2009年11月30日

ロシアのゲルファント博士

 ロシアのゲルファント博士
 20世紀の「巨人」逝く
 新しい数学創造に情熱
 代数、幾何、解析と細分化されているように見えても、実は数学は一つー。そんな信念の下、新しい数学を創造し続けたロシアの数学者、イズライル・ゲルフアント博士が10月5日、96歳で亡くなった。数多くの優れた弟子も育てた20世紀数学の「巨人」だった。
 ゲルファント博士は現在のウクライナ生まれ。16歳のときモスクワに移り、図書館で働きながら本を読み、数学を独習。高校も大学も出ていなかったが才能を認められ、モスクワ大の大学院生となり、博士号を取った。
 素粒子論など物理学に欠かせない「関数解析学」や「表現論」など、数学の幅広い分野で先駆的な業績を数多く残した。
 「数学は一つ。そう信じ、情熱を注いだ」と最後の弟子、ミハイル・スミルノブ米コロンビア大教授。「どこを掘れば数学の"宝"が見つかるかという直感に優れていた。ほかの人の創造力を引き出す力もすごかった」 モスクワ大で45年近く続けた「ゲルファントセミナー」が有名だ。学者から優秀な高校生まで200人近くが参加し、毎週月曜日の牛後7時ごろから同11時まで続いた。
 「誰がどんな話をするか。いつ先生がさえぎり、ほかの誰に、理解した部分を説明させるか。すべてが予測不能だった」と高校時代から参加したフランス高等科学研究所のマキシム・コンツェビッチ教授は懐かしむ。
 大きな影響を受けた小林俊行東京大教授は言う。「彼の中では『ものをつくる』ことが大事で、セミナーでも新しいものをつくろうとしていた。既存の手法を積み上げて難問を解決するタイプではなく、どう進んでいいか分からないところで力を発揮した人でした」
 【メモ】ゲルファント博士は1989年に京都賞受賞。翌年、米国に移住、ラトガース大で教えた。スミルノブ教授によると、趣味はクラシック音楽。ロシアの作曲家アリフレート・シュニトケ氏(98年没)と親しく、作曲家になりたかったと語ったこともあるという。
(静新平成21年11月30日「科学」)
  

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2009年11月25日

加藤瑠美子(かとうるみこ)氏

 学校法人加藤学園副理事長
 加藤瑠美子(かとうるみこ)氏(66)
 次世代を担う人材育成

 ー教育方針を聞かせてください。
 「創立者は『女性に仕事を持たせること』を目標に、どんなことにもまこころを持って取り組む人づくりに力を入れてきた。時代が変わっても、『至誠天に通ず』の教育理念は脈々と受け継がれている。文武両道を基本に、海外留学制度や幼稚園の英語教育を積極的に取り入れた」
 ー高校で展開する「徳育」が全国的に注目されています。
 「徳性や品位、人格を向上させる「人間教育」は創立以来の重要課題。現代は、偏差値を意識した教育指導に力点が置かれ生活指導がおろそかになっている上、核家族化で祖父母から日本のしきたりを学ぶ機会が少ない。そのため、手紙の書き方やあいさつ、姿勢、敬語の使い方などを盛り込んだ独自のテキストを製作し、1984年度から高校の必修教科に位置づけている」
 ー県東部の教育環境はいかがですか。
 「沼津市を中心に県東部は私立高校が多い。互いに教育の上で競争ができているが、今後は多様な二ーズに応えるためにも、少数精鋭の特色ある学校づくりが必要になる。有能な人材を地域に残すことができれば、もっと魅力のある地域になるはず。教育熱心な保
護者の協力を得て、次世代を担う人材教育に地域一体となって取り組みたい」
 【加藤学園】1926年、沼津淑徳女学院(沼津市真砂町)設立。45年に現所在地に移転した後、学校法人化。幼稚園を開園したほか、英語教育に特化したバイリンガルクラスを持つ暁秀中学校・高等学校を開校した。沼津市大岡。
(静新平成21年11月25日「熱き地域人」)
  

