2012年10月30日

金子安夫会長

県安心・安全リフォーム協議会
 金子安夫会長
 協業体制確立し技術向上

 他業種からの参入や大手企業の事業強化で競争が激化する住宅リフォーム業界。大工や左官、板金など県内の専門業者が組織化し、協議会を設立した。金子安夫会長に狙いや展望を聞いた。
 ー住宅着工件数は減少し、リフォームに注目が集まっている。
 「耐震工事などを含めてリフォーム需要は伸びている。消費税の増税などで消費者は今後、新築ではなく住宅の改築に価値を見いだす方向へ一層進むと予想する。一方、供給側は他業種が続々と参入し戦国時代に入っている。中小企業はそれぞれが持つ技術を共有し補い合っていかなくては対抗できない」
 ー違法な契約を行うなど業者による事件も発生している。
 「県建築住宅まちづくりセンターへのリフォームに関する相談は増加していて、県民が不安を感じている状況がうかがえる。本来は多くの職人が誇りを持って仕事をしてきたが、評判の良くない業者が出ているのは残念。協議会では工事内容や工費、工期に関しても発注者が安心できるよう、適正かどうか互いにチェックできる機能を備えていきたい」
 ー高齢化によるユニバーサルデザイン、太陽光発電などによる省エネといった広がる需要への対応は。
「技術革新を諦めてしまっている業者もいるが、水道工事業から総合リフォームに脱皮した成功例もある。消費者の求めるものは多様化している。新技術の
勉強会や製造メーカーの工場見学などを行い、高め合いたい」
《静新平成24年10月30日(火)キーパーソン》
  

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2012年10月29日

沼津市長に栗原氏再選

平成24年10月29日(月)静岡新聞朝刊
沼津市長選開票結果
栗原裕康 35,622票=当
中山康之 24,320票
投票率=36.21%(過去3番目の低さ)
  

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2012年10月27日

肥田英臣さん(ひだえいしん)

清梵寺でお地蔵さんとのふれあいコンサートを開いた
 肥田英臣さん(ひだえいしん)

 「原のお地蔵さん」として親しまれている沼津市の清梵寺の住職。自らも専修大グリークラブOBでつくる「フェニックスグリークラブ」の一員として出演し、美声を響かせた。71歳。
 ーコンサートの反応は。
 「今年で6回目。毎年、たくさんの人が楽しみにして来てくれる。来場者と一緒に歌って和やかな雰囲気になった。コンサートは『先輩の寺で開いたらおもしろいのでは』という大学の後輩の提案から始まった。出演のため、わざわざ福岡や名古屋からも駆け付けてくれた人もいた」
 ー女性の檀家(だんか)の合唱団も登場したが。
「メンバー17人は、みんな歌うことが大好き。月2回、ここの寺で練習している。初心者や檀家以外の人も大歓迎。特に若い人に参加してもらえたらうれしい」
 ー合唱の魅力は。
 「ハーモニーが合った時の一体感は何度味わってもいい。還暦を過ぎたメンバーも多く、熟年男性でなければ醸し出せない音がある」
 ◇
学生の時に立ち上げた専修大グリークラブは来年、設立50年を迎える。
《静新平成24年10月27日(土)この人》
  

