2008年06月28日

鈴木道也氏:JAなんすん新組合長

新組合長に鈴木氏:JAなんすん
 JAなんすんは二十七日の通常総代会で任期満了に伴う役員改選を行い、引き続き開いた理事会で新代表理事組合長に鈴木道也氏(六二)=写真=を選出した。任期は三年。
 庄司睦組合長(七二)は定年制の内規により退任し、非常勤理事の相談役に就任した。
 鈴木氏は昭和四十三年に旧沼津農協職員となり、JAなんすん総務部長を経て平成十二年に常務理事、同十四年から代表理事専務。
(静新平成20年6月28日(土)朝刊)
  

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2008年06月18日

石川雄一郎氏

石川建材工業社長
石川雄一郎氏(いしかわゆういちろう)(51)
 空港で物流、観光活性化
 ー東部・伊豆地域の活性化には何が必要だと思いますか。
 「『空港は東部には必要ない』という意見があるが、それは出掛ける立場の考え方。物流を見れば、いちいち成田空港などを通すのは県内企業にとってロスが多い。富士山静岡空港に東南アジアや中国、韓国などの定期便が就航すればメリットは大きい。燃料油高騰で、県内の運送会社にとっても輸送距離が短いことはメリット。課題は空港へのアクセスだ。新幹線の空港駅ができれば、ほかの空港にない強みとなるし、伊豆の観光にも大きく役立つだろう」
 ー建築業から見て地域の動向をどう見ていますか。
 「商業施設や公共の建築物がひと昔前のコンセプトで造られていて、時代に合っていないものが多い。新たに建てた場合も昔の感覚で造り、できたら時代のニーズとマッチしていなかった。沼津は二十万人の都市なのに地域の独創性がなく、魅力に乏しいと感じる」
 ーまちづくりへの考えを聞かせてください。
 「"小さな東京"を目指すようではいけない。首都圏から近く、富士山や海を毎日眺められる地域は東部・伊豆地域以外にはない。来なければ得られないものを生かした街づくりをもっと展開するべき。沼津は歩くことで景観を楽しめる街。さんさん通りや蛇松緑道を人がもっと歩けば、昔のような躍動感のある街になる。狩野川をもっとうまく使い、沼津港までの間に休憩施設を複数設けるなど、歩いてもらう工夫も必要だろう」

 【石川建材工業】昭和29年に建築材料販売の有限会社として創業。48年に株式会社化し、現社名となる。静岡県中部から神奈川県西部を中心に、マンションや商業施設、ビル、工場などの内装工事、建材販売を手掛ける。沼津市白銀町。
(静新平成20年6月18日「熱き地域人」)
  

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2008年06月14日

水口正宏氏

国立駿河療養所将来構想検討委員会長
 水口正宏氏
 ハンセン病施股地域活用と交流
 偏見解消、地元の役割
 ハンセン病問題基本法が十一日、成立した。従来、同病の療養以外の利用が制限されていた国立療養所を、地域住民も活用することが可能となる。「駿河療養所」がある御殿場市では、施設の活用法や入所者と住民の交流の在り方を探るため、今年五月に地元住民、行政、入所者らが検討委員会を設置した。
 ー療養所の近くで生まれ育った地元住民として、療養所に関する思い出を聞かせてください。
 「小学生のころ、よく療養所で入所者の方々と野球をして遊んだ。無断入構は禁止されていたが、中にグローブやスパイクがあったので喜んで通ったものだ。親や教師は不安がったし、各地から厳重に隔離されて連れられてくる患者の姿を見て恐怖はあったけれど、一緒に遊んでいるうちに友達になれた。療養所内には子供の患者のため、市立富士岡中の分校もあり、分校の患者に対しては同じ学校の仲間だという意識もあった」
 ー戦後五十年に及ぶ隔離政策に対してどのように思いますか。
 「気の毒としか言いようがない。戦後すぐに特効薬ができて、ハンセン病は治る病気になったのに、国は患者の強制的な収容と隔離を続け、国民に偏見を植え付けた。地元でも大半の教師は危険な病気だと言った。その中で、克服された病気だと冷静に見極め『不当な偏見を抱くな』と教えた優れた教師もいた。真実を見抜き主張することがいかに大切か、教訓とすべきだ」
 ー今でもハンセン病に偏見を抱く人がいます。
 「現在療養所で暮らす人々は、末端神経に障害が残るものの、すでに病原菌は完全に除去されたのだから、身体障害者という見方をすべきだ。体の機能は部分的にハンディがあるが、生活能力には全く問題がない。病気への正しい理解を広め、障害者福祉の中に組み入れる必要がある」
 ー駿河療養所ではどのような施設活用の可能性がありますか。
 「構内には運動場や医療施設があり、地域住民にとって有益なものになるかもしれない。入所者の幸せにつながるかを考えながら検討したい。ただ、この施設は郊外の山中に位置し、全国の他の療養所に比べても不便。まずは行き来の方法を考える必要がある」
 ー入所者のため、地元に何ができるでしまうか。
 「施設の近くに住んでいれば、他地域より知識があり関心も高い。病気のこと、患者のことを周囲に伝え、社会全体から偏見をなくす役割がある。高校生の宿泊ボランティア体験や、園児、児童の慰問、地元地区と入所者自治会が共催する夏祭りなど、交流の機会は増えている。一方で入所者の高齢化が進み、一緒にできることは限られてきている。検討委員会の場でみんなで考えていきたい」
(聞き手=御殿場支局・宮坂武司)
(静新平成20年6月14日「解説・主張」)
  

