2016年05月29日
西村滋先生を偲ぶ 千野慎一郎
西村滋先生を偲ぶ 千野慎一郎

中学の同級生有志と六十年振りに修学旅行の地京都を訪ねている時に西村先生の訃報を受けました。
今年一月二十四日の沼津市民文化センターでのミュージカル「お菓子放浪記」では原作者として舞台で元気に挨拶をされたばかりでしたので、突然の訃報に言葉を失いました。
しかし、西村先生が一番長く住まわれた沼津での公演を強く望まれていましたので、最後に沼津で実現できて本当に良かったと、実行委員の一人として今、思います。
西村先生とのご縁は今から三十年以上前のある交流会でした。先生は当,時、既に木下恵介監督のテレビ「お菓子放浪記」の原作者として、また独学のピアノ演奏と歌や踊りを交えた楽しいトークショーでも有名でした。
ご挨拶すると、じっと私の胸元を見詰めて「君、イイネ、イイネ、このネクタイ」と、繰り返して言われたことを思い出します。
後日、購入した三越に問い合わせたところ西陣の製造元でも廃番になっているとの報告を受け、大変失礼かと思いましたが、使用中のネクタイを差し上げたところ、大変喜ばれ、擦り切れるまで使っていただいたと聞いています。
西村先生は、沼津に移住される前は、三十代で映画の原作者、脚本家として谷口千吉監督の「不良少年」や石原裕次郎主演の「やくざ先生」を手掛け、テレビ作家としても六十本を超えた売れっ子ライターとして脚光を浴び始めていました。
三十六歳の時、過労から胸を患って入院。転地療養も兼ねて知人の医師の沼津の別邸(敷地五百坪の旧岩村男爵邸)に管理人という形で移住してきました。看護師の奥様が外で働き、先生は家事、育児をしながら作家活動も始めましたが、一度沈むと厳しく、仕事は激減したようです。
東京時代の作家仲間の伊藤桂一、杉本苑子、永井路子の各氏は次々、直木賞を受賞。マネージャーを共有したこともある橋田寿賀子さんの活躍する姿に、数々の逆境を乗り越えてきた先生にとっても、沼津に在住しての十年は自信喪失の奈落を味わった厳しい時代でした。
しかし、五十歳で『雨にも負けて風にも負けて』で日本ノンフィクション賞を、六十歳で『母恋い放浪記』で路傍の石文学賞を受賞。映画やミュージカル化された「お菓子放浪記」も沼津で誕生しました。
普通なら受賞をきっかけに中央文壇に進出し、もっと売れる本を書けたと思いますが、孤児と戦争を体験した者の責任として戦争孤児をテーマにライフワークとして戦争の無意味さを書き続け、頑固なまでに、その姿勢を生涯崩しませんでした。
そのため、作家としては単行本の出版は二十冊程度と少なく、政治嫌いで政治と距離を置いていましたので誤解されることもあったようです。
六十代後半に縁あって静岡市油山に移住。地域の皆様に温かく迎え入れられて後援会も誕生し、作家活動やチャリティー活動に充実した晩年を過ごされました。
八十代でお菓子放浪記が映画化とミュージカル化され、最後に大きな花を咲かせました。
西村先生の生涯は平和と希望を追い求め、家屋敷といった財産にはこだわらない、お菓子放浪記を地で行った人生でしたが、たくさんの友人、市民、全国のファンとの強い絆という、かけがえのない財産を最後に残された、見事な生涯でした。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
(ミュージカル「お菓子放浪記」沼津実行委員会委員長)
(沼朝平成28年5月29日号寄稿文)

中学の同級生有志と六十年振りに修学旅行の地京都を訪ねている時に西村先生の訃報を受けました。
今年一月二十四日の沼津市民文化センターでのミュージカル「お菓子放浪記」では原作者として舞台で元気に挨拶をされたばかりでしたので、突然の訃報に言葉を失いました。
しかし、西村先生が一番長く住まわれた沼津での公演を強く望まれていましたので、最後に沼津で実現できて本当に良かったと、実行委員の一人として今、思います。
西村先生とのご縁は今から三十年以上前のある交流会でした。先生は当,時、既に木下恵介監督のテレビ「お菓子放浪記」の原作者として、また独学のピアノ演奏と歌や踊りを交えた楽しいトークショーでも有名でした。
ご挨拶すると、じっと私の胸元を見詰めて「君、イイネ、イイネ、このネクタイ」と、繰り返して言われたことを思い出します。
後日、購入した三越に問い合わせたところ西陣の製造元でも廃番になっているとの報告を受け、大変失礼かと思いましたが、使用中のネクタイを差し上げたところ、大変喜ばれ、擦り切れるまで使っていただいたと聞いています。
西村先生は、沼津に移住される前は、三十代で映画の原作者、脚本家として谷口千吉監督の「不良少年」や石原裕次郎主演の「やくざ先生」を手掛け、テレビ作家としても六十本を超えた売れっ子ライターとして脚光を浴び始めていました。
三十六歳の時、過労から胸を患って入院。転地療養も兼ねて知人の医師の沼津の別邸(敷地五百坪の旧岩村男爵邸)に管理人という形で移住してきました。看護師の奥様が外で働き、先生は家事、育児をしながら作家活動も始めましたが、一度沈むと厳しく、仕事は激減したようです。
東京時代の作家仲間の伊藤桂一、杉本苑子、永井路子の各氏は次々、直木賞を受賞。マネージャーを共有したこともある橋田寿賀子さんの活躍する姿に、数々の逆境を乗り越えてきた先生にとっても、沼津に在住しての十年は自信喪失の奈落を味わった厳しい時代でした。
しかし、五十歳で『雨にも負けて風にも負けて』で日本ノンフィクション賞を、六十歳で『母恋い放浪記』で路傍の石文学賞を受賞。映画やミュージカル化された「お菓子放浪記」も沼津で誕生しました。
普通なら受賞をきっかけに中央文壇に進出し、もっと売れる本を書けたと思いますが、孤児と戦争を体験した者の責任として戦争孤児をテーマにライフワークとして戦争の無意味さを書き続け、頑固なまでに、その姿勢を生涯崩しませんでした。
そのため、作家としては単行本の出版は二十冊程度と少なく、政治嫌いで政治と距離を置いていましたので誤解されることもあったようです。
六十代後半に縁あって静岡市油山に移住。地域の皆様に温かく迎え入れられて後援会も誕生し、作家活動やチャリティー活動に充実した晩年を過ごされました。
八十代でお菓子放浪記が映画化とミュージカル化され、最後に大きな花を咲かせました。
西村先生の生涯は平和と希望を追い求め、家屋敷といった財産にはこだわらない、お菓子放浪記を地で行った人生でしたが、たくさんの友人、市民、全国のファンとの強い絆という、かけがえのない財産を最後に残された、見事な生涯でした。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
(ミュージカル「お菓子放浪記」沼津実行委員会委員長)
(沼朝平成28年5月29日号寄稿文)