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2012年10月19日

「市長選立候補予定者に聴く」中山康之氏

「市長選立候補予定者に聴く」
④ 中山康之氏

 「九四五年八月、本郷町生まれ。六十七歳。四小四年の時、父親の転動で盛岡市に移り、翌年、東京に転居し中央大学経済学部を卒業後、日本通運に入社。鹿島港支店長、東北支店部長、郡山支店長などを歴任した後、グループの日通商事の監査役や常務取締役などを務め、現在は日通参与。
 沼津市第四次総合計画審議委員に応募し、同計画の策定に携わった。
 四年前、東京から生まれ故郷の沼津に戻り、なんとか沼津を活気ある以前のようなまちにしなければ、と市内をくまなく見て歩き「昨年八月に「プリセットー故郷沼津、再生へのメッセージ』、今年四月には二冊目となる『まちの行方ー沼津市民の「選択」と「覚悟」』を自費出版した。
 政党の推薦も支持もない完全無所属だが、沼津駅付近鉄道高架事業の見直しを求める六市民団体の支援を受ける。
 出馬の動機については「帰郷後、栗原市政を見てきたが、『沼津市をどうしたいのかが分からない。これまでの実績は何も見当たらない』との印象が強い。さらに、今後の四年間を任せるとなると、沼津市の衰退に歯止めがかからないのではと危惧し、私が考える『豊かな自然の恵みを生かしたまちづくり』を実現させるべく出馬を決意した」。
 また、「このまちには一新しいリーダーが必要で、そのリーダーは沼津の現状を踏まえ、将来のまちづくりに確たるビジョンを描き、かつ決断力がある人。今回の市長選は、その点を市民がどのように判断するか、市民の一票が沼津の将来を決める。投票に行かず不平ばかり言っていても何も変わらない」と話す。
 沼津の現状について、「沼津の衰退の一因は、既得権益組織、血縁・地縁などのしがらみに縛られ、市民を置き去りにしてきた市政にあるのではないか。また有権者は『誰に投票しても変わらない』とあきらめ、最近の選挙では、市民の二人に一人が棄権している。また主体性のない投票行動も影響しているのではないだろうか」としたうえで、「沼津は生まれ故郷だが、父親の勤務の関係で離れていたので、なんのしがらみもない。市政運営の妨げになる『しがらみ』にとらわれることなく、客観的な視点で市政に取り組めるメリットが、私にはある」とアピール。
 「既に千四百億円近い借金を抱え、人口が二十万人を切って今後一層の少子高齢化が予想されるのに、未だに鉄道高架にこだわることが、沼津市の衰退をさらに加速させることに行政が気付かないはずはない。国内外の社会・経済情勢の変化、特に東日本大震災後の我が国の状況を考えれば鉄道高架は当然見直さなければならない」
 続けて、「たとえ貨物駅用地を取得できたとしても、鉄道高架が完成するのは早くても、それから十五年先。そんなに待てるのか。大多数の市民も本音では鉄道高架は必要ないと思っているのではないだろうか。市長も六月議会で『(鉄道高架から)県が撤収、撤退となれば市単独ではできない』との考えを見せた。直近二代の市長を見る限り、どちらも沼津を建て直すことはできなかった。私が市長に当選したなら、企業人として流通・実業界で総務担当として長年培ってきた知識と経験を市政運営に生かすことができると思う。まずは鉄道高架を見直し、スピード感をもって中心市街地の活性化に欠かせない恒久的な沼津駅南北自由通路の建設に取り組みたい」との決意を見せる。
