。
高度成長期に国内の流通競争が激しくなる中、海外に活路を求めて71年にブラジル進出。以降、欧米や東南アジアで事業を広げ、最盛期には16の国・地域に約430店舗を持つ一大流通グループに育て上げた。
しかし、96年に国内事業を担つていたグループ中核のヤオハンジャパン(91年に八百半デパートから社名変更)の資金繰り悪化が表面化し、97年9月、静岡地裁に会社更生法の適用を申請した。バブル崩壊後の売り上げ低迷や資金調達のために大量発行した転換社債の償還難などが要因となった。負債総額は1600億円で当時、戦後最大規模の流通業の企業倒産だった。
破綻によりグループの全役職から退き、しばらくして経営コンサルタント業や講演活動を始めた。ヤオハンの成功と失敗からの教訓を経営者らに伝えた。
近年はふるさとの伊豆で暮らしていた。昨夏には熱海市で元社員らを招いて「お詫(わ)びと感謝の会」を開いた。家族によると、亡くなる少し前から体調を崩していたという。
ヤオハンジャパンはジャスコ(現イオン)の支援を受けて経営再建を果たし、2OO2年にマックスバリュ東海に社名を変更した。
【静新令和1年8月29日(木)朝刊】
2019年05月16日
故後藤全弘儀社葬

在りし日の故人を偲んで
平成三十一年三月三十日亡 享年八十八
無量院求道日全居士故
後藤全弘儀 社葬
日時 令和元年五月十五日(水)午後一時
場所 沼津市民文化センター大ホール
社葬式次第
一、開式
一、読経
一、歎徳文
一、弔辞 葬儀委員長 杉山盛雄様 ご来賓代表 葬儀副委員長 沼津市長 頼重秀一様 葬儀副委員長岩﨑一雄様 葬儀副委員長(友人代表)岩崎逸三様 葬儀副委員長 後藤行宏
一、弔電奉読
一、読経・指名献花
一、葬儀委員長謝辞 葬儀委員長 杉山盛雄様
一、謝辞 主催者(喪主)
一、閉式
一、会葬者献花
2019年04月02日
訃報 後藤全弘氏(ごとう・かねひろ)
後藤全弘氏(ごとう・かねひろ)

=株式会社ゴトー相談役、元沼津商工会議所会頭)30日午後2時14分、すい臓がんのため長泉町内の病院で死去。87歳。沼津市出身。自宅は沼津市小諏訪。通夜は3日午後6時から、告別式は4日午前11時から沼津市大岡2170の1の大岡平安典礼会館で。喪主は妻八重(やえ)さん。社葬は後日執り行う予定。
1991年11月から2001年5月までゴトー社長、07年11月から10年10月まで沼津商工会議所会頭を務めた。
【静新平成31年4月1日(月)朝刊】

=株式会社ゴトー相談役、元沼津商工会議所会頭)30日午後2時14分、すい臓がんのため長泉町内の病院で死去。87歳。沼津市出身。自宅は沼津市小諏訪。通夜は3日午後6時から、告別式は4日午前11時から沼津市大岡2170の1の大岡平安典礼会館で。喪主は妻八重(やえ)さん。社葬は後日執り行う予定。
1991年11月から2001年5月までゴトー社長、07年11月から10年10月まで沼津商工会議所会頭を務めた。
【静新平成31年4月1日(月)朝刊】
2019年02月11日
堺屋太一氏死去
堺屋太一さん死去83歳
作家「団塊の世代」元経企庁長官

「団塊の世代」の名付け親であり、経済企画庁(現内閣府)長官を務めた作家で経済評論家の堺屋太一(さかいや・たいち、本名池口小太郎=いけぐち・こたろう)さんが8日午後8時19分、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。83歳。大阪市出身。葬儀・告別式は17日午後1時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は洋画家の妻池口史子(いけぐち・ちかこ)さん。
東大経済学部卒業後、1960年、通商産業省(現経済産業省)に入省。62年版の通商白書で「水平分業論」を展開し注目を集めた。70年開催の大阪万博の企画を担当し、沖縄開発庁(現内閣府)出向中には沖縄海洋博も手掛けた。78年退官。
在職中の75年に石油危機をテーマにした「油断!」で作家デビュー。第1次ベビープーム世代を「団塊の世代」と名付けた76年の同名の小説では、この世代が社会に与える影響をいち早く予測するなど、将来を先取りする著作でベストセラー作家となった。
98年7月から2000年12月まで小渕内閣と森内閣で、民間人閣僚一として経済企画庁長官を務めた。第2次安倍内閣では内閣官房参与に就任した。
85年には脱工業化社会を予言した「知価革命」も出版。歴史小説出多く「峠の群像」や「秀吉」はNHKの大河ドラマの原作になった。
官僚主義の弊寄を厳しく批判し、道州制など地方分権推進論者でもある。政府税制調査会や国会等移転調査会委員、阪神・淡路復興委員会委員を歴任した。当時の橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」のブレーンとして活躍し、11年12月から大阪府市併任の特別顧問。
2009年9月から10年12月まで、本紙朝刊小説「三人の二代目」を連載した。
【静新平成31年2月11日(月)朝刊】
作家「団塊の世代」元経企庁長官

