2009年08月03日
日本水泳界の巨星 古橋廣之進氏死去
日本水泳界の巨星 古橋廣之進氏死去
後輩育成心血注ぐ
県内外から惜しむ声

水泳界の巨星・古橋廣之進さんが逝った。世界水泳選手権開催中のローマでの突然の悲報に2日、県内水泳界や古里・浜松市の地元関係者からも驚きと悲しみの声が広がった。
旧制浜松二中水泳部の1年後輩に当たる河合九平・元浜松市教育長(80)=同市西区=は「水泳人、人間として尊敬していた。腰は悪かったが、元気だった。とにかく驚いている」とがっくりと肩を落とした。浜名湾游泳協会の磯部育夫会長(59)=同市東区=は「言葉にならない」とショックを隠せなかった。
県内水泳界に尽力した功績は計り知れない。高井平八県水泳連盟名誉会長(80)=静岡市葵区=は「(古橋さんとは)同い年で昭和16年からの付き合い。中学生当時の大会で初めて会い、当時は『豆魚雷』と呼ばれていた。現役時代は1日2、3万㍍泳いでいた」と振り返り、「『体が魚になるまで泳げ』という言葉が忘れない。世界に通用するスイマーを生み出すことが供養になる」と語った。
「一時、日本水泳界が低迷した時、古橋先生が日本水泳連盟会長に就任し、昔のような勢いを取り戻した。バルセロナ五輪で岩崎恭子選手が金メダルを取った時、本当に喜んでくれた様子を昨日のように思い出す」。鳥居裕史県水泳連盟理事長(60)=静岡市駿河区=は後輩の育成に力を注いだ古橋さんの人柄をしのんだ。
浜松からは古橋さんに憧れて多くの水泳選手が育った。同じ旧雄踏町出身で1992年のバルセロナ五輪に出場した藤本(旧姓・漢人)陽子さん(34)=浜松市中区=は「早稲田大に合格が決まった時、お祝いのはがきを送ってくれた。雲の上の存在だったが、雄踏出身者の心の支えだった」と語った。隣町の同市西区舞阪町で育ったシドニー、アテネ両パラリンピック競泳の金メダリスト河合純一さん(34)は幼少のころ、古橋さんの障害を乗り越えた姿に人生の希望を切り開いた。「『よく頑張っているね』といつも励ましてくれた。4月に浜松で開かれた日本選手権でお会いした のが最後でした」と惜しんだ。
「泳心一路(えいしんいちろ)」。今年3月に同市中区のホテルで開かれた文化勲章受章記念のパーティーで古橋さんは思いを一枚の色紙に記して出席者に贈った。80年の水泳人生を刻んだ最後の遺言となった。
(静新平成21年8月3日(月)朝刊)
地元衝撃「信じたくない」
古橋廣之進さんの悲報は2日夜、幼少時代を過ごした故郷の浜松市西区雄踏町にも駆け巡った。
「信じたくない」「人生まだまだこれからなのに」。古橋さんと親しい友人らは一様に肩を落とし、地元が生んだ「英雄」の死を悼んだ。
小学校から大学まで古橋さんと同じ道を歩んだ同町山崎の宮崎八郎さん(81)は自宅でニュースを見て友人の急逝を知った。「ただただ、目を疑った」。旧雄踏町長の藤田源左衛門さん(79)も「本当に雄踏を愛した人。地元の大黒柱が倒れてしまった」と信じられない様子で声を震わせた。
2人が最近、古橋さんと会ったのは5月に行われた同町の堀出前中央公園(とびっこ公園)の落成式。特にいつもと変わった様子はなかったが、「年も取ったし、『今回のローマ行きで水泳の役職は最後にしたい』と漏らしていた」という。藤田さんは「残りの人生を楽しもうと思っていたのではないか」と振り返った。
古橋さんは持病の腰痛を抱えていたが、何かあればすぐに雄踏へ足を運んだ。宮崎さんは「地元でイベントがあるから来てくれというと、『おー、行くよ』と気軽に来てくれた」と語り、「仲間を残して逝くのは早すぎるんじゃないか。これから一緒に人生を楽しみたかったのに…」とつぶやいた。
(静新平成21年8月3日(月)朝刊)
