2022年02月13日

19歳藤井(最年少)五冠 将棋史上4人目 4連勝で王将奪取

19歳藤井(最年少)五冠
 将棋史上4人目 4連勝で王将奪取
藤井聡太新王将

 将棋の藤井聡太四冠=竜王・王位・叡王・棋聖=(19)が渡辺明王将(37)に挑戦した第71期王将戦7番勝負第4局は11、12日、東京都立川市で指され、114手で後手の藤井四冠が勝ち、4勝0敗で王将を奪取し五冠になった。19歳6カ月の5タイトル保持は最年少で史上4人目。八大タイトルの過半数の五冠を獲得し、全冠制覇が視野に入ってきた。=関連記事35面へ
『 藤井聡太新王将の略歴
 藤井聡太(ふじい・そうた) 2002年7月、愛知県瀬戸市生まれ。杉本昌隆八段門下。12年にプロ棋士養成機関の奨励会に入会し、16年、最年少の14歳2カ月でプロ入り。18年に中学生で初の棋戦優勝。21年7月、最年少で九段に昇段した。』

 藤井新王将は「今回の7番勝負は持ち時間が8時間と長く、あらためて勉強になった。(五冠は)自分の実力を考えると、出来過ぎの結果だ。今後それに見合う実力をつけていきたい」と話した。
 これまでの最年少は1993年、羽生善治九段(51)の22歳10カ月だった。五冠は故大山康晴15世名人、中原誠16世名人(74)も達成。羽生九段はタイトル戦が七つだった96年に全冠制覇を成し遂げた。
 藤井新王将は7度タイトル戦に出場し、2度の防衛を含め全て制している。2022年度は五つのタイトル防衛を戦いながら、王座戦と棋王戦で挑戦者を目指す。名人戦(7番勝負出場の最短は23年度)以外の最大七冠の可能性がある。
 昨年は棋聖と王位を初防衛し、叡王を奪取。続く竜王戦7番勝負で豊島将之九段(31)を破り、最も若い四冠になった。
 愛知県瀬戸市出身。16年、最年少の14歳2ヵ月でプロ入り。17年にはデビューから無敗で最多の29連勝を成し遂げた。詰め将棋を得意とし、圧倒的な終盤の力を持つ。
 渡辺前王将は、名人と棋王の二冠に後退した。
 出来過ぎの結果だ 藤井聡太新王将の話 形勢判断ができなかった場面が多かった。出来過ぎの結果だ。(全八冠制覇に)少しでも近づければと思う。
 なんとかしたかった 渡辺明前王将の話ストレートで負けたことには、もうちょっとなんとかしたかった。この結果になってしまい残念だ。
【静新令和4年(2022年)2月13日(日曜日一面)】

頂上決戦制し 19歳最年少
 藤井新王将  隙なし終盤力
 「出来過ぎ」圧巻ストレート
 四冠対三冠の頂上決戦を制した。12日、将棋の第71期王将戦7番勝負第4局で挑戦者の藤井聡太四冠が渡辺明王将を破り、最年少五冠に輝いた。注目を集めた今シリーズ。まったく付け入る隙のない圧巻の終盤力を見せつけた。ストレートでの快勝に「出釆過ぎです」と充実感に浸った。
 難敵相手に切れ味鋭い攻めで白星を重ね、迎えた4局目。タイトル奪取を狙う19歳は最善手を導き出そうと盤上を見つめて考え続けた。
 1日目、渡辺前王将は矢倉に囲い、急戦含みの展開になった。それに対し藤井新王将はバランス重視の構えをとる、互いに事前研究済みの局面が続き、指し手は早く進んだ。2日目、判断が難しい局面では互いに長考に沈む。最後は藤井新王将が優勢のまま渡辺前王将を投了に追い込んだ。対局を終えたばかりの藤井新王将は「なかなか実感がない。今後は、(五冠に)見合う実力をつけたい」と振り返った。
 渡辺前王将は藤井新王将と過去、2度の棋聖戦5番勝負はいずれも敗れている。この7番勝負には「ここから先は条件が好転することはない。正念場だ」と決意を秘めて臨んだ。渡辺前王将らしい踏み込みのよさを見せたが及ばず、リベンジはならなかった。名人と棋王の二冠に後退した渡辺前王将は「(棋聖戦に続き、王将戦でも藤井新王将に)ストレートで負けてしまった。もうちょっと何とかしたかった」と言葉少なに述べた。
 終局後、対局場とは別のホテルで記者会見が行われ、約70人の取材陣を前に花束贈呈や「王将」と揮毫(きこう)した色紙を持って写真撮影に臨んだ。藤井新王将は「過去に五冠を取られた方々は、時代を築いた偉大な棋士ばかりで光栄に思う」と静かに話した。
 「強くなりたい」。デビユー後、藤井新王将がずっと言い続けてきた言葉だ。真摯(しんし)に将棋の真理を追究する姿勢は、あの時から少しも変わらない。次々と記録を塗り替える19歳。果たして、どこまで上り詰めるのだろうか。

AIの使い手 藤井五冠一日の長
 4連勝で王将位を手に入れた藤井聡太五冠(19)と渡辺明二冠(37)の勝負は「最新のディープラーニング型将棋AI(人工知能)の使い手同士の戦い」でもあった。AI開発者の山口祐さんは、最新技術も負欲に活用する藤井五冠の飽くなき探究心に注目する。
 藤井五冠が第1局の41手目に指した8六歩。狙いが分かりにくく、立会入の森内俊之九段(51)は「衝撃的な手」「未来の感覚1と驚嘆し1渡辺二冠も次の一手に91分を費やした。
 しかし、山口さんは「8六歩は、ディープラーニング(DL)型将棋AIでは候補手の上位に来る。藤井さんは事前に研究していたのではないか」とみる。DL型は、多くの棋士が研究に使っている従来型とは全く異なる最新型のAIだ。
 従来型AIは1秒間に8000万から1億局面を読む圧倒的な計算力を誇り、その棋力は今やプロをはるかに上回る。それでも、選択の幅が広い序盤では最善手を導き出せないこともあるという。
 一方、DL型は、高精細映像やゲームに使われる映像処理装置を活用。盤面の画像を数値化し、人間の神経細胞を模した高度な計算モヂルで答えを出す。そこには棋士の「大局観」に似た判断過程も見られるといい1序盤の正確さに特長がある。
 DL型の使用を公言している棋士は、一昨年にいち早く導入した藤井五冠と昨年始めた渡辺二冠だけ。山口さんは「どれだけ使いこなせているかでは、藤井さんには一日の長がある」と指摘する。
【静新令和4年(2022年)2月13日(日曜日35面)】
  

