2013年04月29日

川口義一(かわぐちよしかず)さん65歳

瑞宝単光章(消防功労)
川口義一(かわぐちよしかず)さん65歳
(元沼津市消防団分団長、沼津市)

 培った絆人生の財産
 20歳で消防団に入ってから、地域の人との顔の見える付き合いを大切にしてきました。駿東地域や県の指導員も務め、人脈を広げることができました。火災や風水害などの現場で活動した日々も大切な思い出ですが、消防団生活40年間で培った多くの絆は人生の財産。団員の確保が大変な時代ですが、若者たちに消防団の魅力を伝えていきたいです。
《静新平成25年4月29日(月)朝刊》
  

Posted by パイプ親父 at 04:46Comments(0)受賞

2013年04月29日

浅沼直明(あさぬまなおあき)さん73歳

瑞宝単光章 (社会福祉功労)
 浅沼直明(あさぬまなおあき)さん73歳
(民生・児童委員、沼津市)

 後輩に体験談伝える
 沼津市開北地区の民生・児童委員として高齢者宅などを訪問するようになって36年目。長い間続けてこられたのは、先輩方や地域の方々、同僚、そして家族の支えがあったから。福祉の制度も大幅に進歩しました。11月いっぱいで退任します。残りの任期の間に、後輩の委員たちが活動で悩むことがないよう、自分の体験談を伝えていくつもりです。
《静新平成25年4月29日(月)朝刊》
  

Posted by パイプ親父 at 04:33Comments(0)受賞

2013年04月23日

市社協新会長に佐野謹爾氏

市社協新会長に佐野謹爾氏
 組織活性化に力入れたい

 市社会福祉協議会は、会長を五年間務め任期を一年残して今年三月に退任した日高達也前会長の後を受け、市社協副会長だった佐野謹爾氏が就任。空席となった副会長には理事の一人で赤十字奉仕団の後藤栄子委員長が就任した。
 佐野会長は西浦久連に住み、八十六歳。商人を志して大阪府立の旧制商業へ進学したが中退し、海軍甲種飛行予科練習生に志願。特攻隊員として実戦部隊に配属されたが終戦で帰郷し、農協の前身、農業会に勤め、引き続き農協に勤務して平成二年に専務理事に就任。六十八歳で退職した。
 退職後は老人クラブ役員として活躍し、西浦地区老人クラブ会長を六年務め、市老人クラブ連合会の会長に就任して今年で七年目。
 佐野会長は「高齢社会が進み、現在、社会情勢や福祉を取り巻く環境に厳しいものがある中で引き受け、身が引き締まる思いがする」と話す。
 会長を兼任する市老連も市社協の構成団体の一つで、「比較的若い世代の高齢者は価値観が変わり、老人クラブ加入者も減って人と人とのつながりが希薄になってきている」と指摘しながら、「豊かな地域社会の実現を目指してボランティア団体や自治会、市老連など各種団体との結び付き、絆や連帯を深め、助け合いながら組織の活性化に力を入れたい」と決意。
 他市の社会福祉協議会で使い込みなどの不祥事が発生したことを取り上げながら、「皆さんから預かった貴重な寄付金に頼っているので、絶対に不祥事が起きないよう、これまでと同様、明朗会計を徹底したい」と話す。
 「毎日が勉強。人前で話すのは、どちらかと言えば苦手だが、職員に支えられながら期待に応えられるように頑張りたい」と抱負を述べる。
 現在、妻と二人暮らし。飼い犬は栗原裕康市長の飼い犬と兄弟で、犬同士の交流もある。
 車の運転はせず、どこ・へ行くにも徒歩やバス。「よく歩いているので健康でいられる。歩くことの大切さも訴えていきたい」という。
《沼朝平成25年4月23日(火)号》
  