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2008年06月12日

込山 正秀(こみやままさひで)さん

県議会第107代副議長
込山 正秀(こみやままさひで)さん

 五月の臨時会で選出された。天野一議長を支え、地方分権時代の県議会改革に努める。平成七年に県議初当選。地震対策特別委員長、県監査委員、自民党県連総務会長などを歴任。四期目。六十歳。
 ー議会改革にどのような展望を持っていますか。
 「分権改革とは権限と財源が地方の首長に集中するということ。議会のチェック機能がますます重要になってくる。同時に、広報体制や情報公開がカギになる」
 ー空港開港を控えた県政の将来像をどう捉えていますか。
 「富士山周辺、伊豆をはじめ、豊かな観光資源は全国でも群を抜いている。県東部では山梨県のパワーを肌で感じる。負けてはいけない。県土の財産をどう生かすべきか、各地の県議も知恵を絞り、政策を提言したい」
 ー政治信条は何ですか。
「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む。人の優しさ、慈しみを大切にする政治家でありたい」

 健康法は愛犬との散歩。日々一万歩を目標にする万歩計の数値が気になる。
(静新平成20年6月12日「この人」)
  

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2008年06月10日

石井直樹下田市長

石井直樹下田市長が3期目の抱負
 初心に戻り全力「聖域なき改革」継続
 「二期連続の無投票は『石井頑張れ。石井に任せたぞ』という市民の期待の現れ。当然プレッシャーもあるが、初心に戻って全力投球したい」。課題が山積する市政に挑む決意を新たにした。
 行財政改革と観光振興を公約に掲げた二期目の自己採点は「九十点」。特に財政再建では、自らの給与約三割カットを続けながら、職員給与や補助金の削減など「聖域なき改革」を実施した。起債は市長就任時から約四十億円減少し、国に返済する公的資金の金利を下げる借り換え償還も承認された。「皆さんの協力が大きかった。三期目が集大成になる」と説明する。
 市長職に対するこだわりは強いが、「立場に固執するつもりはない」とも。三選出馬の動機は新たに公約に加えた共立湊病院の再構築と賀茂地区一市三町(下田市、河津、南伊豆、松崎町〉合併の実現という課題からだった。「『自分がやらなくては誰がやる』という責任感に駆り立てられた」と強調する。
 いずれも期限が迫る状況だけに「スピード感を持って政策を実行する」と語り、「ここぞと決めたら自分の信念に従って決断、主張していくことも大切だ」とトップのリーダーシップを重要視する。
 約一年前に急性心筋梗塞(こうそく)を患ったが「今は全く問題ない。発病以前の状態より良いくらい」ときっぱり。人生のモットーとする「仕事に勤勉、社会に奉仕」を胸に、市政にまい進する覚悟だ。
(静新平成20年6月10日(火)朝刊)
  

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2008年06月08日

高野 進氏(私の五輪物語)

高野進さん 

 【高野進さん(たかの・すすむ)富士宮市出身。47歳。陸上男子400㍍の日本記録保持者。五輪は23歳から3大会連続出場。31歳で出場したバルセロナ五輪では、日本男子短距離陣として60年ぶりとなる決勝進出を果たした。東海大体育学部准教授。日本陸連強化委員長で、北京五輪では陸上監督を務める。】