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2021年04月05日

復活 池江璃花子選手

白血病から復活 100トメル1バタフライV 池江東京五出場へ 「努力は必ず報われるんだ」 400メートルメドレーR代表
池江璃花子
 白血病からの完全復活を目指す競泳の池江璃花子(20)=ルネサンス=が4日、東京五輪代表に決まった。選考会を兼ねて東京アクアティクスセンターで行われた日本選手権の女子100㍍バタフライを57秒77で制した。日本氷泳連盟が定めるこの種目の派遣標準記録(57秒10)は破れなかったが、400㍍メドレーリレーの選考基準を満たした。
 2019年2月の病気判明から2年余り。24年パリ五輪を目標に掲げて再起の道を歩み始めたばかりだったが、奇跡的な復活劇を披露した。「自分が勝てるのはずっと先のことだと思っていた。すごくつらくてしんどくても、努力は必ず報われるんだなと思った。今すごく幸せ」と涙ながらに語った。
 池江は東京・淑徳巣鴨高1年で出場した16年リオデジャネイロ五輪に続く、2大会連続の出場となる。日本選手権出場は日本新記録を連発して出場全4種目を制した18年大会以来で、長期入院を経て昨年8月に実戦復帰してから初めてだった。
 日本選手権は10日まで。池江は計4種目にエントリーしており、2枚目の五輪切符が懸かる次の100㍍自由形は7日に予選と準決勝、8日に決勝が行われる。9、10日に実施される50㍍自由形と、五輪では実施されない50㍍バタフライにも出場する予定。
 信じられないような復活劇だった。4日に行われた競泳の日本選手権女子100㍍バタフライ決勝。レースを終えて順位と記録を確認すると、池江璃花子(20)=ルネサン=は涙をあふれさせた。白血病により一度は諦めた東京五輪代表入りを決め、プールに入っている間も直後のインタビュー中も目は潤んだまま。「自分がすごくつらくてしんどくても、努力は必ず報われるんだと思った」。無観客で静まりかえった会場に震えた声が響き渡った。
 前半を首位とほとんど差がない2位で折り返し、長いリーチを生かした推進力でぐいぐいとゴールに迫って逆転した。指導する西崎勇コーチは池江の本質を「勝負師」と語る。柔らかな笑顔からは想像もできない竸技者としての強い心(しん)が不屈のスイマーを支えている。
 昨年3月、病気判明後初めてプールに入った。水着契約するミズノは体調に配慮してウエットスーツのような保温水着を準備したが、本人は体が動かしやすい通常の練習用を着た。闘病でやせた体のラインが表れても気にするそぶりはない。ミズノの担当者は「スイマーとして戻ってきた」とうなった。まだ顔を水につけることを許されていない状態にもかかわらず、しっかりと泳いで記録を測り「このタイム、みんな覚えておいて」とうれしそうに言った。
 実戦復帰してからはアスリート魂にさらに火が付いたようだった。1年7カ月ぶりにレースに臨んだ昨年8月末の東京都特別大会は50㍍自由形で26秒32の5位。自らの日本記録に2秒11も遅れて悔しさを募らせた。9月に小学校時代に指導を受けた清水桂コーチと会食をし「前の自分を超えます」と宣言した。
 2019年12月の退院直後は食が細く、好物が並んでもなかなか食指が動かなかった。約1年後のこの冬は朝昼晩の3食に加えて補食も取った。食事管理を徹底して体重を増やし、徐々にたくましさを取り戻してきた。昨年は体調を考慮してほぼやらなかった1日2度の練習を今年に入って合宿では週1回のペースでこなせるようになった。
 日々の強化はパリ五輪でのメダル獲得を目指すためのものだったが、着実な積み重ねの成果が早くも出た。今大会の女子100㍍バタフライは泳ぐごとにタイムを伸ばした。「今はすごく幸せ」と言いつつ「世界と戦えるタイムではない。さらにこれから高みを目指していきたい」。悲劇のヒロインではない。競技者として、自らの真価を高らかに示した。
【静新令和3年(2021年)4月5日(月)朝刊一面】
  

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2020年09月12日

室伏広治氏

感動呼ぶスポーツ界に
室伏次期長官(沼津出身)抱負
室伏広治長官

 2004年アテネ五輪の陸上男子ハンマー投げ金メダリストで、スポーツ庁長官就任が決まった室伏広治氏(45)=沼津市出身=が11日、都内で報道陣の取材に応じ、「スポーツ界に育ててもらった経験が、社会の役に立てられるとしたら素晴らしい。感動していただけるスポーツ界を目指したい」と抱負を語った。
 就任は10月1日付。日本のスポーツ行政を束ねる重責に「心身共に健全に心と力を寄せていきたい」と意気込み、競技力向上や選手の育成支援に加え、スポーツを通じた教育、人々の健康面への貢献に意欲を示した。
 職責はハンマー投げ一の約7㌔の鉄球より重いかどうか問われ、「はるかに重いが、皆さんの力を借りながら精いつぽいやっていきたい」と笑顔で答えた。
 日本オリンピック委員会(JOC)や日本陸上競技連盟の理事、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会スポーツディレクターなどの公職は退き、長官職に専念する。東京五輪・パラに向けては「組織委でオールジャパンで取り組んできた経験を生かしたい」と話し、「めったにない自国開催を契機に、スポーツ実施率や運動に対する意識の向上に取り組みたい」と力を込めた。
(東京支社・内田圭美)
 「沼津市の誇り」
市長コメント
 出身地沼津市の頼重秀一市長は11日、同市出身で、アテネ五輪の陸上男子ハンマー投げ金メダリスト、室伏広治氏(45)のスポーツ庁長官就任が決まったことを受け、「沼津市にとって誇り。豊富な経験を生かし、スポーツ行政のさらなる発展を遂げられると確信している」とのコメントを出した。
 「一番ふさわしい」
JOC山下会長
 スポーツ庁の次期長官に陸上男子ハンマー投げ五輪金メダリストの室伏広治氏の就任が決まったことを受け、日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長は11日、「一番ふさわしい方。東京五輪・パラリンピックの開催に向けて一緒に力を合わせていきたい」と語った。
【静新令和2年9月12日(土)朝刊】
  