Posted by パイプ親父 at 05:28Comments(0)人物紹介

2013年04月21日

四方一瀰氏に博士号

四方一瀰氏に博士号
 中等教育成立状況の研究が評価

 元国士舘大教授で沼津市史編さん委員も務めた教育文化史家の四方一瀰氏が三月、社会科学の博士号をお茶の水女子大から授与された。
 二〇〇四年刊行の著書「『中学校教則大綱』の基礎的研究」で、我が国の中等教育の成立状況を明らかにした業績が高く評価された。
 博士号の取得について四方氏は「夏目漱石だって博士号は辞退してもらっていない。『それなのに私が…』という思いもあったが、(教育史研究者など)多くの人の勧めがあった」と話す。
 著書で扱った「中学校教則大綱」とは、中学校の授業科目や就業年数などを規定したもので、明治十四年(一八八一年)に定められた。
 江戸時代には教育機関として寺子屋や藩校があったが、互いに無関係に存在していた。明治になると、初等教育(小学校)、中等教育(中学校)、高等教育(大学)というヨーロッパ式の三層式学校制度が導入され、学校間の関係も定められたものの、中学校については整備が遅れた。
 中学校に教師が十分に配置されていない一方で、大学など高等教育機関では外国人教師が外国語で授業を行っていたため、高等教育機関に入学するためには、生徒が独自に外国語を学ばなくてはならないような事態も起きていた。そこで政府は中学校教則大綱を定めて中学校の充実に取り組み、これにより初めて三層式の学校制度が十分に機能するようになった。
 このように、この大綱は我が国の教育において重要な役割を果たしていたが、四方氏が研究に着手するまでは、誰もその内容まで深く立ち入ることはなかったという。そのため、四方氏は参考文献が無いような状態で史料の収集から始めることになり、全国各地の官公署などへ赴いて史料を探して研究を続けた。
 四方氏が、このように中等教育についての本格的研究を志すきっかけとなったのは、沼津東高の校史『沼中東高八十年史』の執筆に携わったことだという。
 一九三〇年に市内で生まれた四方氏は、旧制沼津中と県立沼津第一高校(いずれも現在の沼津東高)、早稲田大教育学部を経て、沼津学園高で教員を務めた後、同大院修士課程に入学した。
 その後、沼津市立高や県立高校の教員を務め、県立教育研修所で『静岡県教育史』の編さんに従事した。編さん事業終了後の七八年に国士舘大助教授となったが、この数年前より『八十年史』に関わっていた。
 こうした地方教育史の編さんや執筆活動を元にして、四方氏は『近代教育の展開と地域社会』という著書も刊行している。
 同書では、沼津兵学校から東海大海洋学部に至るまでの沼津の教育の歴史について、中等教育を中心に詳述している。
 研究活動への姿勢として、一つのことを実証的に掘り下げていくことと、全体を俯瞰して見ていくことの両立を重視する四方氏は、教育史の分野については学校施設や規則のことばかりではなく、実際の授業内容についても当時の史料を基に明らかにしていくことの重要性を提唱しており、これを「教育文化史」と呼んでいる。
 現在は、戦前の中等教育では、どのような授業が行われていたかを科目ごとに明らかにするべく、当時の教科書を収集して研究し、論文発表を行っている。
 四方氏は「すべての科目を網羅するには、あと二十何年か生き続けないと。それ以外にも、まだまだやりたいことはある」と語る。
 また、付属中高の校長も務めるなど二十数年にわたって続いた国士舘勤務時代も沼津の自宅から通勤していたという四方氏は、地元沼津に強い愛着を持っており、郷土史研究も手掛けている。
 昨年には市教委の生涯学習地域講座で金岡地区の教育文化について講演。人が住むのに適した地形だった同地区では古代以前から多くの人が住み、光長寺や大中寺等の寺院の影響などで教育を重視する風土が形成されていったことを解説した。
 このほか、自身が住む千本地区についても、「郷林」という地名を手掛かりに、千本松原が単なる景勝地ではなく、食料採取などの生活の場でもあったことを明らかにし、近代以降は地引き網などのレジャーとしての漁業を通して東京から多くの人を引き寄せたことや、結核療養地としての発展が東京から富裕層や医者などを呼び寄せ、これら知識人階級に属する人々が沼津の文化に大きな影響を与えたことなどを論証し、講演を行っている。
《沼朝平成25年4月21日(日)号》
  