【「力強いストローク:魚になるまで泳げ」
呼吸する側の左腕ばかりでなく、右腕もひじを伸ばしたまま振り回すように水をかいた。主流だった流れるような華麗な泳ぎ方ではなかったが、復興を願う戦後の日本国民を勇気づけるような、力強いストロークで前へ、前へ突き進む古橋さんの泳ぎだった。
1928年アムステルダム五輪の100㍍自由形で銅メダルを獲得した高石勝男さんに「フォームを直した方がいい」と助言されたこともあったという。それでも、自身の泳ぎにこだわった。日大の後輩で長らく水泳部監督を務めた石井宏さんは「変則4ビートの泳ぎだったが、のちに自由形長距離の主流となった2ビート泳法の源流だったかもしれない。33度も世界記録を更新する選手は、これからはなかなか生まれない」と話した。
モットーは「魚になるまで泳げ」だった。日本水連の役員になってからもその姿勢は変わらなかった。96年アトランタ五輪で、不振だった当時の代表選手が「楽しんで泳げた」と話すのを聞いて激怒。昨年、高速水着問題が持ち上がると「みんな、ふんどしで泳げばいいんだ」と水泳界の将来を危惧(きぐ)した。】
(静新平成21年8月3日(月)朝刊)
「戦後の列島に勇気」
驚異的に記録量産「古橋、古橋」大騒ぎ
【評伝】
「フジヤマのトビウオ」の軌跡は、戦後日本の歩みにぴたりと重なる。選手としてだけではなく、スポーツ界のリーダーとしても国内外から尊敬される「世界のトビウオ」だった。
1947年から50年ごろにかけて古橋廣之進さんは競泳男子自由形で驚異的な世界記録を量産した。その活躍は、敗戦直後の日本人にどれほどの勇気を与えたのか。
「ラジオの実況にかじりついて応援した。古橋、古橋と大騒ぎ。『古橋』という名前には、当時、日本中を元気づけた『リンゴの唄』や『青い山脈』と同じ明るい響きを感じた」と古橋さんと同世代の人たちは言う。
敗戦国日本は48年のロンドン五輪に招待されず、全盛期の古橋選手は金メダル獲得の機会を逃した。同時期に開催した日本選手権で、五輪優勝タイムを上回る世界新で圧勝。古橋さんは「こちらはイモしか食べてなかったのに、五輪のタイムがこんなに遅いのかとびっくりしたよ」と、半世紀以上も前の快挙を振り返ったことがある。
トビウオの快泳は、側面から日本スポーツ界の国際復帰を促進したといえる。51年の第1回アジア大会(インド)に日本は予想外の招待を受けた。日本が復帰した52年ヘルシンキ五輪で国民の期待を一身に背負ったものの、体調を崩して惨敗した。「古橋を責めないでください」と当時のラジオ実況は訴えたという。ヘルシンキ後に引退し、大同毛織の羊毛バイヤーとしてオーストラリアに駐在した。「イエスとノーしか分からないのに駐在員になった。反日感情が根深く、石を投げつけられたこともあった」。その時の苦労が、後の「国際スポーツ人・古橋」の基礎となった。
高度経済成長の契機となった64年東京五輪では団長秘書として日本選手団入り。日本スポーツ界は、東京五輪を成功させた人物が中心となってその後も支えた。JOC会長まで務めた古橋さんは「最後の東京五輪世代」の指導者でもあった。
戦時中の勤労動員で、旋盤にはさまれて左中指の第1関節から先を失った。「指の間から水が抜けてね。そのハンディを補うために練習を重ねたら、指の間に本当にみずかきのようなものができたんだよ」。息子のような世代の記者に、その手を見せて解説してくれたことがある。戦争のことも、戦後のことも、誰をも恨まず、非難もしない。黙々と泳ぎ、歯を食いしばって英語を学び、がむしゃらに働いた。戦後の日本人に共通するスタイルを貫いた。(共同)
(静新平成21年8月3日(月)朝刊)
後輩育成心血注ぐ
県内外から惜しむ声