「速く走る」大イベント、実はシンプル
 自分の力確実に発揮

 ー選手として出場したロス、ソウル、バルセロナの三大会を思い出すことはありますか。
 最初のロス五輪で入場行進に参加し、オリンピックのスタジアムに初めて足を踏み入れました。自分の第一歩でもあったし、開会式は最初で最後のことだったので印象に残っています。ただ今は(北京五輪陸上監督として)勝つか負けるかという戦いの最前線にいるので、過去に浸っている余裕もないというのが正直なところですね。
 ー豊富な経験が、指導に生きているのでは。
 自分のころとは時代が違います。選手として三回、解説者やコーチとして三回。二十三歳の時から五輪にかかわってきましたが、自分が良かった時の五輪よりも近々の五輪を参考にすることの方が多いですね。いつまでも昔話をして『自分の時はこうだった』という指導はしていません。
 ー「日本人はプレッシャーに弱い」と言われる中、選手として三大会で結果を残してきました。
 受け止められるだけの適度なプレッシャーを受け止めてきただけです。「決勝に残りたい」とは言ってきましたが、「メダルを取りたい」と言ったらそれはちよっと無理な話でした。自分に過剰な期待をかけていなかったし、自分の力を確実に発揮しようと。迷いや不安は常に隣にあるものですが、やり残しがないように調整し、いかに腹を決めてスタート地点に立つか、だと思います。
 ー初めて五輪を意識したのはいつですか。
 ロス五輪の前に参加標準記録を破ってからです。「もしかしたら出場できるのかなー」と。子供のころに、スポーツ選手になろうとかオリンピック選手になろうとは考えもしなかったですね。高校時代は全国総体、学生時代はインカレを目指し、その流れの中で五輪が見えてきました。
 ー五輪で得たものはありましたか。
 世界中の政治や経済にも影響を与える大きなイベントですが、実はシンプル。文化や人種が違っても、世界のみんなが単純に「速く走る」という同じものを目指していることがスタート地点に立って分かりました。そして、それを見るために何万人という人がスタジアムに足を運んでくれる。自分一人だけの世界ではないことにも選手たちは気付くと思います。
 ー監督として臨む北京への意気込みを聞かせてください。
 責任の重さを感じます。ハッピーに終わるか分かりませんが、今は「頑張りますから見ていてください」ということだけですね。まずは(出場権が懸かる)日本選手権で、「ここで勝負する」と宣言した選手にしっかりと結果を残してもらいたい。そして、日本チームとしてどれだけエネルギーを一つにし、現地で戦えるようにしていくか。やらなければいけないことを一つずつクリアしていきたいです。(聞き手=天竜支局兼浜北支局南部明宏)
(静新平成20年6月8日「私の五輪物語」)

  

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2008年06月06日

湯本清美氏

全国バーテンダー技能競技大会で優勝した
湯本清美(ゆもときよみ)さん(三島市)
 三十五回を数え、技術、知識、姿勢を問う「国内で最も権威ある大会」で女性として初の頂点に立った。来年八月の世界大会に出場する。三島市出身。三十二歳。
 ー昨年は二位。期するものがあったのでは。
 「今年こそは、の思い。前回の結果を踏まえ、開店前にスタンダードなカクテルを中心に練習を重ねました。落ち着いて本番に臨めたと思います」
  ー創作カクテル部門の「アプローズ(喝采=かっさい)」は特に高評価でしたね。
 「さまざまな思いで店を訪れるお客さんを応援したい気持ちを込めました。日ごろの姿勢の延長線上にあります」
 ーこの道に入ったきっかけは。
 「二十四歳の時。初めて行ったバーで、カウンターの向こうの凛(りん)とした立ち居振る舞いにノックアウトされました。その店でアルバイトを始めました」

 夫の織衛さんとともに源兵衛川沿いの「BARYUMOTO」を切り盛りする。茶道もたしなみ、共通の「もてなしの心」を感じている。
(静新平成20年6月5日「この人」)







静岡の湯本さんが優勝 全国バーテンダー技能競技大会
2008年05月16日(アサヒコム・コミミ口コミ)

 バーテンダーがカクテル作りの腕を競う「全国バーテンダー技能競技大会」(日本バーテンダー協会主催)が岡山市で開かれ、静岡県の湯本清美さんが日本一の栄冠に輝いた。(アサヒ・コム編集部 安冨良弘)




2位の田畑道崇さん、優勝した湯本清美さん、3位の吉田貴史さん(左から)



 大会は今回で35回目。各支部の予選、全国で九つに分かれた地区本部大会を勝ち抜いたバーテンダーら40人が出場した。競技は筆記、フルーツカッティング、課題カクテル、創作カクテルの4部門の総合得点で競われる。

 今年の課題カクテルは、ここ数年続いたカクテルの王様「マティーニ」から変わり、スイートベルモットとテキーラを使う「テキーラ・マンハッタン」に。メジャーカップを使わず、フリーハンドできっちり5杯分、どれだけ正確に作れるかが問われる。

 最も注目されるのが、創作カクテル部門だ。選手はオリジナルのレシピと名前を付けた、全く新しいカクテルを作り上げ、大会にのぞむ。今年のテーマは「ファンシー」。これまでの「食前酒」「食後酒」といったジャンルと違い、まだなじみのない分野だが、従来のカテゴリーに縛られない、自由な発想のカクテル作りが要求されるという。