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2019年08月06日

渋野日向子

全英女子ゴルフ制覇
渋野「今までにない反響」
渋野日向子

 【ウォバーン(英国)共同】ゴルフのAIG全英女子オープンで日本勢42年ぶりのメジャー制覇を果たした渋野日向子が快挙達成から一夜明けた5日、英ウォバーンで取材に応じ「日本で朝になつたらニュースがすごかつたみたいで、今までにない反響があった」と代名詞の笑みを浮かべた。
=関連記事29面へ
 携帯電話に祝福のメッセージが殺到し、2~3時間寝ただけで午前5時に目が覚めたという。それでも「疲れは全然ない」とすっきりした表情で、写真共有アプリ「インスタグラム」のフォロワーが大会前の2倍以上となる約6万9千人に増えたと、うれしそうに明かした。
 来年の東京五輪代表の有力候補に挙がるなど、一躍時の人となった20歳のヒロインは「今のところは何のプレッシャーもない。日本に帰ったら焼き肉を食べたい」と話した。
【静新令和1年8月6日朝刊】
  

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2018年11月26日

貴景勝

貴景勝


貴景勝教えつなぐ 元貴乃花親方に勇姿
大相撲・部屋消滅で移籍、初V
 大相撲九州場所で初優勝した小結貴景勝関にとって、激動の2カ月だった。入門時の師匠、元貴乃花親方(元横綱)の花田光司氏が10月1日に日本相撲協会を退職。貴乃花部屋の消滅で千賀ノ浦部屋に移った。「僕はこれまでの稽古で強くなった。負けたら何をしているんだという話になる」と周囲の騒がしさをよそに精進。礎を築いてくれた恩人に勇姿を届けた。
 小学校4年生の時に貴乃花部屋の「子供相撲教室」に参加したのが角界入りを目指すきっかけだった。2014年秋場所の初土俵から、憧れの「平成の大横綱」によって心身を育まれた。普段は気さくな若者。土俵上では闘争心あふれる取り口とは対照的に表情を変えない。「相手に失礼。勝っておごらずという日本の武士道の精神です」と理由を説明。元貴乃花親方から美学も教わった。
 徹底して鍛えられた下半身が馬力を生み出す。8月21日、元親万は夏巡業先の秋田市で倒れて救急搬送された。一時は意識を失ったが、容体が安定して問題ないことを関係者に伝え、弟子たちに相撲へ集中させた。貴景勝関は「親方が眠れているか心配はしたけど、力士は頑張るしかない」と意をくみ、四股を踏み続けた。
 17年初場所の新入幕を機に変えたしこ名は、元貴乃花親方の尊敬ずる戦国武将、上杉謙信の後継者の景勝にちなむ。元親方は以前「私の意志を継いでほしい。負けても勝っても力士として誇らしく君臨してほしい」と思いを明かしていた。波乱の1年の締めくくり。22歳の若武者が教えをつなぎ、快挙を果たした。
【静新平成30年11月26日(月)朝刊】
  

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2017年12月26日

2017年12月03日

2017年03月09日

2016年10月04日

大隅良典氏ノーベル賞

大隈良典氏ノーベル賞
細胞内リサイクル解明
 医学生理学賞 がん創薬など期待

大隅良典氏

 【ストックホルム共同】スウェーデンのカロリンスカ研究所は3日、2016年のノーベル医学生理学賞を、細胞が自分のタンパク質を分解してリサイクルする「オートファジー(自食作用)」と呼ばれる仕組みを解明した大隅良典・東京工業大栄誉教授(71)に授与すると発表した。
 細胞が正常な働きを保つための基礎的な仕組みで、異常があるとがんやアルツハイマー病など多くの病気につながるとされる。今後の創薬にも役立つと期待される研究が最高の栄誉に輝いた。
 受賞の決定を受け、大隅氏は「単独受賞は驚きだ。大変光栄に思っている」と話した。
 日本人のノーベル賞受賞は3年連続で25人目。医学生理学賞は昨年の大村智・北里大特別栄誉教授(81)に続く4人目。日本オリジナルの研究成果が高く評価された。
 大隅氏は単細胞生物の酵母を使い実験。酵母を顕微鏡で観察中に、細胞内に膜ができ、不要なタンパク質を取り囲んで除去する現象を発見した。半世紀前にこのような仕組みの存在は提唱されていたが、実態は不明だった。
 ごみの除去だけではなく、飢餓状態のときに自らのタンパク質を栄養とするためにリサイクルしていることも突き止めた。さらに、オートファジーに関わるさまざま遺伝子を見つけている。

☆オートファジー
細胞が自らの内部にあるタンパク質などを分解する仕組みで自食作用と呼ばれる。1960年代に大まかな概念が提唱されたが、詳細は謎だった。細胞内に小さな膜が現れ、球状に丸まりながらタンパク質を取り込む。そしてリソソームなどの小器官と融合し、酵素でタンパク質を分解する。不要なものだけを、一気に大量に分解するのが特徴。細胞の健康を保つほか、分解したタンパク質を栄養源に再利用することで飢餓に耐える働きがある。

「間違いなく面白い」
自食作用研究一心に
 ノーベル医学生理学賞に決まった東京工業大栄誉教授の大隅良典さん(71)は、折に触れ「研究がどう役に立つのかは気にしない。生物学的に大事なことをやるだけ」と話してきた。「小さいことでも、世界で初めてという『わくわく』が科学の醍醐味(だいごみ)だしとも。ひたむきな探求心が、細胞のオートファジーへ自食作用)解明という大発見につながった。
 「人がやらないことを、じっくり研究したいと思っていた」という。1988年、顕微鏡で単細胞生物の酵母を観察し、自食作用につながる動きを見つけた。「これは間違いなく面白い」。東京大に初めて研究室を持った直後で、研究機器も少なかったが、顕微鏡を毎日のぞいた末の大発見だった。
 弟子の一人、東京大教授の水島昇さん(50)は97年、基礎生物学研究所(愛知県岡崎市)にあった大隅さんの研究室を初めて訪ねた。大隅さんは廊下の暗がりで1人コピーを取つていた。当時、東京医科歯科大の研究員だった水島さんは衝撃を受けた。「医学部では秘書や部下にやらせますよ」 研究室のメンバーを怒鳴ることはなかったが、顕微鏡写真などの実験データには厳しかった。大隅さんは自身を「へそ曲がり」と評する。座右の銘を聞くと「ない」。だが若手の研究者には「自分のやっていることを面白いと思うことが重要だ」と助言する。
 見向きもされなかった細胞の自食作用は今や、世界中でしのぎが削られる一大研究分野となった。水島さんは「その扉を開いた大隅さんは本当にすごい」とたたえる。
 自食作用の異常がアルツハイマー病やがんにも関係することが分かってきた。2015年3月、医学分野の世界的な質とされるガードナー国際賞受賞が発表された際大隅さんは「この分野こんなに大きくなって、医学にまで展開するとは想像しなかった」と話した。(共同)
【静新平成28年10月4日(火)朝刊】

