2012年10月19日
「市長選立候補予定者に聴く」中山康之氏
「市長選立候補予定者に聴く」
④ 中山康之氏

「九四五年八月、本郷町生まれ。六十七歳。四小四年の時、父親の転動で盛岡市に移り、翌年、東京に転居し中央大学経済学部を卒業後、日本通運に入社。鹿島港支店長、東北支店部長、郡山支店長などを歴任した後、グループの日通商事の監査役や常務取締役などを務め、現在は日通参与。
沼津市第四次総合計画審議委員に応募し、同計画の策定に携わった。
四年前、東京から生まれ故郷の沼津に戻り、なんとか沼津を活気ある以前のようなまちにしなければ、と市内をくまなく見て歩き「昨年八月に「プリセットー故郷沼津、再生へのメッセージ』、今年四月には二冊目となる『まちの行方ー沼津市民の「選択」と「覚悟」』を自費出版した。
政党の推薦も支持もない完全無所属だが、沼津駅付近鉄道高架事業の見直しを求める六市民団体の支援を受ける。
出馬の動機については「帰郷後、栗原市政を見てきたが、『沼津市をどうしたいのかが分からない。これまでの実績は何も見当たらない』との印象が強い。さらに、今後の四年間を任せるとなると、沼津市の衰退に歯止めがかからないのではと危惧し、私が考える『豊かな自然の恵みを生かしたまちづくり』を実現させるべく出馬を決意した」。
また、「このまちには一新しいリーダーが必要で、そのリーダーは沼津の現状を踏まえ、将来のまちづくりに確たるビジョンを描き、かつ決断力がある人。今回の市長選は、その点を市民がどのように判断するか、市民の一票が沼津の将来を決める。投票に行かず不平ばかり言っていても何も変わらない」と話す。
沼津の現状について、「沼津の衰退の一因は、既得権益組織、血縁・地縁などのしがらみに縛られ、市民を置き去りにしてきた市政にあるのではないか。また有権者は『誰に投票しても変わらない』とあきらめ、最近の選挙では、市民の二人に一人が棄権している。また主体性のない投票行動も影響しているのではないだろうか」としたうえで、「沼津は生まれ故郷だが、父親の勤務の関係で離れていたので、なんのしがらみもない。市政運営の妨げになる『しがらみ』にとらわれることなく、客観的な視点で市政に取り組めるメリットが、私にはある」とアピール。
「既に千四百億円近い借金を抱え、人口が二十万人を切って今後一層の少子高齢化が予想されるのに、未だに鉄道高架にこだわることが、沼津市の衰退をさらに加速させることに行政が気付かないはずはない。国内外の社会・経済情勢の変化、特に東日本大震災後の我が国の状況を考えれば鉄道高架は当然見直さなければならない」
続けて、「たとえ貨物駅用地を取得できたとしても、鉄道高架が完成するのは早くても、それから十五年先。そんなに待てるのか。大多数の市民も本音では鉄道高架は必要ないと思っているのではないだろうか。市長も六月議会で『(鉄道高架から)県が撤収、撤退となれば市単独ではできない』との考えを見せた。直近二代の市長を見る限り、どちらも沼津を建て直すことはできなかった。私が市長に当選したなら、企業人として流通・実業界で総務担当として長年培ってきた知識と経験を市政運営に生かすことができると思う。まずは鉄道高架を見直し、スピード感をもって中心市街地の活性化に欠かせない恒久的な沼津駅南北自由通路の建設に取り組みたい」との決意を見せる。
また、「市役所の改革と市の各種委員会の見直しを手掛けたい。市職員には『市民サービスが第一』と肝に銘じた意識改革と、自分達の仕事に自信と誇りを持って職務遂行するよう求め、効率的な市政運営を共に目指していきたい」との考えでいる。
沼津のこれからを考え、政策の幾つかを挙げる。
①「自然、歴史、文化を生かしたまちづくり」として、自然景観を生かした観光の推進、市街地の緑化と歩行者空間の拡充によるやすらぎづくりなど。
②「豊かな生活をもたらす活動的なまちづくり」を目指し、ファルマバレープロジェクトによる医療・情報産業研究機関の誘致、中心市街地の再整備による産業振興と雇用機会の創出など。
③「誰もが安心して生活できるまちづくり」では、脱原発、自然エネルギーの地産地消の推進、子育て支援と教育環境の充実、十八歳までの医療費完全無料化など。
④「健全な行財政運営ができるまちづくり」では、財政運営の健全化による次世代負担の軽減、鉄道高架ほか各種事業の見直しによる負担軽減で、市民生活・福祉優先の市政実現など。
⑤「市民と共に伸ばす協働のまちづくり」では、市民目線での市政運営と分かりやすい情報の公開、市民の意見が市施策に反映できる仕組みづくりなどを推進していきたい、