 また、「市役所の改革と市の各種委員会の見直しを手掛けたい。市職員には『市民サービスが第一』と肝に銘じた意識改革と、自分達の仕事に自信と誇りを持って職務遂行するよう求め、効率的な市政運営を共に目指していきたい」との考えでいる。
 沼津のこれからを考え、政策の幾つかを挙げる。
①「自然、歴史、文化を生かしたまちづくり」として、自然景観を生かした観光の推進、市街地の緑化と歩行者空間の拡充によるやすらぎづくりなど。
 ②「豊かな生活をもたらす活動的なまちづくり」を目指し、ファルマバレープロジェクトによる医療・情報産業研究機関の誘致、中心市街地の再整備による産業振興と雇用機会の創出など。
 ③「誰もが安心して生活できるまちづくり」では、脱原発、自然エネルギーの地産地消の推進、子育て支援と教育環境の充実、十八歳までの医療費完全無料化など。
 ④「健全な行財政運営ができるまちづくり」では、財政運営の健全化による次世代負担の軽減、鉄道高架ほか各種事業の見直しによる負担軽減で、市民生活・福祉優先の市政実現など。
 ⑤「市民と共に伸ばす協働のまちづくり」では、市民目線での市政運営と分かりやすい情報の公開、市民の意見が市施策に反映できる仕組みづくりなどを推進していきたい、
 四年間の栗原市政に対しては、「印象に残ったのは、国費と市費、合計十億円余を投じたにもかかわらず、機種選定や発注などに関して不透明な市立小中学校への太陽光発電施設設置事業。国内実績ゼロの米国ソリンドラ社製パネルを導入したが、発電能力は国産機種に比べて半分しかないことが判明した。また、新東名高速道路の静岡県内供用によって駿河湾沼津サービスエリアの利用者が予想以上に多く、栗原市長は喜んでいるようだが、なぜ静岡や浜松のようにインターチェンジを設け、周辺の新たなまちづくりを考えなかったのか。まちづくりに先見性が欠けていたことを物語る一例で、今後の市政運営における反省点と言えるだろう」と厳しく見る。
 一方で、「沼津には六二㌔の海岸線があり、しかも人口の多くが沿岸部に住んでいる。その人たちの不安を払拭するためにも津波避難施設建設は喫緊の課題。風致地区などでは建物の高さ制限があるが、市民の生命や財産を守るためには法律を変えてもらい、建設を急がなければならない」と語る。
 中山氏の祖父は沼津駅北の伏見家から中山家に養子に入った。沼津機関区に籍を置き、初の超特急「つばめ」の初代機関士を務め、「お召し列車」の運転も経験。中山氏の父親も祖父の後を継いで国鉄に入り、渋谷や新橋の駅長などを務めた。沼津を離れたのは、そのため。
 家族は妻と長男。慶応大学大学院を修了した長男は独立し、現在、日本学術振興会の研究職に就いている。中山氏の趣味は歴史関連を中心とする読書のほか、年間二十本から三十本は見るという映画鑑賞、妻との美術館巡り。
 また、東北地方に十年程勤めたことから日本酒を好んで飲んだが、今ではビールと焼酎。盛岡に移ってから始めたスキーは五十歳頃まで楽しみ、麻雀と将棋も好きで、社会人になってから始めたゴルフは年数回と少なくなった。
 市長選への出馬を決めて市内を回り、市民の意識が気になったという中山氏。「八月十三日の出馬宣言後、あいさつ回りしても市長選が十月にあることすら市民に浸透していなかったが、ようやくここに来て市民の意識も上向き、選挙ムードになってきだ。市民に市政への関心を持ってもらわなければ沼津は変わらない。『このままではいけない。市長を代えて沼津市を変えて』との声が日増しに多くなってきた。ぜひご十八日には投票所へ出かけ、市民の権利を行使してもらいたい」と訴えている。
《沼朝平成24年10月19日(金)号》
  