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2009年11月25日

宝飾鑑定士の藤原規夫さん

「この道一筋に精進」
 沼津市が技能功労者を表彰
 宝飾鑑定士の藤原規夫さん
 青年時代には国際的資格取得で奮闘

 宝飾鑑定士で表彰された藤原規夫さんは一九四六年九月生まれの六十三歳。同志社大学に進んだ後、東京での二年間の修業を経て、創業者の父親が大手町で経営する宝飾・時計・メガネの「フジワラ」を継ぐため沼津に戻り四十年。
 二十七歳の時、宝石鑑定士資格を得るため米国に渡り、GIA(宝石学の世界的教育機関)で学び、二十八歳でGG(宝石学の専門家として国際的に認められる称号)を取得した。
 渡米して半年間、語学研修した後、GIAで猛勉強。二十種類の石を鑑別する卒業試験では(三回の挑戦で正解しないと放校になるという厳しさ。藤原さんは「学費も高かったしプレッシャーは大変だった」と振り返る。
 藤原さんの帰国当時、GGの取得者は県内に二、三人、全国でも百人程しかいなかったこともあり、フジワラへも鑑定・鑑別のため多くの価値あるダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、エメラルド、ヒスイなどが持ち込まれたという。
 今では流通ルートが確立されているため、鑑定の仕事は以前ほど多くはないが、「何でも偽物はある」と言う。石を水に入れるなど、いろいろな鑑別手段があり、十中八、九は分かるが、中には価値を高めるため石の中の不純物をレーザーなどで除去したものもあり、鑑定は難しいという。
 これまで最も苦労したのは、「渡米後の言葉の問題と同時に、宝石鑑定は覚えなければならないことが多かったことから猛勉強を強いられた」こと。
 家族は妻と一男二女。現在は妻、家業を継いでいる長男と同居。長女は三島市に嫁ぎ、次女は社会人に。楽しみを尋ねると藤原さんは、「週に一回ほど顔を見せる孫」と遊ぶことだという。
 来年、創業七十周年を迎えるフジワラ。同業者が少なくなったことから、消費者が比較購買することができなくなり、時計の電池交換をする店も少なくなった。
 藤原さんは「遠くへ買い物に行かず、沼津の活性化のためにも沼津で買い物してほしい」と話す。
(沼朝平成21年11月25日(水)号)
  

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2009年11月15日

加来耕三さん「評伝・江川太郎左右衛門」

「評伝・江川太郎左右衛門」加来耕三さん


【かく・こうぞう氏 1958年大阪市生まれ。奈良大文学部史学科卒業。同大研究員を経て、歴史的に正しく評価されない人物・組織の復権をテーマに著述活動。「歴史研究」編集委員。】
 明治維新への設計図引く
 幕末の伊豆国韮山代官、江川太郎左衛門(坦庵)を描いた「評伝江川太郎左衛門」(時事通信社)を刊行した歴史家・作家の加来耕三氏に、著作意図を聞いた。
 ー幕末、海防に奔走し、江戸幕府に西洋技術を取り入れた軍事改革を訴えた坦庵。なぜ今、坦庵に焦点を当てたのか。
 「物事には必ず前兆、前の部分がある。歴史学の基本で言えば『すべての答えは過去にある』といえる。日本人は幕末好きだが、知られているのは黒船騒動の後。明治維新を知るには幕末の前半部分、天保年間をはずしてはならない。坦庵は真っすぐな人間だった。前向きだが、面白くも何ともない。しかし、西洋砲術を取り入れ、私塾を開き、農兵の採用を訴えた。国内で初めてパンを作り、兵士の携行食にしたり進取の精神にあふれていた。明治維新への設計図を引いた人間として、前の部分を知るには欠かせない」
 「天保年間、幕府は金がない。大衆は政治が悪いと人の責任にする。文化は成熟して刹那(せつな)的だ。現代とよく似ている。黒船が来て何もできない幕府に危機感を抱いた坂本龍馬など若い人はこのころ生まれている。どこに向かってどう走るか。現代の苦難を乗り切るためにも幕末前期を学ばなければならない。さらに言えば、坦庵が建議した海軍が坦庵死後、長崎に設立され、勝海舟、榎本武揚らが巣立っている。坦庵の先見性が際立つ。伊豆から築いた坦庵の功績はもっと知られるべきだ」
 ー坦庵の先を読む力はどうして養われたのか。
 「伊豆はものなりが悪い、農業に適さない地だ。坦庵はあくまで領民が餓えないよう、豊かになるよう努めた。父親を見習い、代官として模範的だったといえる。領民を守るという考えの延長線上に、国防があった。西洋の文物が日本より進んでいるのを自分で実験しながら確かめた。天然痘予防の種痘や農作物の栽培法しかり。西洋と日本を比べることで先見性を身に付けていった。だから幕府に建議書を提出した。幕藩体制の内側の人間が限界ぎりぎりまでやった。しかし、斬新なため、幕府に理解できる人がいなかった。坦庵は無駄死にとはいわないが、不本意のまま55歳で過労死した。結果的に明治維新後、施策は実現した」
 ー坦庵の生涯を描き、読者に訴えたいことは。
 「歴史学は偶然を認めていない。すべて必然と考える。昨日、今日の延長上に未来がある。坦庵は幕府に陸海軍の在り方を理路整然と説いた。地に足を付け、左右のバランスが崩れない常識を土台に。坦庵のように着実に生きた人間から学ぶことは多い。飛躍しがちな論旨を捨て、数字を重視し客観的な判断をする。さらに事あるごとに立ち止まり過去を振り返る。すべて現代に通じる生き方だ」
(静新平成21年11月14日夕刊)
  