  

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2015年11月05日

シニアのレスリング世界大会で優勝 沼工の三澤泰雄教諭

シニアのレスリング世界大会で優勝
フリー58㌔級 沼工の三澤泰雄教諭
misawa
 沼工保健体育科の三澤泰雄教諭(59)=写真=は、十月十三日からアテネで開かれたアマチュアレスリングの世界ベテランズ選手権に出場し、Eクラス(56~60歳)のフリースタイル58㌔級で優勝した。今年一月に開催された全日本マスターズレスリング選手権大会63㌔級で優勝し、全日本マスターズレスリング連盟から世界大会への出場を推薦された。
 清水町柿田生まれの三澤教諭は清水中学卒業後、修善寺工業高校(現・伊豆総合高校)へ進学。同校でレスリングを始め、グレコローマン(以下グレコ)主体に取り組んできた。
 高校三年の時には、フリースタイルのみ実施される高校総体52㌔級でベスト8入り。進学した日体大では三年生の時に全日本学生選手権大会グレコ57㌔級で準優勝、四年生で優勝。その年の全日本選手権グレコ57㌔級で三位に入ったが、五輪出場は果たせなかった。
 卒業後、県内の公立校で二年間、講師を務めてから教諭となったが、赴任先の高校にレスリング部はなく、大学卒業から十八年目、三島南高でレスリング部を立ち上げ監督に就任した。
 沼工勤務は今年で十五年目。レスリング部を指導する傍ら、自らも鍛錬を怠らず、一月の全日本マスターズ出場前には二週間に一度、生徒と共に伊豆総合高へ出向いて練習し、普段66~67㌔ある体重を減量した。
 この全日本を機に引退する考えだったが、同僚の勧めもあり、「58歳(世界大会出場時)、58㌔級」の語呂合わせで世界大会出場を決断したのが四月。勝負に徹するため一階級下の58㌔級での挑戦を決め、出勤前、雨の日を除き、柿田の自宅から香貫大橋経由で香貫山香陵台を走って往復。
 夏休み期間中には香貫山の坂道をレスリング部の練習前に部員と一緒に走り、練習後も走り込んで体重を落とし続け、八月には目標の58㌔を下回る日もあり、約六㌔の減量に成功した。
 世界大会で三澤教諭がエントリーしたクラスには八選手が出場。一回戦、カザフスタンの選手に二ラウンドフォール勝ち、二回戦のトルコの選手には9対2の判定勝ち、決勝ではアメリカの選手を一ラウンドフォールで破り、初出場で初優勝を飾った。
 三澤教諭は「背中を押してくれたレスリング部の先生、そして大会のために休ませてくれた校長はじめ職員、特に体育科の先生に感謝したい。それと、食事など健康面で配慮してくれた妻の支援が大きかった。最後の大会と思っていたので有終の美を飾ることができ、うれしいの一言」と喜びを語った。
【沼朝平成27年11月5日(木)号】
  

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2015年10月08日

梶田隆章氏ノーベル賞:物理学賞

梶田隆章氏ノーベル賞:物理学賞
 ニュートリノ質量発見
 故戸塚氏(富士出身)と研究

梶田隆章
【梶田隆章氏(がじた・たかあき)1959年3月9日、埼玉県生まれ。県立川越高、埼玉大卒。81年、東京大大学院の小柴昌俊氏の研究室に進み、カミオカンデ実験に加わった。86年大学院博士課程修了。東京大理学部助手、東京大宇宙線研究所の助手、助教授を経て99年教授。スーパーカミオカンデの建設に携わり、観測時はデータ解析責任者として日米の研究者を率いた。98年6月、岐阜県高山市の国際会議で「ニュートリノ振動の発見」を発表した。08年4月から東京大宇宙線研究所所長。99年仁科記念賞。56歳。(共同)】
 【ストックホルム共同】スウェーデンの王立科学アカデミーは6日、2015年のノーベル物理学賞を、重さがないと考えられていた素粒子「ニュートリノ」に質量があることを見つけた梶田隆章・東京大宇宙線研究所長(56)ら2人に授与すると発表した。宇宙の謎に挑んだ日本のニュートリノ研究が最高の栄誉に輝いた。5日に医学生理学賞に決まった大村智北里大特別栄誉教授(80)に続く連日の受賞。
 日本人連日の受賞
 梶田氏らの発見は、宇宙の成り立ちを説明する長年の理論に修正を迫る歴史的な成果とされている。梶田氏はノーベル財団との電話インタビューで「本当に驚いている。信じられない」と話した。
 日本人受賞者は、計24人となる。物理学賞は、青色発光ダイオード(LED)を開発した天野浩名古屋大教授(55)=浜松市出身=ら3人が独占した昨年からの連続受賞で、日本の物理学の実力を示す快挙。梶田氏は、02年に物理学賞を受賞した小柴昌俊東京大特別栄誉教授(89)の教え子で、一つの研究チームから2度の受賞は日本で初めて。梶田氏は、富士市出身の研究者、故戸塚洋二氏とともに研究していた。
 ニュートリノは、宇宙に存在する最も基本的な粒子の一つで、どんな物質もすり抜けるため謎が多い。梶田氏は岐阜県飛騨市の観測装置スーパーカミオカ.ンデで、地球の大気で生じる「大気ニュートリノ」を観測。「ミュー型」という種類の二ュートリノが飛行中に「タウン型」に変身する振動という現象を見つけ1998年に発表。振動現象はニュートリノに質量がある証拠とされる。
 同時受賞は、カナダの鉱山の地下で同様の実験をしたカナダ・クイーンズ大のアーサー・マクドナルド名誉教授(72)。