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2012年10月18日

「市長選立候補予定者に聴く」落合秀郷氏

「市長選立候補予定者に聴く」
③ 落合秀郷氏


 一九六五年十一月、平町生まれ。現住所は根古屋一七三の二。四十六歳。五小五年生の時に三島市に転居。向山小、中郷中、日大三島高を卒業し、東京スクールオブビジネス.マスコミ広報科に進学。社会人となってからは、マスコミ関連会社、建設会社、アパレル関連会社を経て、店舗プロデュース業に転じた。
 現在は、障害者福祉施設「あしたか太陽の丘あまぎ学園」で支援員として知的障害者の生活自立支援の仕事に携わっている。
 「人に奉仕するという点で、支援員も政治家も同じ」と語る落合氏は、市政挑戦を意識した理由の一つとして、東京で行われている反原発デモに参加したことを挙げる。
 東日本大震災以前から原子力問題に関心を寄せており、市長就任が実現した際には、原子力発電所に反対の姿勢を持つ全国の首長達と積極的に連帯していきたい、という。
 また、「放射能をばらまく瓦れきの受け入れはしない。瓦れきではな、く、人を受け入れよう」と主張。被災地瓦れきの沼津受け入れについては絶対反対の姿勢を示すとともに、被災者支援の強化を掲げている。
 落合氏は、こうした主張を「愛に基づいた政治」と呼び、その一環として沼津駅付近鉄道高架事業を中止し、代わりに市民生活充実を重点としたまちづくりへの移行を訴える。
 具体的には、育児相談員付きの託児所の設置や、孤独死防止のためのパトロール体制の構築、教育現場での「いじめ」根絶のための対策要員充実、生活弱者の自立支援モデルタウンの設置、などを掲げている。
 また、沼津の活性化については、文化と芸術によるまちおこしを提案。音楽イベントを商店街などで定期開催することや、新入生の受け入れを停止した西野の東海大開発工学部跡への芸術系大学誘致を挙げる。・
 「芸術系大学が出来れば、若くて新しい才能が全国から沼津にやってくる。これだけでも沼津に与える影響は大きい」との考えだ。
 このほか、経済政策の目玉として「麻産業の導入、推進」を掲げる。
 紙の材料などとして麻繊維の商品化は有望であり、数十兆円の経済効果になると期待を寄せており、市有地での栽培など、全国に先駆けて沼津で麻産業を推進していくことの重要性を独特の視点から強く主張している。将来的には医療分野での麻の活用も視野に入れているという。
 さらに、かつて神戸市で暮らしていた折に阪神淡路大震災を経験していることから、防災問題について、普段は駐車場など他用途に用いながら、いざという時に避難所に転用できるスペースを市内に多く用意するよう提唱している。
 市長選については、こうした内容の公約十三力条を掲げている。
 ①愛に基づいた政治運営。
 ②高架事業の中止。
 ③文化、芸術を推進することによる、まちの活性化。
 ④経済立て直しのための有識者外部団体を設立し、市役所内部組織の仕分け、見直しを図る。
 ⑤市長給与の半減。
 ⑥十兆~三十兆円の経済効果が期待できる市有地等を利用した麻産業の導入、推進による経済・医療・文化の活性化および雇用の創出。
 ⑦市民の意見を取り入れる市政運営。
 ⑧育児相談員付きの託児所や公園の設置。
 ⑨沼津駅から港へつなぐ自然遊歩道の整備。
 ⑩孤独死を防ぐためのパトロールの推進。
 ⑪子ども達のいじめ問題根絶と保護者の安心確立。
⑫生活者(障害者、母子家庭、老人、二ート等)が自立して一生をおくれる実験的な地域・特区の整備。
 ⑬放射能をばらまく瓦れき受け入れはしない。
 市長選への出馬表明以降、周囲から様々な反応があったという。
 三島市に住む両親は、初めは非常に驚いていたが、公約十三力条を見て理解を示してくれたという。
 また、落合氏は高校時代からバンド活動をしており、現在も二つのバンドでベースボーカルを務めている。こうした音楽活動を通して知り合った知人達からは、驚きの声とともに「市長選に興味を持った」という声も寄せられている。
 選挙へ向けた今後の活動としては、一般的な街頭宣伝ではなく、街頭での音楽活動を通して若い世代に支持を呼びかけていく方針。
 「幸せな人は、皆笑っている。沼津を笑いのあるまちにしたい。沼津は特に田舎でもなく、都会でもない。これは欠点ではなく一つの魅力。様々な実験的取り組みをしていくには適していると思う。沼津で新たなことを始め、そこから全国に普及していくようなまちづくりを進めたい」と語る。
《沼朝平成24年10月18日(木)号》
  