四年間の栗原市政に対しては、「印象に残ったのは、国費と市費、合計十億円余を投じたにもかかわらず、機種選定や発注などに関して不透明な市立小中学校への太陽光発電施設設置事業。国内実績ゼロの米国ソリンドラ社製パネルを導入したが、発電能力は国産機種に比べて半分しかないことが判明した。また、新東名高速道路の静岡県内供用によって駿河湾沼津サービスエリアの利用者が予想以上に多く、栗原市長は喜んでいるようだが、なぜ静岡や浜松のようにインターチェンジを設け、周辺の新たなまちづくりを考えなかったのか。まちづくりに先見性が欠けていたことを物語る一例で、今後の市政運営における反省点と言えるだろう」と厳しく見る。
一方で、「沼津には六二㌔の海岸線があり、しかも人口の多くが沿岸部に住んでいる。その人たちの不安を払拭するためにも津波避難施設建設は喫緊の課題。風致地区などでは建物の高さ制限があるが、市民の生命や財産を守るためには法律を変えてもらい、建設を急がなければならない」と語る。
中山氏の祖父は沼津駅北の伏見家から中山家に養子に入った。沼津機関区に籍を置き、初の超特急「つばめ」の初代機関士を務め、「お召し列車」の運転も経験。中山氏の父親も祖父の後を継いで国鉄に入り、渋谷や新橋の駅長などを務めた。沼津を離れたのは、そのため。
家族は妻と長男。慶応大学大学院を修了した長男は独立し、現在、日本学術振興会の研究職に就いている。中山氏の趣味は歴史関連を中心とする読書のほか、年間二十本から三十本は見るという映画鑑賞、妻との美術館巡り。
また、東北地方に十年程勤めたことから日本酒を好んで飲んだが、今ではビールと焼酎。盛岡に移ってから始めたスキーは五十歳頃まで楽しみ、麻雀と将棋も好きで、社会人になってから始めたゴルフは年数回と少なくなった。
市長選への出馬を決めて市内を回り、市民の意識が気になったという中山氏。「八月十三日の出馬宣言後、あいさつ回りしても市長選が十月にあることすら市民に浸透していなかったが、ようやくここに来て市民の意識も上向き、選挙ムードになってきだ。市民に市政への関心を持ってもらわなければ沼津は変わらない。『このままではいけない。市長を代えて沼津市を変えて』との声が日増しに多くなってきた。ぜひご十八日には投票所へ出かけ、市民の権利を行使してもらいたい」と訴えている。
《沼朝平成24年10月19日(金)号》
④ 中山康之氏

「九四五年八月、本郷町生まれ。六十七歳。四小四年の時、父親の転動で盛岡市に移り、翌年、東京に転居し中央大学経済学部を卒業後、日本通運に入社。鹿島港支店長、東北支店部長、郡山支店長などを歴任した後、グループの日通商事の監査役や常務取締役などを務め、現在は日通参与。
沼津市第四次総合計画審議委員に応募し、同計画の策定に携わった。
四年前、東京から生まれ故郷の沼津に戻り、なんとか沼津を活気ある以前のようなまちにしなければ、と市内をくまなく見て歩き「昨年八月に「プリセットー故郷沼津、再生へのメッセージ』、今年四月には二冊目となる『まちの行方ー沼津市民の「選択」と「覚悟」』を自費出版した。
政党の推薦も支持もない完全無所属だが、沼津駅付近鉄道高架事業の見直しを求める六市民団体の支援を受ける。
出馬の動機については「帰郷後、栗原市政を見てきたが、『沼津市をどうしたいのかが分からない。これまでの実績は何も見当たらない』との印象が強い。さらに、今後の四年間を任せるとなると、沼津市の衰退に歯止めがかからないのではと危惧し、私が考える『豊かな自然の恵みを生かしたまちづくり』を実現させるべく出馬を決意した」。
また、「このまちには一新しいリーダーが必要で、そのリーダーは沼津の現状を踏まえ、将来のまちづくりに確たるビジョンを描き、かつ決断力がある人。今回の市長選は、その点を市民がどのように判断するか、市民の一票が沼津の将来を決める。投票に行かず不平ばかり言っていても何も変わらない」と話す。
沼津の現状について、「沼津の衰退の一因は、既得権益組織、血縁・地縁などのしがらみに縛られ、市民を置き去りにしてきた市政にあるのではないか。また有権者は『誰に投票しても変わらない』とあきらめ、最近の選挙では、市民の二人に一人が棄権している。また主体性のない投票行動も影響しているのではないだろうか」としたうえで、「沼津は生まれ故郷だが、父親の勤務の関係で離れていたので、なんのしがらみもない。市政運営の妨げになる『しがらみ』にとらわれることなく、客観的な視点で市政に取り組めるメリットが、私にはある」とアピール。
「既に千四百億円近い借金を抱え、人口が二十万人を切って今後一層の少子高齢化が予想されるのに、未だに鉄道高架にこだわることが、沼津市の衰退をさらに加速させることに行政が気付かないはずはない。国内外の社会・経済情勢の変化、特に東日本大震災後の我が国の状況を考えれば鉄道高架は当然見直さなければならない」