「団塊の世代」の名付け親であり、経済企画庁(現内閣府)長官を務めた作家で経済評論家の堺屋太一(さかいや・たいち、本名池口小太郎=いけぐち・こたろう)さんが8日午後8時19分、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。83歳。大阪市出身。葬儀・告別式は17日午後1時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は洋画家の妻池口史子(いけぐち・ちかこ)さん。
東大経済学部卒業後、1960年、通商産業省(現経済産業省)に入省。62年版の通商白書で「水平分業論」を展開し注目を集めた。70年開催の大阪万博の企画を担当し、沖縄開発庁(現内閣府)出向中には沖縄海洋博も手掛けた。78年退官。
在職中の75年に石油危機をテーマにした「油断!」で作家デビュー。第1次ベビープーム世代を「団塊の世代」と名付けた76年の同名の小説では、この世代が社会に与える影響をいち早く予測するなど、将来を先取りする著作でベストセラー作家となった。
98年7月から2000年12月まで小渕内閣と森内閣で、民間人閣僚一として経済企画庁長官を務めた。第2次安倍内閣では内閣官房参与に就任した。
85年には脱工業化社会を予言した「知価革命」も出版。歴史小説出多く「峠の群像」や「秀吉」はNHKの大河ドラマの原作になった。
官僚主義の弊寄を厳しく批判し、道州制など地方分権推進論者でもある。政府税制調査会や国会等移転調査会委員、阪神・淡路復興委員会委員を歴任した。当時の橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」のブレーンとして活躍し、11年12月から大阪府市併任の特別顧問。
2009年9月から10年12月まで、本紙朝刊小説「三人の二代目」を連載した。
【静新平成31年2月11日(月)朝刊】
2018年12月20日
渡辺英彦氏死去
渡辺英彦さん死去59歳
富士宮やきそば学会長 ご当地グルメけん引

富士宮やきそば学会の会長を務め、食の地域ブランドを生かしたまちおこしモデルの確立に尽力した富士宮市の渡辺英彦さんが19日午前7時40分、病気のため長泉町内の病院で死去した。59歳。同市出身。
渡辺さんは、地域活性化を目的に2000年に設立した同学会のトップを担った。ユーモアあふれるネーミングを冠した活動を次々に打ち出し、地元で愛されてきた「富士宮やきそば」を地域プランドとして全国区に広め、大きな経済波及効果をもたらした。愛Bリーグ(ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会)の会長も務め、ご当地グルメを通じたまちおこしブームの火付け役として各地の地域活性化に力を添えた。須藤秀忠市長は「まちおこしや情報発信などこれ以上ない貢献をしてもらった」と弔い、個人としては2人目となる市長顕彰を授与する方針を示した。ともに活性化の取り組みを進めてきたNPO法人まちづくりトップランナーふじのみや本舗の渡辺孝秀代表理事(66)は「企画力やリーダーシップにあふれ、今後の市の発展のためにもまだまだ力が必要だった」と惜しんだ。
2019年1月19日に市内でお別れ会を開く予定。
【静新平成30年12月20日(木)朝刊】
富士宮やきそば学会長 ご当地グルメけん引