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2012年10月17日

「市長選立候補予定者に聴く」石原義裕氏

「市長選立候補予定者に聴く」
② 石原義裕氏

 昭和三十一年、旧戸田村生まれ。五十六歳。現住所は中沢田三一九。
 韮山高から明治大学文学部に進み、英米文学を専攻した。卒業後に帰郷。司法書士を目指して沼津市内の司法書士事務所に勤めながら試験勉強を続けたが、本格的な勉強のために六十三年に退所。東京に転居し、働きながら勉強して平成二年に合格した。
 翌三年に東京都で司法書士事務所を開業する一方、法律関係を学ぶ学生らを対象に法律学講座を無料で開講し、講師を招くとともに、自身も講師を務めて後進の育成に尽力した。
 政治にも関心を持ち、国会議員の選挙活動の手伝いも行ったが、日本の将来について考える中で、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が戦後の日本に対して、大衆の関心を政治から逸らす「愚民化政策」を行った影響が現在も続くことを主張。「なんでもアメリカの言いなりで、これで独立国と言えるのか」と奮起。「享楽と金だけを追求し、社会的マナーや道徳心も廃(すた)れつつあり、日本人は美徳を失っている」と、啓発活動に力を入れた。
 東京都で十年間、過ごした後、浜松市に事務所を移転。多くの外国人出稼ぎ労働者らと知り合い、親交を深めた。仕事にあぶれた外国人を事務所で雇い、司法書士の仕事では暴力団組織が絡む案件も引き受けて法的な手続きで解決するなど、「相手が誰であろうと、言いたいことを言う覚悟を決めている」と、信条に基づき行動してきた。
 その後、沼津市に移転して十年がたつ。自宅は事務所を兼ねる。同居していた母を今年一月に亡くし、現在は一人で暮らす。
 選挙への出馬は長年考えていたが、母親の同意を得られず、「信念を通すと言っても、親に止められれば聞かざるをえない」と断念してきたが、母の死をきっかけに、「やりたいことをやって死にたい。自分が行動を起こすことで市政に一石を投じたい」と出馬を決意した。
 「人にやさしい政治に尽きる」として、公務員の意識改革を第一に掲げる。
 自転車で走るには危険なデコボコの道路があり、中心市街地の美観が損なわれている光景などを目にし、市役所の関係課を訪ねては改善を求めてきたが、「何度言っても改善されない。説明すれば納得はするが、行動に移さない。すぐやる課を設けて住民の声を聴き、すぐ行動に移すよう市長に提案したが、返事ももらえなかった」という。
 「大型公共事業をやる前に、人の命に関わるような危険な道路の整備を優先すべき。中心市街地の美観も保てないようでは活性化は無理で、中心市街地の景観に水を有効に取り入れた三島市に習うべき。公務員が公僕である意識を持たず、就業時間内だけいて高額の給料と賞与をもらい、市民の声には耳も貸さない。『君達は貴族か』と言いたい」と憤る。
 具体的な改革案として挙げるのは、「市長および議員も含め市職員の人件費三〇%削減」で、「景気の低迷で企業ではリストラや賞与なし、賃金カットは当たり前だが、公務員は守られているため仕事への意識が低い。市職員に冷や水を浴びせ、民間と同じ痛みを分かち合ってもらう」と話す。
 「非正規職員も含めて三〇%人件費をカットした場合、一般会計と特別会計、企業会計を含めて五十九億六千万円の削減になる。当然、若い世代や非正規職員の削減率は抑え、所得の多い職員が中心になるが、反対するなら人員削減との二者択「を迫る。ただ、カットするだけでなく、民間と同様に能力や意識の高い職員の給料は増やし、意識の低い職員は据え置く再配分を行い、余った分はインフラ整備などで有効に活用する」 「人にやさしい市政のためには財政の立て直しが必要だが、それ以前に職員の意識改革をしなければ、財政を工夫して持ち直したとしても、市民に良質なサービスは提供できない」と強調する。
 また、今後の日本を担う二十代とバブル経済の恩恵を受けた四十代以上で「世代間ギャップが大き過ぎる」ことを指摘。
「将来に希望が持てないバブル崩壊後の世代に『希望の光』を与えなければ、高齢化と人口減が進む沼津の将来は暗い。二十代に集中的に予算をつぎ込み、やる気のある人間には、それなりの設備を用意し、就労支援などの投資をする。十代の教育にも特出したものがなければ、若年層は長泉町をはじめ周辺市町に逃げるばかり」
 一方で、「日本人よりも、もっと苦しいのは在住外国人。参政権はないが同じ市民である在住外国人にスポットを当てたい。日本人と外国人が地域で日常的に文化交流を行い、互いの語学教育の場にもなるような塾を地区センターなどで開き、自分の身を守るために必要な法的な知識やゴミの出し方なども教え、トラブルを防ぎたい」考えで、「市立病院にはポルトガル語、スペイン語、英語が話せるスタッフを配置し、外国人が安心して医療を受けられるようにしたい」という。
 鉄道高架事業については、「詳しい内容は正確な資料がないため分からない」としながらも、「一般論として、事業効果があり、財政に余裕があるならば、高架の下を自由に行き来できるようにした方が良いに決まっている。市民のためになるのであれば知事は土地を収用すればいいのに、なぜしないのか」と疑問視。
 実感としては、「市民が鉄道高架の賛成、反対に関心が高いとは思えない。今さら造っても遅い、どうせ造れないんじゃないかと思っている人の方が多いのではないか。司法書士の仕事で土地の登記手続きをよくするが、日本人は土地に執着し、しがみつく部分がある。関心が高いのは土地に関する当事者だけ。土地には公共性があり、民法第一条第一項に『私権ハ公共ノ福祉二遵フ』とある通り、その利用は本来、限定的なものである。土地収用法が存在している以上、収用できると考える」と主張。
 沼津の現状について、「沼津は、目的地ではなく、ただ単に通過するだけの都市になり下がった。沼津港の集客に頼り、観光地として大々的に宣伝する一方で、市は何もしていない。沼津港で観光客が接触事故を起こしたのを見て、休日だけでも警備員を配置するよう市に提案したが受け入れられなかった。沼津港を観光の拠点と考えるなら、それなりの予算を付け、駐車場を広げ、観光客がより楽しめるようにするべき。今の沼津市は仕事をしているつもりになっているだけ」だと断じた。
 「市長になったら市役所一階にオープンスペースの市長室を設け、誰でも気軽に会えるようにして、現場の声を直接吸い上げる」という。
 故郷の戸田地区については「昭和四十年に北マリアナ諸島で静岡県竿釣漁船七隻が台風で沈没する集団遭難事故が発生し、戸田の漁師を含む二百九人の乗組員が犠牲になる大惨事があり、同級生の父親も大勢死んだ。戸田住民にとっては忘れられない悲しい出来事。今では遺族だけで慰霊祭を行うが、遺族だけの問題ではない。この事故にスポットを当て、人集めにもつなげたい」と話す。
《沼朝平成24年10月17日(水)号》
  