うちゅうの謎 新たなドワ開く
 宇宙の成り立ちに大きな影響を与えたとされる素粒子ニュートリノは、どんな物質もすり抜けるため「幽霊粒子」と呼ばれる。私たちは実感できないが、地球上でも大量のニュートリノが常に体を通り抜けている。身の回りにあるのに観測は難しく、一時は光より速いという実験結果があったほど謎が多い。ニュートリノが質量を持つとの発見は宇宙の謎に新たな扉を開いた。
 小柴昌俊さんが超新星爆発で出たニュートリノを初めて検出して開拓した研究分野を、梶田隆章さんらがさらに発展させ、幽霊粒子の正体に迫った。
 ニュートリノには「電子型」「ミュー型」「タウ型」と3種類ある。梶田さんが見つけたのは、ニュートリノが飛んでいる間に別の種類に変身してしまう「振動」という不思議な現象だ。変身するのは質量を持つ証拠とされる。
 ニュートリノはスイスの理論物理学者が1930年に存在を予言したが、50年代まで見つからなかった。質量もゼロと考えられていた。宇宙には膨大な量のニ・ユートリノが存在するため、質量があれば大きな引
力が発生し、宇宙の膨張にブレーキをかけるかもしれない。宇宙を満たす「暗黒物質」の正体である可能性も取り沙汰され、梶田さんらの発見は反響を呼んだ。

指導者に恵まれ花開く
 小柴さんに続く栄誉
 ノーベル物理学賞に決まった梶田隆章さんは、2002年に同賞を受賞した小柴昌俊東京大特別栄誉教授(89)の門下生。小柴さんや後継者の戸塚洋二さん(08年に死去)ら指導者に恵まれ、地道で粘り強い「実験屋」の才能が花開いた。
 小柴さんは「梶田は大学院生のころから詳しく調べ、スーパーカミオカンデでもずっと1人で続けていた。戸塚という良いボスに応援され、ニュートリノ振動の発見に最大の寄与をした」と教え子の業績をたたえる。
「あまり目立たな静かな子どもだった。クラスのリーダーはやりたくないというタイプ」と言う梶田さん。物理に興味を持ち始めたのは高校時代で、自然法則をシンプルに「きれいな式で表せることが魅力だった」と振り返る。
 埼玉大では「あまりまじめに勉強する方じゃなかった」が「素粒子の実験的な研究をしたい」と、東大大学院の小柴研究室のドアをたたいた。このころニュートリノ観測装置「カミオカンデ」は試作段階。研究室の紹介資料にも書いておらず、梶田さんはニュートリノの存在自体を知らなかった。
 指導を受けた小柴さんのことを「若いときはもっと怖かったそうだが、やはり怖かった。研究について妥協しない。先生が駄目だと言うものは考えを曲げてもらえなかった」と話す。
 ニュートリノの観測データに「振動」の兆候が表れていることに気付き1988年に論文を発表したが「計算が間違っているのでは」と冷たい意見も聞こえた。10年間かけて検証を重ね、間違いないとの確証を得た。「跳びはねはしないが、それに近い感動だった」と、控えめに振り返る。
 98年、岐阜県高山市で開かれた国際会議で「振動の証拠」と発表。万雷の拍手でたたえられた。100人を超えるスーパーカミオカンデの研究チームを強力なリーダーシップで率いた戸塚さんは、発表を梶田さんに任せた。「一言『やれ』と。ありがたかった」
 梶田さんは10年、小柴さんが弟子の死を惜しんで創設した「戸塚洋二賞」を受賞した。
 「戸塚先生の名前を付けた賞をもらえたのは特別なこと」と話す。そこにノーベル賞という世界最高の栄誉が加わった。


 弟子の快挙に「よかった」
 梶田隆章さんの恩師で、2002年にノーヘル物理学賞を受賞した東京大特別栄誉教授
小柴昌俊さんは6日、東京都内の自宅で梶田さんから電話でノーベル物理学賞受賞決定の報告を受け、「おめでとう、よかったね。いずれはもらうと思っていたけど」とたたえた。
 梶田さんからの電話は、スウェーデンの王立科学アカデミーの発表直後の午後6時50分ごろ。梶田さんはうれしそうな様子だったといい、小柴さんは「最初に知らせてきたんでしょう」と弟子の快挙を喜んだ。梶田さんについて、小柴さんは「私が始めたヵミオカンデの実験に、最初から飛び込んできた」と、振り返った。
 小柴さんの弟子には、梶田さんの先輩に当たる戸塚洋二さんがいた。小柴さんは戸塚さんについて間われると「死んじゃったから、どうこう言つてもしょうがないじゃない」と言葉少なだった。
 カミオカンデの研究仲間も喜び
 梶田隆章さんが研究に取り組み、素粒子「ニユートリノ」に質量があることを見つけた観測装置スーパーカミオカンデ。岐阜県飛騨市の施設では、研究仲間らが「やったー」「待ちに待った受賞だ」と喜びを爆発させた。
 施設の会議室には約20人が集まり、受賞者発表の様子を映したモニターを見入った。梶田さんの名前が読み上げられると驚きの声が上がり、すぐに祝福ムードに。全員で万歳三唱した。
 大学院時代から梶田さんと研究し、カミオカンデの建設にも一緒に携わった東京大宇宙線研究所の中畑雅行教授(56)は「頭の回転が速く、自分も非常に学ぶことが多かった。ノーベル賞に匹敵する研究だと分かっていた」と喜びを隠しきれない様子。関谷洋之助教(38)は「過去数年間、受賞が期待されて肩すかしを食らってきた分、大変うれしい。一層モチベーションを上げて、宇宙の始まりに迫る研究に取り組んでいきたい」と興奮気味に話した。