タグ :教育史


Posted by パイプ親父 at 07:12Comments(0)素晴らしい

2013年04月16日

全国飲食業生活衛生同業組合長森川進氏

全国飲食業者の代表に
 森川進さん「飲食業は命を預かる仕事」

 全国飲食業生活衛生同業組合連合会の第十一代会長に「こがね」の森川進さん(75)=写真=が就任した。
 北海道から沖縄までを包括する、厚生労働省認可組合の中で「群を抜いて大きい」組織である同会だが、近年は中小の飲食業界の苦戦が続いている。沼津支部もバブルの絶頂期には千三百あった組合員が現在は五百五十と半減。長期にわたる不景気で全国的にも同様の傾向が見られる、という。
 同組合は静岡県が発祥の地。森川会長は「昭和三十六年の設立当時は、小さな店には銀行も金を貸さない時代。組合員になることで国民金融公庫(当時)の融資が受けやすかった。一人ではかなわないことを組織として応援できた」と組合の位置付けがしやすかった頃を振り返る。
 全国組織の代表となり、「予期しない就任に戸惑った」とは言うものの、森川会長には大変な時代の舵取り役を担う気負いはない。
 沼津支部長の後、県の理事長を十二年間務めた実績と温厚な人柄で全会一致での就任となった。年度替わりともなると関係行政機関担当者や議員との折衝のほか、全国を駆け巡る多忙な日々を送る。
 個店の飲食業者にとっては、大手飲食チェーンの進出に加え、「手渡しで無限に売ることができる」コンビニの台頭が最大の問題。
 「家族で頑張れば取りあえず食べていかれるわけで、家族経営ならではのきめ細かいサービスや、培ってきた個性を強烈に発揮してもらえたら」と望み、「組合はコンサルタントではない」ときっぱり。
 「経営者は組合を大いに活用してもらうことで、世間の風に当たってほしい」と呼び掛けるとともに、「何より衛生を重視し、『飲食業は命を預かる仕事』だとの誇りを持ち、共に繁栄の道を歩み、健全な組織体にしていきたい」と抱負を語った。
《沼朝平成25年4月16日(火)号》
  

Posted by パイプ親父 at 06:27Comments(0)人物紹介

2013年04月16日

三国連太郎さん死去 県内悼む声(静新記事)

伊豆、沼津を愛した名優
三国連太郎さん死去 県内悼む声


 俳優の三国連太郎さんの死去が報じられた15日、三国さんとゆかりがある伊豆や県東部の人からは、日本を代表する名優の死を惜しみ、温かい人柄をしのぶ声が相次いだ。
 三国さんは両親の出身地の松崎町で幼少期を過ごした。三国さんのいとこの故増田フミさんの娘で下田市柿崎で民宿を経営する紀恵さん(77)は、30~40年ほど前、三国さんが民宿の離れに泊まり込んで小説を書いていた秘話を語った。銀幕のスターになってからも付き合いは続き、「とても気さくな人で、仲間内でバーベキューをするのが好きだった」と振り返った。西伊豆町仁科の文具店経営須田三枝さん(88)は、他界した夫の孝太郎さんが三国さんのいとこ。「休暇に店を訪れては、自宅のようにくつろいで気さくに子どもを抱っこしてくれた」と温かい人柄を懐かしんだ。
 昨年公開された映画「わが母の記」は三国さんの遺作となった。体調が優れない中で撮影に臨み、死期迫る主人公の父親を熱演した。メガホンを執った沼津市出身の原田真人監督(63)は「自然な演技を最後まで貫いた日本を代表する俳優。一度でも作品をご一緒できて光栄だった」と名優の死を悼んだ。
 三国さんは晩年、沼津市に移り住み、市の魅力を全国に発信する「燦々(さんさん)ぬまづ大使」を務めた。三国さんに就任を依頼した元市長の斎藤衛さん(75)は「豊かな人生経験に裏打ちされた人間としての深さを感じた」と当時の印象を語った。大使就任が縁で親交を深めた元沼津商工会議所専務の三沢幸男さん(67)も「全国の撮影現場に招待していただき、一緒に沼津のPRをしてくれた」と感謝の気持ちを口にした。
 栗原裕康市長は「沼津の海と街を愛してくれたことは市民の誇り」とコメントした。
《静新平成25年4月16日(火)朝刊》