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2012年10月16日

「市長選立候補予定者に聴く」栗原裕康氏

「市長選立候補予定者に聴く」
 今後四年間の市政の舵取り役を選ぶ市長選挙は、二十一日告示、二十八日投開票で行われる。今回選挙には現職と新人三人の合わせて四人が立候補を表明。前回選挙と同じ立候補予定者数となっているが、どのような考えで立候補を決意し、市政には、どのように臨もうというのか、四人に聴いた。四回にわたり、現職、新人(五十音順)の順に掲載する。

①  栗原裕康氏

 昭和二十三年十二月、静岡市生まれ。六十三歳。一中、東高、慶應義塾大学経済学部を卒業。三光汽船勤務後、防衛庁長官、労働大臣などを務めた父、祐幸氏の秘書を経て平成三年、沼津市選挙区から県議選に出馬し当選した。
 平成五年の衆院選(中選挙区)で祐幸氏引退の後を受けて出馬し当選。小選挙区に変更後の選挙区選挙での当選は果たせなかったが比例で当選。十二年まで代議士を務め、この間、防衛政務次官(当時)に就いた。
 平成十二年から十五年まで日本大学国際関係学部非常勤講師、十六年から二十年まで新仲見世通りでマグロ丼店経営および社会福祉法人育清会特別養護老人ホーム柿田川ホーム理事長。
 平成二十年十月の市長選に出馬して当選。現在一期。
 今回選挙へは市議会二月定例会本会議で質問に答えて二期目への挑戦を表明。動機については「一期四年やらせていただき、これでいいという気持ちではない。まだまだやることがいっぱいある」と語る。
 その四年間を振り返り、「一番最初に取り組んだのがイーラde。経営改善は、まあ、できたと思う。随分良くなった。それから行政改革で事業仕分けを三回やった。これは永遠の課題だから、これでおしまいということはないが、随分進んだと思う。環境政策もいろいろと進行中だ。あとは継続の案件がいっぱいある。医療費の公費負担について通院と入院は中学三年、入院は高校までやった」。
 栗原市政の目玉の一つとして始めた環境を大切にするまちづくりについては、「まず、沼津の森づくりを始めた。今年、三回目をやった。市民組織の『沼津の森づくり実行委員会』も出来た。まだまだ市民の皆さんの認知度は低いが、宮脇昭先生(横浜国大名誉教授)の指導で続けている。(同様の取り組みで)三回続けてやっているところはないようで、ある程度は進んでいると思う。ほかにエコドライブコンテストとか、エコ活動コンテストというのをやっている。また、『ぬまづの宝一〇〇選』で市民に沼津の良さを認識してほしい」。
 これは二期目への挑戦でも掲げるテーマで、「行政改革と環境は一期四年で簡単に変われるものではない」と改めて決意を見せる。
 職員の意識改革も就任以来言い続けているもので、「市の職員には、俗に言う『お役所仕事』というところがある。縦割り行政が指摘されるが、隣の課がやっていることはあまり気にならない。それから前例踏襲。『前例がない、予算がない』と言って断る。それから身内に甘い。情報をあまり出したがらない。というようなところがある。これは沼津市役所に限らず、どの役所も共通している。県庁だってそうだし、国もそうだ。そこに少しでも風穴を開けていかなければいけないというのは私のモットーで、そのためには何をしたらいいのかというのは、少なくとも職場の雰囲気が、言いたいことを言って大いに議論できるものでなければ。よく私は『風通しの良い職場づくり』と言うが、自分も含めて自由にものを言って、互いに議論を尽くしてより良いものを目指していくという雰囲気が出来てくれば方向性としては悪い方向にいかない。今までは、どちらかと言うと上の言うことは黙って聞く、言われたことだけやればいいという雰囲気があったのかも知れない。その点は少し改善されているのではないか。以前の時代との比較はできないが、人からは、職員が生き生きとしてきた、というような話も時々聞くので、いいのかな、と思っているが、もっともっと(風通しよく)していかなければいけないなと考えている」。