「戸塚先生功績大きい」
 ノーベル賞 梶田さん笑顔の会見
 戸惑いながらも喜び
 この世界は何でできているのか。宇宙を飛び回る小さな素粒子「ニュートリノ」を調べ、謎に迫った梶田隆章・東京大宇宙線研究所長(56)に6日、ノーベル物理学賞の知らせが届いた。「頭が真っ白」と笑顔を見せつつ、亡くなった先輩研究者をたたえた梶田さん。前日の医学生理学賞に続く快挙に、各地で祝福の声が上がった。
 午後8時半すぎ、東京都文京区の東京大本郷キャンパスで始まった記者会見。カメラのフラッシュが続く中、梶田さんは戸惑いながらも笑顔を見せ、ニュートリノ研究を「人類の知の地平線を拡大するような分野」と表現した。
 黒っぽいスーツに水色のネクタイを着けた梶田さんは安倍晋三首相からの電話を受けながら会見場に現れた。「何を話していいか分からない状況」と戸惑いつつ、妻に受賞を報告したと明かした。
 ニュートリノの質量を捉えた観測装置「スーパーカミオカンデ」では、故戸塚洋二・元高エネルギー加速器研究機構長=富士市出身=と苦労を共にした。梶田さんは、戸塚さんが共同受賞者にふさわしいと高く評価。「戸塚先生のお力があったので(スーパーカミオカンデを)建設できた。功績は大きい」とたたえた。
 一番苦しかった出来事を問われると、2001年にスーパーカミオカンデで起きた事故を挙げ、「本当にショックを受けた」と明かした。そのときも、戸塚さんのリーダーシップで乗り越えたと振り返った。
 「気さくで緻密な人」
 県内関係者、快挙祝福
 梶田隆章さんの共同実験グループの一員、静岡福祉大の岡沢裕子教授(宇宙線物理学)によると、梶田さんは気さくさと緻密さを備えた人。「実験が思うように進まない時、一緒にたこ焼き屋でも始めようか、とユーモアを交えて励ましてくれた」と振り返り、「厳しい目で根気よく問題解決される方」とたたえた。
 2009年、梶田さんは焼津市のディスカバリーパーク焼津・天文科学館が開催したニュートリノ企画展に協力した。同館事務長だった池ケ谷憲司さん(61)は「ニュートリノのような日の当たらない世界を子供たちに紹介させてもらい、ありがたい、と言ってくれたことを覚えている」。
 富士市出身の物理学者戸塚洋二氏=享年66歳=の兄、戸塚一さん(84=同市富士岡=は自宅で梶田さんの受賞を知った。「突然テレビで洋二の名前も出て驚いた。本人の受賞はかなわなかったが、後継者が研究を続けてくれて弟も喜んでいると思う。証明してくれた梶田さんに、おめでとうと言いたい」と話した。
【静新平成27年10月7日(水)朝刊】
  

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2015年10月06日

梶田隆章氏ノーベル賞受賞

物理学賞に梶田氏:ノーベル賞 ニュートリノ質量を実証
毎日新聞 2015年10月06日 18時54分(最終更新 10月06日 19時00分)

梶田隆章さん
kajita

 スウェーデンのカロリンスカ研究所は6日、今年のノーベル物理学賞を梶田隆章・東京大宇宙線研究所長(56)ら2人に授与すると発表した。授賞理由は「ニュートリノ振動の発見」。素粒子のニュートリノに質量があることを実証した功績が評価された。
 日本からの受賞は、5日の大村智・北里大特別栄誉教授(80)に続き2日連続。米国籍の南部陽一郎氏(08年物理学賞)、中村修二氏(14年同)を含め24人となる。
 授賞式は12月10日にストックホルムで開かれ、賞金800万スウェーデンクローナ(約1億1500万円)が贈られる
  

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2015年10月02日

 勧山さんの叙勲祝う 沼津

献眼運動で功績 沼津
 勧山さんの叙勲祝う 視力回復の女性が花束
susuyama

 日本アイバンク運動推進協議会の量局顧問を務める沼津市の真楽寺前住職の勧山弘さん(96)の叙勲受章を祝う会が30日夜、市内で開かれた。
 同協議会や県アイバンクの役員、勧山さんが所属する沼津ライオンズクラブ(LC)をはじめ各地区のLC会員、同寺の信徒ら約260人が集まり、献眼運動の先駆者の功績をあらためてたたえた。
 角膜の提供を受け光を取り戻した函南町出身の渡辺小百合さん(東京)は勧山さんに花束を贈った後、失明を告げられた時の絶望感、視力が回復した時の喜び、献眼者への感謝の気持ちを語った。
 勧山さんは1964年、通夜で故人の眼球摘出手術を目にしたのをきっかけに献眼運動を始め、LCを軸に全国に活動の輪を広めた。今春、半世紀にわたる功績に叙勲が贈られた。勧山さんは謝辞を兼ねた講話で「1人の献眼で失明者2人に光が戻る。こんな素晴らしいことはない」と訴えた。
【静新平成27年10月2日(金)朝刊】
  

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2014年11月13日

全盲の弁護士、大胡田誠さん

 大胡田さん(沼津出身)
 全盲弁護士奮闘ドラマ化
 「やればできる」感じて


 全盲の弁護士、大胡田誠さん(37)=沼津市出身、第一東京弁護土会所属=が幼少期から現在までの歩みをつづった著作が12月、テレビドラマ化される。「照れくささもあるが、等身大の自分を描いてもらえた」と感謝し、「身体的ハンディのある人に限らず、全ての人に『やればできる」ことを感じてもらえたら」と楽しみにする。
 ドラマは弁護士になってからの大胡田さんをモデルに、人気若手俳優の松坂桃李さんが主演。松坂さんは大胡田さん宅に泊まり込み、役作りに励んだ。サスペンス風の創作も加味されるが、大胡田さんは実際の活動から懸け離れすぎないよう、4度にわたって脚本に赤字を入れたという。
 原作は一昨年刊行の「全盲の僕が弁護士になった理由(わけ)」(日経BP社)。大胡
田さんは先天性緑内障のため、12歳で視力を失った。途中失明ゆえの苦悩と奮起、両親や弟、盲学校で同級の妻と子、友人らの支えに、日本初の全盲弁護士竹下義樹氏の著作との出合い、弁護士としての日々と喜びを、飾らない文章でつづった。
 記憶が残る最後の映像は、小学校の修学旅行で見た沈む夕日。全盲で生きていく覚悟はできていたが、「白杖(じょう)をつく姿を友達に見られたくなかったし、近所の盲学校に進めば半径数百㍍の世界しか知らないで青春が閉じてしまうことになる」。東京の筑波大付属盲学校(現同視覚特別支援学校)ー慶大を経て、5度の挑戦で司法試験に合格した。
 「常人離れした人とも、かわいそうな人とも思って見てほしくない」。喜びも悲しみもさまざまな経験がある分、「つらい思いをしている人、救いを求めている人の背中を押してあげられる人になりたい」と語り、「見えないからこそ、見えるものがある。社会の光となるような責任もある」と今後の自分に言い聞かせた。
 ドラマは12月1日午後9時から、SBSテレビなど全国ネットで放送の予定。
(静新平成26年11月12日夕刊)
  