「大自在」
 伊豆ゆかりの文豪・井上靖の自伝的小説を基にした映画「わが母の記」・(2012年公開)冒頭のシーン。老いさらばえ、死を前にした父親が役所広司さん演じる主人公の手を握り、何ごとかつぶやく。ただそれだけ▼三国連太郎さんが60年以上の役者人生を演じきって、舞台を去った。「わが母の記」では、前知識がなければ、父親役が三国さんであることに気づかない。自然な振る舞い。ただ寝ている病床から、腕を弱々しく上げただけで存在感を感じさせた▼身長180㌢、がっちりとした体つき。若いころは日本人離れした二枚目ぶりを演じ、それを自ら壊していく壮年期。悪役を通し輝く。そんなイメージを大きく変えたのが映画「釣りバカ日誌」シリーズのスーさん役だった▼ハマちゃん、スーさん名コンビの人気漫画。ハマちゃん役の西田敏行さんは原作の通り。しかし三国さんは、原作のスーさんのほっそりした体型から想像もつかない起用。「一話だけという約束で引き受けたんです。でも絶妙の相手役に恵まれて」。番外編を含め22作に及忍ヒットを生んだ▼父母の生地、松崎町で幼少期髪過ごした。晩年は「母の骨をまいた駿河湾高台に移り住んだ。沼津市をPRする「燦々ぬまづ大使」も快く引き受けた▼「飾らない人柄」と近所付き合いをしていた元沼津商工会議所専務の三沢幸男さん。読書家で旺盛な好奇心の持ち主。都内のリハビリ先でも「生涯現役」と話していたという。向こうの世界ではどんな役を演じるのだろう。
 2013・4・.16
《静新平成25年4月16日(火)朝刊》
  
タグ :訃報


Posted by パイプ親父 at 06:06Comments(0)訃報

2013年04月15日

元ぬまづ燦々大使:三国連太郎氏死去

俳優・三国連太郎さん死去 「飢餓海峡」「釣りバカ」

 「飢餓海峡」「ビルマの竪琴」など深く味わいのある役作りで知られた俳優の三国連太郎(みくに・れんたろう、本名・佐藤政雄=さとう・まさお)さんが14日、死去した。90歳だった。俳優の佐藤浩市さんは息子。

 1951年、木下恵介監督の「善魔」で新聞記者の三国連太郎という役でデビュー。役名を芸名にした。二枚目として売り出されたが、まもなく強い個性を生かした性格俳優に転じ、内田吐夢監督の「飢餓海峡」では冷徹な殺人犯を演じるなど社会派映画や文芸作品、コメディーなどに幅広く出演。テレビや舞台でも活躍した。

 88年、西田敏行と共演した「釣りバカ日誌」では、釣り好きの会社社長スーさんをひょうひょうと演じ、「男はつらいよ」と並ぶ松竹の人気シリーズとなった。

 また、87年には親鸞の人生を描いた自作の長編小説「白い道」を自ら監督して映画化。カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞し、映画作家としても非凡な手腕を見せた。
(web朝日平成25年4月15日)
  

Posted by パイプ親父 at 12:56Comments(0)訃報

2013年04月04日

 佐々木憂流迦さん(ささきうるか)(沼津市)

総合格闘技「修斗」の大会で環太平洋チャンプに輝いた
 佐々木憂流迦さん(ささきうるか)(沼津市)

 格闘家として活躍しながら、県東部のジムでインストラクターとして指導している。本名は佐々木佑太。リングネームの憂流迦はサンスクリット語で「てんぐ」の意味。伊豆の国市出身。23歳。
 ー競技を始めたきっかけは。
 「小学生のころからテレビで見る格闘家の雄姿に憧れていた。特に総合格闘技は打撃も寝技も投げ技も認められていて禁止事項が少ない"何でもあり"な点が魅力。高校卒業と同時に道場に入門した」
 ー今冬の大会でフェザー級の頂点に立った。
 「チャンピオン決定戦の相手は格上選手だった。1R取られてしまったが、2R以降は相手に攻撃の隙を与えないように背後に回り、得意の寝技に持ち込んで、判定勝ちした。一つのステップを越え、達成感があった」
 ー今後の目標は。
 「夢は世界チャンピオン。格闘技が人気の米国で試合をしてみたい。体格の大きな海外の選手に負けないよう、体づくりに励む」
 ◇
寝技限定の大会でもアジアチャンピオンになった。
《静新平成25年4月4日(木)「この人」》
  

Posted by パイプ親父 at 04:47Comments(0)人物紹介