 最近特に、「魔法の杖はない。いろいろなことをやる」ということを口にする。その真意について、「『沼津自慢フェスタ』は今年で三年目だったが、去年までの二回はどちらかと言うと役所主導だった。(今回は)まちなかで一生懸命やっている若い人達に実行委員会を作ってもらい、彼らの人脈で企画運営が行われた。結果として大成功だった。それが、これからの、そのいろいろなことをやっていくということの大きなヒントなのだろう。もっと露骨に言うと、栗原が市長でいる限りは若い人達や、よそから来た人達、突飛なことを考える人達が、いろんなまちおこしのアイデアを持ってくると、栗原が市長でいる限りは、もしかしたら、それが実現できるかも知れないと、自分達が考えていることが(実現する、あるいは)自分達に任せてくれる、そういう雰囲気が出てくれば非常にありがたい」。
 「つまり、役所が何でもかんでもやるというのではない。もう民間で、いろいろな意見を持っている方はいっぱいいる。そういう人達のアイデアを生かしていくということ。もちろん最終的な責任は私にある。けれども、沼津市役所は今まで個々で言いに行っても、前例がないとか、予算がないとか、と断ってきたものが、本当にいいものだったなら実現するかも知れない、そういう雰囲気が、まちなかに出てくれば、特にまちおこしをしようとしている人達に出てくれば、ものすごい起爆剤になるのではないか」
 いろいろなことをやるためのハード面も考えているのかについては、「新しい公共投資はもうできない。今、継続(的事業)だけで手いっぱい。これで鉄道高架が本格的に動き出すことを考えたら、地区センター(建設)だけは早く終わらせたい。それから防災も。これは行わなければいけない。あとは、いかにお金を節約し、金は出さないけれど皆でアイデアを出していくということしかない」。
 沼津では二代、十八年間にわたって官僚出身者が市長を務めたが、今回の選挙では逆に、民間での経験を掲げて出馬表明した人もいる。それに対して栗原氏の代議土経験が市政に反映された部分については、「国政をやってきたというのは、ある意味では大局的に、沼津市だけに絞った考え方ではなくて、(周辺自治体を含めた)この地域全体、国全体の動きがどうだから沼津はこうだ、ということは割と見やすい」という。
 そのうえで、「子育ては長泉」「清水町の方が税金が安い」などと言われる点について、「『沼津は住みにくい』『津波が来る」』『税金が高い』などということも言われるが、一つ一つ検証してみると、そんなことはない。この地域全体として、人口が減らなければいいのではないかと思う。そのことは、いつか分かってもらえるのではないか。例えば子どもが幼稚園、小学校低学年までは長泉で、中学校ぐらいになってくると、やはり沼津で、と沼津に来る人がいるかも知れないし、現に今もいる。そういう意味では、あまり一喜一憂しない方がいい。これは企業もそう。有名企業が市内から出ていくと大騒ぎするが、沼津市役所も(職員が)随分、市外から通ってきている。この地域全体がおかしくなってしまうようなことがあれば大問題だが、沼津だけで、なんでも抱えるという考え方は間違っているのではないか」という考え方を示した。
《沼朝平成24年10月16日(火)号》
  

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2012年10月14日

栗原裕康氏

10月28日沼津市長選に立候補予定の栗原裕康氏

  

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2012年10月09日

山中伸弥氏にノーベル医学・生理学賞

w山中伸弥氏にノーベル医学・生理学賞
2012.10.8 20:30 (SMS産経ニュース)