 選手たちはグラス5杯分の材料と、氷をあわせると1キロ近くになるシェーカーをリズミカルに振ってカクテルを作りあげる。テーマにあわせて、グラスにフルーツや花などを使った飾り付けを施し、華やかで色鮮やかなカクテルが多かった。

 審査では味や香りに加え、所作の美しさや、どれだけ落ち着いて作っているかなどもベテランのバーテンダーによって審査される。

 優勝した湯本さんは静岡県三島市で「BAR YUMOTO」を夫婦で営むバーテンダー。全国大会で女性が優勝したのは12年ぶり、3人目。ウオツカとフルーツリキュールをベースにした、ほの赤いカクテル、喝采を意味するネーミング「アプローズ」で創作部門1位を獲得。フルーツカッティングでも1位になり、ベストネーミング、ベストテイスト賞も得て、総合優勝を果たした。

 昨年の全国大会に初めて出場し、準優勝だった湯本さん。今年から大舞台での経験を積ませようと、参加枠が倍の40人になったにもかかわらず、プレッシャーをはねのけ、2年ごしの優勝となった。

 「本当に長かったですね。皆さんのおかげでとらせていただいた賞です」と1年を振り返る。「まだまだ続くバーテンダーの人生。これで終わりではないので、お客様を大切にして、おいしいものを提供できるようにがんばっていきます」と意気込みを語った。湯本さんは来年ドイツで開かれる世界大会に日本代表として出場する。

    ◇

総合1位 湯本清美(沼津支部)

  2位 田畑道崇(銀座支部)

  3位 吉田貴史(大阪北支部)
  

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2008年06月02日

岩崎恭子さん

岩崎恭子さん 【岩崎恭子さん(いわさき・きようこ)沼津市出身。29歳。14歳の時、1992年バルセロナ五輪女子200㍍平泳ぎで金メダルを獲得した。96年のアトランタ五輪の200㍍平泳ぎは10位。現在はスイミングアドバイザーとして全国各地に出掛け、幼児からお年寄りまで幅広い世代に水泳の楽しさを伝えている。】





「金メダルとあの言葉は自分の体の一部」
 目標までの過程大切

 ー十四歳で金メダルを取ったバルセロナ五輪から十六年がたちました。
 現役を引退しても物事を四年サイクルで考えてしまいます。今でも代表選考会のことを考えると心臓が痛くなるんですよ。選考会前は自分が泳ぐわけでもないのにドキドキしたりして。
 わたしは子供のころからいつもレースでは一番になろうと思っていました。初めて五輪に出場したバルセロナでも同じで、金メダルを取るつもりだった。でも、金を取ったらどうなるのか、心の準備ができてなかったんです。
 ー「今まで生きてきた中で一番幸せ」という言葉を残しました。
 あの言葉は自分の中で金メダルと同じぐらい大きなもの。言葉と一緒にわたしを覚えていてくれる人も多いですし。でも、当時はあまりに反響が大きく『何であんなこと言ったんだろう』ってメダルと言葉が重荷になっていましたね。
 ー中学二年生を取り巻く環境は一変し、長いスランプが待ち受けていました。
 バルセロナの後は自分を見失い、練習もダラダラとしてしまって。一番を取りたいと思わなくなりました。『これじゃいけない』って気付くのに二年もかかってしまって。でも、この期間があったからこそステップアップできたと思います。金メダルもあの言葉も"自分の体の一部"と思えた時、アトランタを目指す決意が固まりました。
 ー挫折を越え、五輪連続出場を果たしました。
 アトランタ前の二年間は本当にいろいろ考え、水泳に真剣に取り組みました。出場権を取った時はバルセロナの金と同じくらいうれしかったです。結果は十位で競技者として負けでしたが、ゴールした時に達成感がありましたね。
 ーバルセロナを理想化しすぎて陥った不調。二つの五輪を経験し、大きく成長しました。
 バルセロナの時は気持ちよく泳ぎ、どんどん前に進みましたね。アトランタの時はバルセロナと同じ泳ぎをすれば、いい記録が出るという思いが強く、感覚を再現しようとしすぎてしまったような気がします。アトランタの時はもうバルセロナのようなことが自分に起きないとわかっていた。今自分ができることを認識したうえで目標をつくることが必要で、漠然とした目標は意味がない。たどり着くまでの過程が大切だと思います。
 ー北京には高桑健、松本尚人、物延靖記の県勢三選手が出場します。
 静岡から一度に三人の五輪選手が出たのは本当にうれしい。五輪の舞台に自信を持って臨んでほしいです。自分らしく競技できた人がいい結果を残せると思います。出場するだけじゃなく、北京で戦ってきてほしいと思います。
(聞き手=運動部・寺田拓馬)
(静新平成20年6月1日「私の五輪物語」)
  

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