Posted by パイプ親父 at 11:06Comments(1)作家

2009年11月13日

甲田園枝(ころだそのえ)さん(沼津市)

「木目込み人形教室工房園」を主宰
 甲田園枝(ころだそのえ)さん(沼津市)
 沼津市本で約10年前から木目込み人形教室工房園を主宰する。生徒を指導する傍ら、地元の歴史上の女性などをモチーフに人形製作に励んでいる。66歳。
 ー木目込み人形を始めたきっかけは。
 「約40年前、娘の初節句人形を自分で作ろうと思ったことがきっかけ。売っている人形の中に気に入ったものがなく、自分の好みに合わせて作れて、長年残すことができると思い挑戦した」
 ー人形の特徴は。
 「キリの木くずを固めたものを土台にするため、壊れにくい。豊富に種類がある中から好みの布を選ぶ楽しさもある。古い布きれを人形としてよみがえらせ、残すこともできる」
 ー今後の目標は。
 「これまでにさまざまな人の下で技術を学び、応用してきたが、さらに人形の頭部を含めて作れるような技術を習得し、表現の幅を広げたい。また、伝統文化として若い人にも携わってもらえるよう広めていきたい。興味のある人はぜひ一度、工房に寄ってほしい」
 ◇
 現在は生徒と共に来年のえとであるトラの製作に取り組む。
(静新平成21年11月13日「この人」)
  

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2009年11月11日

シック社長 亀井竹雄(かめいたけお)氏

シック社長 亀井竹雄(かめいたけお)氏(55)
 【シック】1993年に創立。商業施設のデザイン・設計・施工を手掛ける。シックは「SPACEINTEGRATECREAT10N(空間の総括的創造)」の略。1級建築士や建築デザイナーなど社員20人。沼津市西熊堂。

「 街づくりへ創意工夫を」
 ー中心市街地ににぎわいを創出するためには何が必要ですか。
 「ネット販売が盛んになり、物販のバーチャル化が進んでいる。街中へ人を呼び込むためには、その街が楽しい空間でなければならない。関連商品を同一の売り場で販売する『クロスマーチャンダイジング』という手法があるが、まちづくりも同様。車を通行止めにして市を開くなど、行けば必ず何かが行われている"街道"があるといい」
 ー旅館の改修も手掛けていますが、観光振興をどのように考えますか。
 「富士山があり海があり、自然が豊富。人気は高く、さらなる発展の可能性も十分にある。大切なのは客のニーズを常に把握し、サービスの見直しを継続的に行うこと。黙っていても客が訪れる時代は終わったが、昔の体質が抜けない経営者もいる。まちづくりと同じだが、観光面でも楽しませよう、もてなそうという気持ちが一番大事」
 ー合併についての考えを聞かせてください。
 「『沼津が一番』『三島が一番』と合併の主導権争いをしている場合ではない。意地の張り合いは視野を狭めることにつながる。それよりも一つの大きな都市と考え、ここは商業エリア、こちらは文化エリアなどとエリアごとにとらえる方が、外部の人から見ても分かりやすい。互いの文化の共有化を図れることもメリットだと考える」
(静新平成21年11月11日「熱き地域人」)
  