 ノーベル医学生理学賞に決まり、記者会見のため京都大に到着した山中伸弥教授=8日午後7時26分、京都市左京区
 スウェーデンのカロリンスカ研究所は8日、2012年のノーベル医学・生理学賞を、あらゆる細胞に分化する能力があるiPS細胞(人工多能性幹細胞)を開発した京都大の山中伸弥教授(50)ら2氏に授与すると発表した。患者自身の細胞を移植して病気やけがを治療する再生医療への道を開いた功績が評価された。
 日本人のノーベル賞受賞は2年ぶりで、米国籍の南部陽一郎氏を含め計19人。医学・生理学賞は1987年の利根川進氏以来、2人目の快挙となった。
 iPS細胞は、あらゆる細胞に分化する能力を持つ万能細胞の一種。これを基に神経や肝臓、心臓などの細胞を作製し、病気や事故で機能を失った患者の臓器などに移植することで、難治疾患を治療する再生医療の実現が期待されている。
 研究はまだ安全性評価の段階で、実際に患者に使われたケースはない。医療分野のノーベル賞は広く実用化した段階で授与されるのが通例で、極めて異例のスピード受賞となった。
 万能細胞は1990年代以降、米国を中心にES細胞(胚性幹細胞)の研究が進んだ。しかしES細胞は「生命の萌芽(ほうが)」である受精卵を壊して作るため、倫理的な課題が壁になった。
 これに対してiPS細胞は皮膚から作製するため、倫理的な問題を回避できるほか、患者自身の皮膚から作れば拒絶反応も起きない利点があり、再生医療実現の「本命」として世界的に開発競争が激化している。
 山中教授は平成18年、マウスの皮膚細胞に4つの遺伝子を導入することで世界で初めてiPS細胞の作製に成功。19年には同じ手法でヒトの皮膚から作製することにも成功し、世界の第一人者として研究開発をリードしている。
 臨床応用が実現すれば、脊髄損傷やパーキンソン病、網膜疾患などの難病治療に道が開ける。また、作製した患者の細胞を研究試料として使うことで、病気のメカニズム解明や医薬品の開発など幅広い応用が期待されている。
 共同受賞者は英ケンブリッジ大のジョン・ガードン博士(79)。授賞式は12月10日にストックホルムで行われ、賞金計800万スウェーデンクローナ(約9500万円)が贈られる。



  

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2012年10月02日

露木義光さん(つゆきよしみつ)(沼津市)

JPA公募展で文科大臣賞を受賞した
 露木義光さん(つゆきよしみつ)(沼津市)

 JPA公募展は国内トップレベルの写真コンクール。ベトナムの農村で撮影した「出会った少女」で受賞した。写真歴は約10年。函南町出身。64歳。
 ー受賞の感想は。
 「落選のたびに入賞作品を研究してきた。思い入れのあるコンクールでの大臣賞はとてもうれしい」
 ー写真撮影を始めたきっかけは。
 「50代で病気をし、医者に屋外でできる趣味を勧められた。健康づくりで始めたカメラで、新しい世界に出合った。いまでは年に数回、撮影で海外に繰り出す。地元にいる時は車で1時間以内のエリアがホームグラウンド。スナップ写真がメーンで、最近は自然を撮ることにも挑戦している」
 ー良い写真を撮るこつは。
 「笑顔と被写体とのコミュニケーションを大切にしている。話をするだけで撮らない時もある。シャッターを切るのは心の距離が縮まってから。レンズを向けると顔の表情が生き生きとしてくる。その瞬間を捉える」
 ◇
二科会やJPS展などの多くの写真展で入賞経験がある。
《静新平成24年10月2日(火)「この人」》
  

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2012年10月02日

石原義裕氏

市長選へ4人目の出馬表明
 司法書士の石原義裕氏

 十月二十八日投開票で実施される市長選に一日、司法書士の石原義裕氏(56)が名乗りを上げた。
 石原氏は昭和三十一年、旧戸田村生まれ。韮山高から明治大学文学部を卒業後、働きながら司法書士試験の勉強を続け、平成二年に合格。翌三年に東京都で司法書士事務所を開業し、浜松市を経て沼津市に転居して十年。現住所は中沢田三一九。
 立候補の動機は「人にやさしい政治に尽きる」と、市職員の意識改革を目指し、鉄道高架事業は「財政的余力があり、効果が認められるならやるべき」と主張する。
《沼朝平成24年10月2日(火)号》
  

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