水泳界の巨星・古橋廣之進さんが逝った。世界水泳選手権開催中のローマでの突然の悲報に2日、県内水泳界や古里・浜松市の地元関係者からも驚きと悲しみの声が広がった。
旧制浜松二中水泳部の1年後輩に当たる河合九平・元浜松市教育長(80)=同市西区=は「水泳人、人間として尊敬していた。腰は悪かったが、元気だった。とにかく驚いている」とがっくりと肩を落とした。浜名湾游泳協会の磯部育夫会長(59)=同市東区=は「言葉にならない」とショックを隠せなかった。
県内水泳界に尽力した功績は計り知れない。高井平八県水泳連盟名誉会長(80)=静岡市葵区=は「(古橋さんとは)同い年で昭和16年からの付き合い。中学生当時の大会で初めて会い、当時は『豆魚雷』と呼ばれていた。現役時代は1日2、3万㍍泳いでいた」と振り返り、「『体が魚になるまで泳げ』という言葉が忘れない。世界に通用するスイマーを生み出すことが供養になる」と語った。
「一時、日本水泳界が低迷した時、古橋先生が日本水泳連盟会長に就任し、昔のような勢いを取り戻した。バルセロナ五輪で岩崎恭子選手が金メダルを取った時、本当に喜んでくれた様子を昨日のように思い出す」。鳥居裕史県水泳連盟理事長(60)=静岡市駿河区=は後輩の育成に力を注いだ古橋さんの人柄をしのんだ。
浜松からは古橋さんに憧れて多くの水泳選手が育った。同じ旧雄踏町出身で1992年のバルセロナ五輪に出場した藤本(旧姓・漢人)陽子さん(34)=浜松市中区=は「早稲田大に合格が決まった時、お祝いのはがきを送ってくれた。雲の上の存在だったが、雄踏出身者の心の支えだった」と語った。隣町の同市西区舞阪町で育ったシドニー、アテネ両パラリンピック競泳の金メダリスト河合純一さん(34)は幼少のころ、古橋さんの障害を乗り越えた姿に人生の希望を切り開いた。「『よく頑張っているね』といつも励ましてくれた。4月に浜松で開かれた日本選手権でお会いした のが最後でした」と惜しんだ。
「泳心一路(えいしんいちろ)」。今年3月に同市中区のホテルで開かれた文化勲章受章記念のパーティーで古橋さんは思いを一枚の色紙に記して出席者に贈った。80年の水泳人生を刻んだ最後の遺言となった。
(静新平成21年8月3日(月)朝刊)
地元衝撃「信じたくない」
古橋廣之進さんの悲報は2日夜、幼少時代を過ごした故郷の浜松市西区雄踏町にも駆け巡った。
「信じたくない」「人生まだまだこれからなのに」。古橋さんと親しい友人らは一様に肩を落とし、地元が生んだ「英雄」の死を悼んだ。
小学校から大学まで古橋さんと同じ道を歩んだ同町山崎の宮崎八郎さん(81)は自宅でニュースを見て友人の急逝を知った。「ただただ、目を疑った」。旧雄踏町長の藤田源左衛門さん(79)も「本当に雄踏を愛した人。地元の大黒柱が倒れてしまった」と信じられない様子で声を震わせた。
2人が最近、古橋さんと会ったのは5月に行われた同町の堀出前中央公園(とびっこ公園)の落成式。特にいつもと変わった様子はなかったが、「年も取ったし、『今回のローマ行きで水泳の役職は最後にしたい』と漏らしていた」という。藤田さんは「残りの人生を楽しもうと思っていたのではないか」と振り返った。
古橋さんは持病の腰痛を抱えていたが、何かあればすぐに雄踏へ足を運んだ。宮崎さんは「地元でイベントがあるから来てくれというと、『おー、行くよ』と気軽に来てくれた」と語り、「仲間を残して逝くのは早すぎるんじゃないか。これから一緒に人生を楽しみたかったのに…」とつぶやいた。
(静新平成21年8月3日(月)朝刊)
【「力強いストローク:魚になるまで泳げ」
