2008年11月28日

名取栄一翁伝:5完

名取栄一翁伝5完
没後50年、足跡は今5
統制下、沼津市長に:政策の最大課題は合併
 「沼津市トノ合併ハ純農村ノ機構ヲ破壊スルモノニシテ絶対二好マザル所ナリ駿東郡大岡村上石田区」ー。沼津市明治史料館に、こんな合併反対決議書(昭和十五年)が残されている。当時の沼津市長は名取栄一翁だった。
名取栄一翁伝:5完 戦後施行の地方自治法、公職選挙法以前、市長は市議の中から間接選挙で選出されていた。十年から市議を務めていた名取翁は、市長派、反市長派、中立派の三派による意見交換の上、全会一致で次期市長に推された。
 名取翁は当初、「器ではない」と固辞したが、議会や経済界、地元大手町町内会の再三の説得を受け受諾。十五年二月、第七代沼津市長に就任した。六十八歳だった。
 名取市長は戦時統制の中、出征将兵の遺・家族援護などに尽くすとともに、近隣町村との合併を最大課題に置いた。名取栄一翁伝記は「最大の壁であった愛鷹山組合の改組並びに、門池水利組合の一時清算に成功して、その土台をつくった」としている。
 だが、十五年七月、県当局が強くあっせんした沼津、片浜、静浦、大岡、金岡の五市村合併による会談は、決着がつかず挫折した。九月には大岡村上石田の住民が、反対決議を挙げている。翌十六年、名取市長や各村長の奔走で、いったんは大岡、片浜、金岡が合併に傾いた。名取市長は静浦を除く三村との合併を正式に申し入れたが、情勢は逆転し、四市村合併も暗礁に乗り上げた。
 十六年十一月、名取市長はわずか一年九カ月で辞表を提出した。名取栄一翁伝記は「健康上の理由」とするが、ひ孫の名取正純さん(五〇)=沼津ヤナセ社長=は、「栄一翁の潔癖な性格からして、合併問題の責任をとり辞職したのでは」とみる。
 昭和三十三年十一月九日、石橋湛山葬儀委員長の下、名取翁の葬儀に委員として名を連ねた田上博沼津市議(八三)は慨嘆する。「名取先生にしても湛山先生にしても、当時若かった自分は仰ぎ見るしかなかったが、政策に向かう気迫、出処進退の潔さが強く感じられた」
 名取翁の没後、半世紀。沼津市は今月、新しい市長,を迎えた。栗原裕康新市長は沼津主導の東部合併を最大課題とする。栗原市長は「合併は自分一人の力だけでできるとは思わないが、先人の情熱は受け継ぎたい」と話す。

 【メモ】沼津市の合併片浜、静浦、大岡、金岡との合併は昭和19年。歴代市長の努力に、戦争を控えた総力戦の構築という国家的要請で実現した。その後、30年に愛鷹、大平、内浦、西浦、43年には原町、平成17年は戸田と合併したが、政令市を目指した東部5市4町の研究会は今年2月、破たんしている。
(静新平成20年11月28日「名取栄一翁伝:完」)


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Posted by パイプ親父 at 11:09│Comments(0)歴史上の人物
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