富士宮やきそば学会の会長を務め、食の地域ブランドを生かしたまちおこしモデルの確立に尽力した富士宮市の渡辺英彦さんが19日午前7時40分、病気のため長泉町内の病院で死去した。59歳。同市出身。
渡辺さんは、地域活性化を目的に2000年に設立した同学会のトップを担った。ユーモアあふれるネーミングを冠した活動を次々に打ち出し、地元で愛されてきた「富士宮やきそば」を地域プランドとして全国区に広め、大きな経済波及効果をもたらした。愛Bリーグ(ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会)の会長も務め、ご当地グルメを通じたまちおこしブームの火付け役として各地の地域活性化に力を添えた。須藤秀忠市長は「まちおこしや情報発信などこれ以上ない貢献をしてもらった」と弔い、個人としては2人目となる市長顕彰を授与する方針を示した。ともに活性化の取り組みを進めてきたNPO法人まちづくりトップランナーふじのみや本舗の渡辺孝秀代表理事(66)は「企画力やリーダーシップにあふれ、今後の市の発展のためにもまだまだ力が必要だった」と惜しんだ。
2019年1月19日に市内でお別れ会を開く予定。
【静新平成30年12月20日(木)朝刊】
2018年11月09日
勸山弘師が死去 99歳 アイバンク運動に半生捧げる
勸山弘師が死去 99歳
アイバンク運動に半生捧げる

勸山弘師(すすやま・ひろむ=真宗大谷派勧山=かんざん=眞楽寺前住職、NPO法人日本アイバンク運動推進協議会最高顧問)は七日午前十時、自坊で死去。同日夜、献眼した。99歳。自坊は末広町一七〇。
通夜が十三日午後七時から、葬儀が十四日午前十時半から、いずれも真楽寺で行われる。喪主は長男で同寺住職の光明師。
勸山師は、昭和十九(一九四四)年、二十四歳で住職に就任。直後に応召し、中国を転戦して終戦を迎えた後、八カ月間の収容所生活を送り帰国した。
空襲で灰燼に帰した寺の復興に努めながら仮本堂で始めたのが、後に「真楽寺みのりの会」となる「婦人法話会」。みのりの会は六十六年間、七百二十九回を重ね、平成二十六(二〇一四)年八月、九十五歳を機に退任することになった住職として最後の法話を行い、光明師に引き継いだ。
また、昭和五十五(一九八〇)年十一月には「テレフォン説法」がスタート。法話を留守番電話に吹き込み、人の生き方の指針として示唆を与え、みのりの会の講師退任後も続けた。この説法は「読むテレフォン説法」として印刷物となり、小山町まで新聞折り込みで配達された。
一方、昭和三十九(一九六四)年、檀家の通夜で、通夜経を終えた後、献眼のための眼球摘出手術が行われるのを目の当たりにし、一人の角膜で二人の失明者に光を与えられることに感動。自身がメンバーだった沼津ライオンズクラブに申し入れ、同クラブの社会奉仕活動の一つとしてアイバンク運動がスタートした。
初めて献眼した時の驚きについて勸山師は、その後の講演などで、「医者の後に坊主が行くなら分かるが、坊主がお経を終えた後に医者が来るとは」といった語り口で、自身が開眼した様子を語っている。
昭和四十(一九六五)年に日本アイバンク協会が設立されるが、勸山師は家族三人で献眼登録し、以来、半世紀余にわたって日本のアイバンク運動の先頭に立って獅子奮迅。数多くの講演もこなしながら、各方面に献眼登録を呼びかけた。
そうした活動の中、昭和五十四(一九七九)年の「国際児童年」には、献眼先進国として交流していたスリランカに交渉して二百眼の握供を受け、百二十一人の子どもが光を取り戻した。
さらに、中国でのアイバンク運動普及に尽力。平成二(一九九〇)年、中国初のアイバンクが設立される一端を担い、日中友好の架け橋にもなった。
こうした活動が認められ、二十一(二〇〇九)年には、健全な社会と地域社会、国民のクオリティ・オブ・ライフの向上に貢献した人を称える、ジョンソン・エンド・ジョンソングループと日本看護協会による「ヘルシー・ソサエティ賞」のボランティア部門(国際)で受賞。賞金一千万円は日本赤十字社に寄付した。
また、日本アイバンク協会が同年に創設した、国内の角膜移植医療実践及びアイバンク活動の推進に著しい貢献をした人や団体を表彰する「今泉賞」の個人の部で初代の受賞者となった。
さらに平成二十七(二〇一五)年春の叙勲で、「旭日双光章」を業界等からではなく一般受章したが、アイバンク運動関係での受章も初めてだった。
住職退任後も、アイバンク運動の全国大会などでの講演を続け、人生の半分をアイバンク運動に捧げた。
勸山師は生前、「献眼の根本精神は『持てるもの人のために』。ないものを求めているわけではなく、自分が使わなくなる角膜を提供することで、二人に光が戻る。やろうと思えば誰でもできることで、二人の人の人生を変え、そして亡くなった人の角膜も二人を通じて生き続ける」と説いた。
日本アイバンク運動推進協議会では総裁を務め、このほか公職として、市教育委員長、静岡家裁調停委員、県公安委員長、県仏教会会長などを歴任。
沼津朝日賞を受賞、選考委員も務めた。
【沼朝平成30年11月9日(金)号】