Posted by パイプ親父 at 15:49Comments(1)熱き人たち

2009年11月11日

 森繁久弥さん死去

 森繁久弥さん死去
 俳優96歳 映画、舞台で活躍
 「夫婦善哉」「社長」シリーズ
 映画「夫婦善哉」や舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」をはじめテレビ、ラジオなどでも活躍、日本を代表する俳優で大衆芸能の分野で初の文化勲章を受章した森繁久弥(もりしげ・ひさや)さんが10日午前8時16分、老衰のため東京都内の病院で死去した。96歳。大阪府出身。葬儀・告別式の日取り、喪主などは未定。
 1934年に早稲田大商学部に入学したが、演劇熱が高じて1936年に中退。東宝劇団などを渡り歩いた。NHKのアナウンサー試験に合格して旧満州に渡り新京放送局に勤務した。
 戦後は軽演劇を経て映画界入り。大阪の「法善寺横丁」を舞台にした人情ものの名作「夫婦善哉」(55年)では金持ちのぐうたら息子を味わい深く演じ、大ヒットした「社長」シリーズ、「駅前」シリーズなどでは卓越した喜劇俳優ぶりを示した。
 舞台でも演技派として活躍。主演のミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、67年の初演から上演900回を記録した。
 「七人の孫」などのテレビドラマやラジオ番組でも人気を集め、57年から最晩年まで出演を続けたNHKのラジオドラマ「日曜名作座」は収録2千回を超えた。
 自ら作詞・作曲して歌った「知床旅情」は70年代、加藤登紀子さんの歌で大ヒット。ひょうひょうとした独特の語り口、節回しは「森繁節」と親しまれた。
 文化功労者に選ばれた後、91年に文化勲章を受章。著書に「もう一度逢いたい」「森繁自伝」などがある。
(静新平成21年11月11日(水)朝刊)
  

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2009年11月10日

現代の名工:加藤鴻三郎氏

「現代の名工」
 配管工 加藤鴻三郎(かとうこうざぶろう)さん(66歳、沼津市)
 講習会開き若手育成
 鴻工業所代表を務める傍ら、技能検定委員首席として後進育成に携わる。大手メーカーに先駆けて配管離脱防止部材を考案し、安全性を高めるなど配管設備業界の発展にも寄与した。
 座右の銘は「努力」。「他のことに目を向けず、とことん一つの仕事に取り組んできたことが評価されて大変光栄です」と喜びを語る。新しく開発された素材に対しては、いち早く必要道具をそろえ、まずは自身で経験する。「配管は工事を終えると隠れてしまうので失敗が許されない」と話す。
 若手の育成は仕事の楽しみの一つ。年1度の技能検定試験前には受講生を集めて予備講習会を開いている。「配管工事は経験が必要な職種だが、個人での育成は難しい。基礎を教える公的な機関が必要」と提言する。
(静新平成21年11月10日(火)朝刊)
  

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2009年11月07日

成田真洞(なりたしんどう)さん(沼津市)

 研心会主宰書家
 成田真洞(なりたしんどう)さん(沼津市)
 書道愛好家でつくる研究会「研心会」を35年間主宰する。抽象画を取り入れるなど伝統的な書道の表現の幅を広げようと活動を続けている。70歳。
 ー書に抽象画を採り入れたきっかけは。
 「4年に1度開いている個展のテーマを探す中で思いついたのが、東洋的な抽象画と詩文のコラボレーションだった。新しい方法でないと納得できない性格で、常に実験を続けている」
 ーこれまでどのような取り組みを進めてきましたか。
 「古来の文字を現代によみがえらせようと、甲骨文字をアレンジしたり、創作したりしてきた。新しい表現で書道に対する『堅い』『とっつきにくい』というイメージを崩したい」
 ー研心会の指導方針を聞かせてください。
 「本人の個性を生かす指導を心掛けている。そのための表現として、太くにじませたら、かすれるところを出すなど、変化と調和を意識させている。年1度の作品展では、多様な作品が集まるため、多くの来場者に楽しんでもらっている」
 ◇
 36年間、高校教師を務めた。
(静新平成21年11月7日(土)「この人」)
  

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