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2014年02月11日

加藤学園高チアリーダー部V

加藤学園高(沼津)米チア大会V
一糸乱れぬチームワーク 目標達成に喜び
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 世界各国の中高校生を対象に米国フロリダ州で開かれた全米最大規模のダンス大会「ナショナル・ダンス・チーム・チャンピオンシップ」のシニア部門に、日本代表で出場した沼津市の加藤学園高チアリーダー部が優勝を果たした。海外チームが参加できるようになった最初の大会で、日本から初出場して栄冠に輝いた部員らは「言葉にならない」と喜びに沸いている。
 大会は今月1、2の両日に開催された。シニア部門は同校と柏日体校(千葉県)など日米の計5チームが出場し、ダンス技術を競った。加藤学園高は国内での実績が認められ、大会への出場が決まった。昨夏の国内大会で引退した3年生も昨年11月から再び練習に加わり、大会には2~3年生24人が参加した。
 大柄の米国チームが大技を決める中、同部は持ち味のチームワークを発揮し、一糸乱れぬ息のあった技を披露した点が評価されたという。「夢に責任を持つ」を合言葉にして優勝を目標に大会に臨んだ。栄冠獲得に3年の谷中志帆主将(18)は「練習は厳しかった。国内の主要大会では1位になれなかったが、最後に達成できた」と声を弾ませた。
 同じく3年で副部長の水野琴音さん(18)も「言葉にならないほどうれしい。後輩も自信と誇りを持って演技してほしい」とエールを送った。藤沢紘子顧問は「生徒は現地での行動すべてで優勝を意識していた。目標を達成し、とても誇りに思う」とたたえた。
《靜新平成26年2月11日(火)朝刊》
  

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2014年01月31日

小保方晴子さん

小保方(おぼかた)晴子さん
論文一時は却下…かっぽう着の「リケジョ」快挙
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白衣の代わりにかっぽう着を着て実験を行う小保方晴子・理研ユニットリーダー(29日午後、神戸市中央区で)=枡田直也撮影
 生物学の常識を覆す発見を世界に先駆けて公表したのは、30歳の日本人女性が率いる国際研究チームだった。
 理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の小保方(おぼかた)晴子さんが研究を着想してから6年。意表を突く簡単な手法で様々な組織に変化できる「STAP細胞」を作ったとの論文は当初、一流科学誌から「信じられない」と掲載を拒否されたが、日本のベテラン研究陣の後押しが成功に導いた。
 小保方さんは早稲田大理工学部を2006年に卒業後、高校時代から憧れていた再生医学の研究を開始。この年、iPS細胞(人工多能性幹細胞)を作製したと発表した山中伸弥・京都大教授の講演を聞き、研究に打ち込む決意を強めた。刺激で細胞を変化させるという今回の成果につながるアイデアが浮かんだのは08年に留学していた米ハーバード大でのことだった。
 実験で極細のガラス管にマウスの細胞を通すと、予想より多い幹細胞ができた。「狭い場所を通る刺激がきっかけになったのではないか」と発想を転換して研究を続けた。
 しかし、米国の専門家にも共同研究を持ちかけても、実績のない若手は相手にされない。救いの手を差し伸べたのは10年、センターで研究中の若山照彦・現山梨大教授(46)だった。世界初のクローンマウスを作った若山さんは、突然訪ねてきた小保方さんの協力依頼に「最初は信じられなかったが、僕が証明できれば米国に勝てると思った」と応じた。
 毒素を使ったり、細胞に栄養を与えず飢餓状態にしたり……。11年にセンター客員研究員になった小保方さんは実験を続け、その年の冬、若山さんと、STAP細胞からできた細胞を持つマウスを誕生させた。
 権威ある科学誌ネイチャーに論文を投稿したが、掲載は却下され、審査した研究者からは「細胞生物学の歴史を愚弄している」という趣旨のメールも届いた。肩を落とす小保方さんを、幹細胞研究の第一人者である笹井芳樹・副センター長(51)らが支援。データを解析し直し昨年3月、論文を再投稿。掲載が決まった。
 研究室のスタッフ5人は全員女性。研究室の壁はピンクや黄色で、好きなムーミンのキャラクターシールも貼っている。仕事着は白衣ではなく、大学院時代に祖母からもらったかっぽう着。「これを着ると家族に応援してもらっているように感じる」という。
 理系の女子学生や女性研究者を指す「リケジョ」が注目される中で飛び出した成果。日本分子生物学会理事長の大隅典子・東北大教授(53)は「発生生物学は多くの女性研究者が活躍してきた分野。若手が見つけた小さな芽を、周囲のサポートで結実させた点もすばらしい」と喜んだ。
 これから世界で激しい競争が予想される。「プレッシャーを感じるが、10年後、100年後の人類社会への貢献を意識して、一歩一歩進みたい」と決意を話した。
(2014年1月30日 読売新聞)
  

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2013年09月08日

沼津の大川大和君 4歳9ヶ月「けん玉」初段

 沼津の大川大和君
 世界最年少で合格
4歳9ヶ月「けん玉」初段
ookawa
 沼津市の沼津けん玉クラブに所属する大川大和君(4)日同市江原町目が7日、市内で行われた段位検定試験で、見事初段に合格した。日本けん玉協会県支部によると、世界最年少記録という。大和君は「これからもっと練習して3段を目指したい」と喜びを語った。
 父親で現役最高段位となる6段保持者の英一郎さん(36)によると、大和君がけん玉を始めたのは英一郎さんの影響もあって3歳になる前から。2011年10月に10級に合格したのを皮切りにメキメキと腕を上げた。
 初段は審査員3人の立ち会いの下、玉を三つの皿に乗せてから最後に剣に刺す「世界一周」、玉に剣を乗せる「灯台」など11種類の技に挑み、一定の基準を満たせば得られる。
 同支部によると、これまでの最年少記録は福島県内の少女の5歳9カ月16日。大和君は4歳9カ月12日で大幅に更新した。
 大和君は「緊張したけれど、練習通りできた」と笑顔を見せた。英一郎さんは「初段の壁は高い。よく頑張ったと思う。お祝いしてあげたい」と喜んだ。
《静新平成25年9月8日(日)朝刊》
  

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2013年05月09日

加藤凌平

加藤凌平

加藤 凌平(かとう りょうへい、1993年9月9日 - )は、日本の体操競技選手。静岡県生まれ、埼玉県草加市育ち。身長162cm。埼玉栄高等学校を卒業し順天堂大学へ進学。父親でロンドンオリンピック男子体操コーチの加藤裕之も元体操選手で1989年世界体操競技選手権代表。 2008年、国際大会(リューキンカップ)に初めて参加した。2012年ロンドンオリンピック男子体操日本代表に選出され、同大会団体総合で銀メダルを獲得した。 ウィキペディア
生年月日: 1993年9月9日 (19歳)
生まれ: 沼津市 身長: 162 cm 体重: 54 kg