勧山弘さん死去
99歳 献眼運動全国拡大 沼津で開始

故人の角膜提供を呼び掛ける献眼登録運動を全国に広めた沼津市の真楽寺前住職でNPO法人日本アイバンク運動推進協議会最高顧問の勧山弘(すすやま・ひろむ)氏が7日、老衰のため同市の自宅で死去していたことが8日、分かった。99歳。同市出身。自宅は同市末広町170の真楽寺。通夜は13日午後7時から、葬儀は14日午前10時半から真楽寺で。喪主は長男光明(こうみょう)氏。
25歳で真楽寺住職に就任。1964年、通夜を執り行った際に献眼手術に立ち会ったことで献眼への理解促進の必要性を感じ、当時会長を務めていた沼津ライオンズクラブ(LC)を中心に献眼運動を開始した。71年には第1回アイバンク運動全国大会を同市で開催、全国のLCと連動して活動を広げた。
2017年に同市で開かれた第40回日本アイバンク運動推進協議会全国大会でも講演に立つなど、直近まで先頭に立って「失明者に光を」と呼び掛けた。自身も7日に献眼した。沼津市教育委員長や県公安委員長なども歴任。15年春の叙勲で旭日双光章を受章した。
県アイバンク理事長の堀田喜裕浜松医科大教授は「説得力のある言葉で献眼の意義を語り、活動をけん引していただいた。県内の献眼登録者が国内で突出していることは誇り」と故人の功績を語った。沼津ライオンズクラブの小原嘉弘会長は「今の活動があるのは、長年にわたって信念を貫いた勧山氏のおかげ」と話した。
【静新平成30年11月9日(金)朝刊】
アイバンク運動に半生捧げる

勸山弘師(すすやま・ひろむ=真宗大谷派勧山=かんざん=眞楽寺前住職、NPO法人日本アイバンク運動推進協議会最高顧問)は七日午前十時、自坊で死去。同日夜、献眼した。99歳。自坊は末広町一七〇。
通夜が十三日午後七時から、葬儀が十四日午前十時半から、いずれも真楽寺で行われる。喪主は長男で同寺住職の光明師。
勸山師は、昭和十九(一九四四)年、二十四歳で住職に就任。直後に応召し、中国を転戦して終戦を迎えた後、八カ月間の収容所生活を送り帰国した。
空襲で灰燼に帰した寺の復興に努めながら仮本堂で始めたのが、後に「真楽寺みのりの会」となる「婦人法話会」。みのりの会は六十六年間、七百二十九回を重ね、平成二十六(二〇一四)年八月、九十五歳を機に退任することになった住職として最後の法話を行い、光明師に引き継いだ。
また、昭和五十五(一九八〇)年十一月には「テレフォン説法」がスタート。法話を留守番電話に吹き込み、人の生き方の指針として示唆を与え、みのりの会の講師退任後も続けた。この説法は「読むテレフォン説法」として印刷物となり、小山町まで新聞折り込みで配達された。
一方、昭和三十九(一九六四)年、檀家の通夜で、通夜経を終えた後、献眼のための眼球摘出手術が行われるのを目の当たりにし、一人の角膜で二人の失明者に光を与えられることに感動。自身がメンバーだった沼津ライオンズクラブに申し入れ、同クラブの社会奉仕活動の一つとしてアイバンク運動がスタートした。
初めて献眼した時の驚きについて勸山師は、その後の講演などで、「医者の後に坊主が行くなら分かるが、坊主がお経を終えた後に医者が来るとは」といった語り口で、自身が開眼した様子を語っている。
昭和四十(一九六五)年に日本アイバンク協会が設立されるが、勸山師は家族三人で献眼登録し、以来、半世紀余にわたって日本のアイバンク運動の先頭に立って獅子奮迅。数多くの講演もこなしながら、各方面に献眼登録を呼びかけた。
そうした活動の中、昭和五十四(一九七九)年の「国際児童年」には、献眼先進国として交流していたスリランカに交渉して二百眼の握供を受け、百二十一人の子どもが光を取り戻した。
さらに、中国でのアイバンク運動普及に尽力。平成二(一九九〇)年、中国初のアイバンクが設立される一端を担い、日中友好の架け橋にもなった。
こうした活動が認められ、二十一(二〇〇九)年には、健全な社会と地域社会、国民のクオリティ・オブ・ライフの向上に貢献した人を称える、ジョンソン・エンド・ジョンソングループと日本看護協会による「ヘルシー・ソサエティ賞」のボランティア部門(国際)で受賞。賞金一千万円は日本赤十字社に寄付した。
また、日本アイバンク協会が同年に創設した、国内の角膜移植医療実践及びアイバンク活動の推進に著しい貢献をした人や団体を表彰する「今泉賞」の個人の部で初代の受賞者となった。
さらに平成二十七(二〇一五)年春の叙勲で、「旭日双光章」を業界等からではなく一般受章したが、アイバンク運動関係での受章も初めてだった。
住職退任後も、アイバンク運動の全国大会などでの講演を続け、人生の半分をアイバンク運動に捧げた。
勸山師は生前、「献眼の根本精神は『持てるもの人のために』。ないものを求めているわけではなく、自分が使わなくなる角膜を提供することで、二人に光が戻る。やろうと思えば誰でもできることで、二人の人の人生を変え、そして亡くなった人の角膜も二人を通じて生き続ける」と説いた。
日本アイバンク運動推進協議会では総裁を務め、このほか公職として、市教育委員長、静岡家裁調停委員、県公安委員長、県仏教会会長などを歴任。
沼津朝日賞を受賞、選考委員も務めた。
【沼朝平成30年11月9日(金)号】

