2010年11月25日

濱野弘雄さん

 とりう3代目の濱野弘雄さん
 創業100年へ精進
濱野弘雄さん

 調理師で表彰された濱野弘雄さんは一九四〇年二月、市場町生まれの七十歳。一小、一中から沼商を卒業後、父親が経営する大手町の、うなぎ・釜飯・鳥料理「とりう」の三代目を継ぐため、東京日本橋の鰻専門店などで修業。
 住み込みの修業時代は、同僚三人と三畳間で寝起き。朝六時に起床し、漬物の糠床を整えることに始まり、朝のうちに出前下げ、昼からは自転車で出前。午後三時ころから肝吸いの仕込み、米とぎなど。徐々に鰻料理の手ほどきを受け、深夜十一時ころ銭湯に出掛け、日付が変わるころ床に就くという毎日だった。
 濱野さんは半世紀前となった当時を振り返り、「何の楽しみもない、ただただ修業のみだった」と話す。
 当時の給料は、仕事を教えてもらう「奉公」ということから、新卒の平均初任給を大きく下回る月二千円。修業先が日本橋だったこともあり、唯一の楽しみは休日に銀座で映画を見て食事をすること。
 「串打ち三年、割き八年、焼き一生」と言われる鰻料理人の世界。父親が六十歳で引退した後は、経営者として店舗経営も担わなければならなくなったが、「いい従業員に恵まれ、さほどの苦労はなかった」と、現在では仕事の傍ら商店街や飲食組合の活動にも力を入れる。
 二男に恵まれ、現在は長男家族と同居。働き盛りとなった四十歳前後の二人の息子は大手企業の中堅どころで、跡を継ぐ考えはなく、二十六年間、濱野さんに仕える木村尊さんが「四代目」を継ぐことになっている。
 現在の楽しみは、神戸に住む孫との電話での会話と仕事を終えての晩酌。一九二七(昭和二)年創業時の屋号は創業者・宇三郎から採った「鳥宇」。創業当時は、浮島周辺で霞網によって捕獲されたスズメやウズラなどの焼き鳥料理を提供していたが、野鳥捕獲が禁止されてからは鶏を使用。三五
年には釜飯と鰻が加わり、屋号を「とりう」として現在に至っている。
 濱野さんは、元気がない中心市街地を訪れる人を増やし、おいしい料理を提供して喜んでもらいたい、と斬新なアイデアで新製品を生み出すことに余念がなく、インターネットで同店を知った海外の飲食店関係の団体客が来るようになったと話し、老舗の味を四代目に託し、創業百年を目指し精進を続ける。
(沼朝平成22年11月25日号)


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Posted by パイプ親父 at 13:00│Comments(0)受賞
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