加藤 男子最年少18歳で父との夢舞台出場果たす
体操NHK杯最終日 (5月5日 東京・国立代々木競技場)
父のKONAMI体操競技部・加藤裕之氏(右)と握手する加藤(左)

Photo By スポニチ
 男子最年少の18歳で代表入りした加藤は、89年世界選手権(シュツットガルト)代表で現コナミ監督の父・裕之さん(48)が果たせなかった五輪出場の夢をかなえ「まだ夢のよう」と話した。

 16歳で全日本選手権3位に入った得意の床運動のポイントで代表入りを狙ったが、この日は緊張する1種目の最初の演技者。練習では全部止まることもある着地が決まらず「満足できない」と振り返ったが、15・350点でライバル沖口を抑え、4日間中3日で首位を奪って代表入りした。

 両親とも体操選手で、9歳から父の指導で本格的に始めた。昨年のNHK杯で8位に入り、世界選手権の補欠になったが五輪を意識したのは、2位通過した4月の全日本後という。常に身近にあって、でも、憧れでしかなかった五輪を本気で目指した1カ月だった。

 父は「代表に必要とされているなら自然に選ばれるはずだ」と送り出した。世界で初めて平行棒の降り技で月面宙返りを成功させ、「ヒロユキ・カトウ」の技名も持つが、88年ソウル五輪は国内で落選。「よくやったなと言いたい」と喜んだ。

 それでも3人の代表を送り出すコナミ監督として代表スタッフ入りが濃厚な裕之さんは「うれしさより大変という気持ちが強い」と複雑。その父の心配をよそに息子は「役割は床。チームを元気づけられるように」と18歳の端正な顔を喜びで満たしていた。
[ 2012年5月6日 06:00
  

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2013年04月21日

四方一瀰氏に博士号

四方一瀰氏に博士号
 中等教育成立状況の研究が評価

 元国士舘大教授で沼津市史編さん委員も務めた教育文化史家の四方一瀰氏が三月、社会科学の博士号をお茶の水女子大から授与された。
 二〇〇四年刊行の著書「『中学校教則大綱』の基礎的研究」で、我が国の中等教育の成立状況を明らかにした業績が高く評価された。
 博士号の取得について四方氏は「夏目漱石だって博士号は辞退してもらっていない。『それなのに私が…』という思いもあったが、(教育史研究者など)多くの人の勧めがあった」と話す。
 著書で扱った「中学校教則大綱」とは、中学校の授業科目や就業年数などを規定したもので、明治十四年(一八八一年)に定められた。
 江戸時代には教育機関として寺子屋や藩校があったが、互いに無関係に存在していた。明治になると、初等教育(小学校)、中等教育(中学校)、高等教育(大学)というヨーロッパ式の三層式学校制度が導入され、学校間の関係も定められたものの、中学校については整備が遅れた。
 中学校に教師が十分に配置されていない一方で、大学など高等教育機関では外国人教師が外国語で授業を行っていたため、高等教育機関に入学するためには、生徒が独自に外国語を学ばなくてはならないような事態も起きていた。そこで政府は中学校教則大綱を定めて中学校の充実に取り組み、これにより初めて三層式の学校制度が十分に機能するようになった。
 このように、この大綱は我が国の教育において重要な役割を果たしていたが、四方氏が研究に着手するまでは、誰もその内容まで深く立ち入ることはなかったという。そのため、四方氏は参考文献が無いような状態で史料の収集から始めることになり、全国各地の官公署などへ赴いて史料を探して研究を続けた。
 四方氏が、このように中等教育についての本格的研究を志すきっかけとなったのは、沼津東高の校史『沼中東高八十年史』の執筆に携わったことだという。
 一九三〇年に市内で生まれた四方氏は、旧制沼津中と県立沼津第一高校(いずれも現在の沼津東高)、早稲田大教育学部を経て、沼津学園高で教員を務めた後、同大院修士課程に入学した。
 その後、沼津市立高や県立高校の教員を務め、県立教育研修所で『静岡県教育史』の編さんに従事した。編さん事業終了後の七八年に国士舘大助教授となったが、この数年前より『八十年史』に関わっていた。
 こうした地方教育史の編さんや執筆活動を元にして、四方氏は『近代教育の展開と地域社会』という著書も刊行している。
 同書では、沼津兵学校から東海大海洋学部に至るまでの沼津の教育の歴史について、中等教育を中心に詳述している。
 研究活動への姿勢として、一つのことを実証的に掘り下げていくことと、全体を俯瞰して見ていくことの両立を重視する四方氏は、教育史の分野については学校施設や規則のことばかりではなく、実際の授業内容についても当時の史料を基に明らかにしていくことの重要性を提唱しており、これを「教育文化史」と呼んでいる。
 現在は、戦前の中等教育では、どのような授業が行われていたかを科目ごとに明らかにするべく、当時の教科書を収集して研究し、論文発表を行っている。
 四方氏は「すべての科目を網羅するには、あと二十何年か生き続けないと。それ以外にも、まだまだやりたいことはある」と語る。
 また、付属中高の校長も務めるなど二十数年にわたって続いた国士舘勤務時代も沼津の自宅から通勤していたという四方氏は、地元沼津に強い愛着を持っており、郷土史研究も手掛けている。
 昨年には市教委の生涯学習地域講座で金岡地区の教育文化について講演。人が住むのに適した地形だった同地区では古代以前から多くの人が住み、光長寺や大中寺等の寺院の影響などで教育を重視する風土が形成されていったことを解説した。
 このほか、自身が住む千本地区についても、「郷林」という地名を手掛かりに、千本松原が単なる景勝地ではなく、食料採取などの生活の場でもあったことを明らかにし、近代以降は地引き網などのレジャーとしての漁業を通して東京から多くの人を引き寄せたことや、結核療養地としての発展が東京から富裕層や医者などを呼び寄せ、これら知識人階級に属する人々が沼津の文化に大きな影響を与えたことなどを論証し、講演を行っている。
《沼朝平成25年4月21日(日)号》
  
タグ :教育史


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2013年02月22日

沼津静浦中学・沼津片浜中学、春季県中学野球大会出場

沼津静浦中学・沼津片浜中学、春季県中学野球大会出場
  

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