勧山弘さん死去
99歳 献眼運動全国拡大 沼津で開始

故人の角膜提供を呼び掛ける献眼登録運動を全国に広めた沼津市の真楽寺前住職でNPO法人日本アイバンク運動推進協議会最高顧問の勧山弘(すすやま・ひろむ)氏が7日、老衰のため同市の自宅で死去していたことが8日、分かった。99歳。同市出身。自宅は同市末広町170の真楽寺。通夜は13日午後7時から、葬儀は14日午前10時半から真楽寺で。喪主は長男光明(こうみょう)氏。
25歳で真楽寺住職に就任。1964年、通夜を執り行った際に献眼手術に立ち会ったことで献眼への理解促進の必要性を感じ、当時会長を務めていた沼津ライオンズクラブ(LC)を中心に献眼運動を開始した。71年には第1回アイバンク運動全国大会を同市で開催、全国のLCと連動して活動を広げた。
2017年に同市で開かれた第40回日本アイバンク運動推進協議会全国大会でも講演に立つなど、直近まで先頭に立って「失明者に光を」と呼び掛けた。自身も7日に献眼した。沼津市教育委員長や県公安委員長なども歴任。15年春の叙勲で旭日双光章を受章した。
県アイバンク理事長の堀田喜裕浜松医科大教授は「説得力のある言葉で献眼の意義を語り、活動をけん引していただいた。県内の献眼登録者が国内で突出していることは誇り」と故人の功績を語った。沼津ライオンズクラブの小原嘉弘会長は「今の活動があるのは、長年にわたって信念を貫いた勧山氏のおかげ」と話した。
【静新平成30年11月9日(金)朝刊】
2018年10月25日
長部日出雄氏死亡


長部日出雄氏死去
84歳、直木賞作家
「津軽じょんから節」「鬼が来た棟方志功伝」などの作品で知られる直木賞作家の長部日出雄(おさべ・ひでお)さんが18日、虚血性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。84歳。青森県出身。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻真知子(まちこ)さん。
早稲田大中退後、週刊誌記者などを経てブリーに。PR誌の編集などを手掛けた後、1973年、故郷の風土と伝統の中で生きる人間を描いた小説「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」で直木賞を受賞した。
芸術家や学者の人生を掘り下げた評伝を得意とし、「鬼が来たー」で芸術選奨文部大臣賞、「桜桃とキリストもう一つの太宰治伝」では大仏次郎賞と和辻哲郎文化賞を受賞。他に「二十世紀を見抜いた男マックス・ヴェーバー物語」「天才監督木下恵介」がある。
「見知らぬ戦場」で新田次郎文学賞。紫綬褒章も受けた。
映画通としても知られ、ミニコミ誌「紙ヒコーキ通信」を発行。89年には、三味線の魅力に取りつかれた青年を主人公にした映画「夢の祭り」で監督・脚本を務めた。映画評論などの執筆活動で、山路ふみ子映画賞の文化賞を受けた。
【静新平成30年10月25日(木)朝刊訃報】