2008年07月29日

河鍋暁斎

「河鍋暁斎と沼津」
望月宏充(原ルネッサンスの会会長、原西町二区)

 先日、大塚・長興寺の松下宗柏住職から八月三日まで東京の国立博物館で開催されている「フランスが夢見た日本」展の招待券をいただき、今月二十三日に博物館を訪ね、鑑賞してきた。
 この展覧会は日本の浮世絵・版本を基に制作されたオルセー美術館所蔵の陶磁器(テーブルウェア)と浮世絵版画を対比して展示しているもので、この中に北斎や廣重の沼津、浮島ケ原の作品と並んで河鍋暁斎の版本「暁斎楽画」を基に制作された作品が多数展示されていた。
 暁斎は沼津に縁を持ち、・また海外で、その作品が再評価されて人気が高く、「明治の北斎」とも言われる画家・浮世絵師である。
 私は以前から彼の作品や沼津とのつながりに興味を持ち、昭和六十三年、埼玉県蕨(わらび)市にある「河鍋暁斎記念美術館」を訪れ、そこで、暁斎の子孫の河鍋楠美館長にお目にかかり、食事を交え、いろいろと話をすることができた。
 その中で、会誌『暁斎』への投稿を依頼され、浮世絵「東海道之内 田子浦蛇松」について書かせていただいた。さる六月十三日、図らずも、暁斎のことで沼津を訪れた楠美先生に二十一年ぶりに再会し、懐かしく話をすることができた。この機会に、「河鍋暁斎と沼津」のことについて、本欄をお借りして紹介させていただく。
 河鍋暁斎(天保二年-明治十八年)は下総国古河生まれ。名は周三郎。七歳で歌川国芳に入門し、後に狩野派の狩野洞白陳信門に移り、洞郁陳之と称した。自由奔放、酒を愛し、天才肌の画家で初期浮世絵の画号は周麿(ちかまろ)を名乗り、また狂斎など多くの号を使ったが、一般的には惺々暁斎(せいせいきょうさい)の名で知られる。
 彼と沼津とのつながりは、明治維新で彼の兄が徳川家の駿河入りについて母と沼津に移住、それが縁で暁斎も明治四年(このころ、狂斎を暁斎に改める)、沼津や修善寺に足を留め、その間に沼津の女性、宇田しんと結ばれ、明治五年に宇田雨柳が生まれた。
 雨柳は俳号で、本名は竜蔵・柳三郎と言い、画号は父と同じ「惺々暁斎」を名乗る。沼津でペンキ業・看板店を営み、沼津のペンキ業のはしりと言われ、父譲りの画才があり、俳句・絵・絵馬などを描き活躍した。雨柳の次女は、日本画家の佐々木古桜と結婚した。
 佐々木古桜は京都生まれで、谷口香キョウ・小堀靹音に学んだ大和絵画家で、武者絵を得意とした。縁あって沼津に逗留し、後に永住した。代表作は三嶋大社に奉納され、また太平洋戦争中の生活を絵で綴った「画便り」「画日記」で知られる。
 このように沼津の暁斎の流れは子孫に受け継がれている。
 暁斎の沼津の浮世絵には周麿時代の「東海道之内田子浦蛇松」、暁斎画「東海道五十三駅名画之書分原」等があり、沼津兵学校教授の渡部温が翻訳した「通俗 伊蘇
普(イソップ)物語」に挿絵を描き、また明治五年に沼津で没し、本光寺に葬られた母の墓石には暁斎が描いた「枯木寒鴉図」が彫られていたが、今は失われている。
 このように沼津と深い縁がある大画家「河鍋暁斎」や宇田雨柳、佐々木古桜の作品を集めた展覧会を、ぜひ地元の沼津を中心にした施設で開催していただきたいものと願っている。
(沼朝平成20年7月29日「言いたい放題」)

河鍋暁斎

↑河鍋暁斎の代表作品


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Posted by パイプ親父 at 10:39│Comments(0)歴史上の人物
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