呼吸する側の左腕ばかりでなく、右腕もひじを伸ばしたまま振り回すように水をかいた。主流だった流れるような華麗な泳ぎ方ではなかったが、復興を願う戦後の日本国民を勇気づけるような、力強いストロークで前へ、前へ突き進む古橋さんの泳ぎだった。
1928年アムステルダム五輪の100㍍自由形で銅メダルを獲得した高石勝男さんに「フォームを直した方がいい」と助言されたこともあったという。それでも、自身の泳ぎにこだわった。日大の後輩で長らく水泳部監督を務めた石井宏さんは「変則4ビートの泳ぎだったが、のちに自由形長距離の主流となった2ビート泳法の源流だったかもしれない。33度も世界記録を更新する選手は、これからはなかなか生まれない」と話した。
モットーは「魚になるまで泳げ」だった。日本水連の役員になってからもその姿勢は変わらなかった。96年アトランタ五輪で、不振だった当時の代表選手が「楽しんで泳げた」と話すのを聞いて激怒。昨年、高速水着問題が持ち上がると「みんな、ふんどしで泳げばいいんだ」と水泳界の将来を危惧(きぐ)した。】
(静新平成21年8月3日(月)朝刊)
「戦後の列島に勇気」
驚異的に記録量産「古橋、古橋」大騒ぎ
【評伝】
「フジヤマのトビウオ」の軌跡は、戦後日本の歩みにぴたりと重なる。選手としてだけではなく、スポーツ界のリーダーとしても国内外から尊敬される「世界のトビウオ」だった。
1947年から50年ごろにかけて古橋廣之進さんは競泳男子自由形で驚異的な世界記録を量産した。その活躍は、敗戦直後の日本人にどれほどの勇気を与えたのか。
「ラジオの実況にかじりついて応援した。古橋、古橋と大騒ぎ。『古橋』という名前には、当時、日本中を元気づけた『リンゴの唄』や『青い山脈』と同じ明るい響きを感じた」と古橋さんと同世代の人たちは言う。
敗戦国日本は48年のロンドン五輪に招待されず、全盛期の古橋選手は金メダル獲得の機会を逃した。同時期に開催した日本選手権で、五輪優勝タイムを上回る世界新で圧勝。古橋さんは「こちらはイモしか食べてなかったのに、五輪のタイムがこんなに遅いのかとびっくりしたよ」と、半世紀以上も前の快挙を振り返ったことがある。
トビウオの快泳は、側面から日本スポーツ界の国際復帰を促進したといえる。51年の第1回アジア大会(インド)に日本は予想外の招待を受けた。日本が復帰した52年ヘルシンキ五輪で国民の期待を一身に背負ったものの、体調を崩して惨敗した。「古橋を責めないでください」と当時のラジオ実況は訴えたという。ヘルシンキ後に引退し、大同毛織の羊毛バイヤーとしてオーストラリアに駐在した。「イエスとノーしか分からないのに駐在員になった。反日感情が根深く、石を投げつけられたこともあった」。その時の苦労が、後の「国際スポーツ人・古橋」の基礎となった。
高度経済成長の契機となった64年東京五輪では団長秘書として日本選手団入り。日本スポーツ界は、東京五輪を成功させた人物が中心となってその後も支えた。JOC会長まで務めた古橋さんは「最後の東京五輪世代」の指導者でもあった。
戦時中の勤労動員で、旋盤にはさまれて左中指の第1関節から先を失った。「指の間から水が抜けてね。そのハンディを補うために練習を重ねたら、指の間に本当にみずかきのようなものができたんだよ」。息子のような世代の記者に、その手を見せて解説してくれたことがある。戦争のことも、戦後のことも、誰をも恨まず、非難もしない。黙々と泳ぎ、歯を食いしばって英語を学び、がむしゃらに働いた。戦後の日本人に共通するスタイルを貫いた。(共同)
(静新平成21年8月3日(月)朝刊)
Posted by パイプ親父 at 10:14│Comments(0)
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