続けて、「たとえ貨物駅用地を取得できたとしても、鉄道高架が完成するのは早くても、それから十五年先。そんなに待てるのか。大多数の市民も本音では鉄道高架は必要ないと思っているのではないだろうか。市長も六月議会で『(鉄道高架から)県が撤収、撤退となれば市単独ではできない』との考えを見せた。直近二代の市長を見る限り、どちらも沼津を建て直すことはできなかった。私が市長に当選したなら、企業人として流通・実業界で総務担当として長年培ってきた知識と経験を市政運営に生かすことができると思う。まずは鉄道高架を見直し、スピード感をもって中心市街地の活性化に欠かせない恒久的な沼津駅南北自由通路の建設に取り組みたい」との決意を見せる。
また、「市役所の改革と市の各種委員会の見直しを手掛けたい。市職員には『市民サービスが第一』と肝に銘じた意識改革と、自分達の仕事に自信と誇りを持って職務遂行するよう求め、効率的な市政運営を共に目指していきたい」との考えでいる。
沼津のこれからを考え、政策の幾つかを挙げる。
①「自然、歴史、文化を生かしたまちづくり」として、自然景観を生かした観光の推進、市街地の緑化と歩行者空間の拡充によるやすらぎづくりなど。
②「豊かな生活をもたらす活動的なまちづくり」を目指し、ファルマバレープロジェクトによる医療・情報産業研究機関の誘致、中心市街地の再整備による産業振興と雇用機会の創出など。
③「誰もが安心して生活できるまちづくり」では、脱原発、自然エネルギーの地産地消の推進、子育て支援と教育環境の充実、十八歳までの医療費完全無料化など。
④「健全な行財政運営ができるまちづくり」では、財政運営の健全化による次世代負担の軽減、鉄道高架ほか各種事業の見直しによる負担軽減で、市民生活・福祉優先の市政実現など。
⑤「市民と共に伸ばす協働のまちづくり」では、市民目線での市政運営と分かりやすい情報の公開、市民の意見が市施策に反映できる仕組みづくりなどを推進していきたい、
四年間の栗原市政に対しては、「印象に残ったのは、国費と市費、合計十億円余を投じたにもかかわらず、機種選定や発注などに関して不透明な市立小中学校への太陽光発電施設設置事業。国内実績ゼロの米国ソリンドラ社製パネルを導入したが、発電能力は国産機種に比べて半分しかないことが判明した。また、新東名高速道路の静岡県内供用によって駿河湾沼津サービスエリアの利用者が予想以上に多く、栗原市長は喜んでいるようだが、なぜ静岡や浜松のようにインターチェンジを設け、周辺の新たなまちづくりを考えなかったのか。まちづくりに先見性が欠けていたことを物語る一例で、今後の市政運営における反省点と言えるだろう」と厳しく見る。
一方で、「沼津には六二㌔の海岸線があり、しかも人口の多くが沿岸部に住んでいる。その人たちの不安を払拭するためにも津波避難施設建設は喫緊の課題。風致地区などでは建物の高さ制限があるが、市民の生命や財産を守るためには法律を変えてもらい、建設を急がなければならない」と語る。
中山氏の祖父は沼津駅北の伏見家から中山家に養子に入った。沼津機関区に籍を置き、初の超特急「つばめ」の初代機関士を務め、「お召し列車」の運転も経験。中山氏の父親も祖父の後を継いで国鉄に入り、渋谷や新橋の駅長などを務めた。沼津を離れたのは、そのため。
家族は妻と長男。慶応大学大学院を修了した長男は独立し、現在、日本学術振興会の研究職に就いている。中山氏の趣味は歴史関連を中心とする読書のほか、年間二十本から三十本は見るという映画鑑賞、妻との美術館巡り。
また、東北地方に十年程勤めたことから日本酒を好んで飲んだが、今ではビールと焼酎。盛岡に移ってから始めたスキーは五十歳頃まで楽しみ、麻雀と将棋も好きで、社会人になってから始めたゴルフは年数回と少なくなった。
市長選への出馬を決めて市内を回り、市民の意識が気になったという中山氏。「八月十三日の出馬宣言後、あいさつ回りしても市長選が十月にあることすら市民に浸透していなかったが、ようやくここに来て市民の意識も上向き、選挙ムードになってきだ。市民に市政への関心を持ってもらわなければ沼津は変わらない。『このままではいけない。市長を代えて沼津市を変えて』との声が日増しに多くなってきた。ぜひご十八日には投票所へ出かけ、市民の権利を行使してもらいたい」と訴えている。
《沼朝平成24年10月19日(金)号》
Posted by パイプ親父 at
05:30
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