2008年01月28日

四辻善成

「四辻善成」

源氏物語千年:島内 景二
「真実味加えた四辻善成」


正月七日には、七草がゆを食べる。この日に、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・仏の座・すずな・すずしろ、これぞ七草」という和歌を唱える人は多いだろう。
俗説では、この歌の作者は四辻善成だとされる。今日は彼をめぐって、話を進めよう。
源氏物語は虚構の作り話であり、光源氏は架空のヒーローである。そう思って読み始めた読者も、次第に抜き差しならない「現実感=リアリティー」を感じるようになる。登場人物の喜怒哀楽が、読者の心に直接にびんびんと響いてくる。
ここで、発想を変えてみよう。もし彼らが実在の人物であるとしたら、どうだろう。伊勢物語で「昔男」と呼ばれる男が、実際には在原業平をモデルとしていたように、源氏物語の登場人物にも、あるいは舞台となっている地名にもモデルがあるのではないか。
そういう読み方をしたのが、源氏物語の注釈書「河海抄」で知られる四辻善成(一三二六ー一四〇二年)なのだ。鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府が樹立され、南北朝の争いが続いた動乱の時代に、彼は研究に没頭した。
四辻善成物語の書き出しは、「いづれの御時にか」(どの天皇の御代であったか)。紫式部は、桐壼帝の実名が誰か、ついに明かさなかった。
善成は、桐壺帝が醍醐天皇だと突き止めた。在位期間は八九七年から九三〇年。約千年前に書かれた源氏物語は、さらにその七、八十年前を描いた歴史小説だったのだ。
醍醐天皇の皇子で、源氏となった人はいないか。その人に、左遷された経験があればなおよい。いるのだ、そういう人が。源高明(九一四ー九八二年)。ならば、彼が光源氏のモデルだろう。
物語は、歴史以上に真実味がある。善成は、夕顔が光源氏の目の前で急死した「なにがしの院」が、源融の住んだ「河原の院」だとも特定している。このような「モデル読み」に従って、江戸時代には、夕顔の住んだ家の敷地を特定した源氏ファンさえいた。
善成は、紫式部の墓が「雲林院白毫院の南」にあったと証言している。ただし、真偽は定かではない。虚構と真実の絶妙のブレンドの楽しみ方を教えてくれたのが、四辻善成という人物だった。(電気通信大教授)
(静新平成20年1月28日(月)朝刊)



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Posted by パイプ親父 at 13:15│Comments(0)歴史上の人物
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