2015年12月26日

矢田凡久(保久)さん

 元政治家秘書 矢田凡久(保久)さん
yatabonkyu

「 やた・ぼんきゅう==やすひさ 1915年11月30日、小山町生まれ。8人きょうだいの長男として、町立成美小一沼津中(現沼津東高)に進んだ。卒業後は紀伊国屋書店や日本読書新聞社などで働き、近衛歩兵第2連隊、支那駐屯歩兵第2連隊に転属した。53年から遠藤三郎氏の秘書に就き、遠藤氏が他界した後は富士通や東タイなどで勤務。原田昇左右氏の統括責任者として選挙を担い、9回連続当選を支えた。沼津市企画部長のほか、市内の企業や医療法人の役員などさまざまな職を経て、85歳で職業的な仕事から引退した。」
 政治の大切さを痛感
 東名高速道や首都高速道の建設、狩野川台風の被災地復旧などに尽力した裾野市出身の政治家故遠藤三郎。旧衆院静岡2区で連続9期当選し、岸信介内閣で建設相を務めた大物を県東部の選挙区で秘書として支えた一人が、小山町出身の矢田凡久(本名・保久)さん(99)=沼津市=。政治家秘密の世界に飛び込み、遠藤の地元筆頭秘書として若かりし日の自民党総務会長の二階俊博氏らを育ててきた。数奇な縁からさまざまな職を経験した。今年11月に100歳。今でもその人望は厚い。
 ◇
 政治家秘書は主人本位の一体感で臨まなければできません。経験を通じて政治ほど大変なことはなく、政治ほど大切なことはないと痛感しました。秘書に就いたきっかけは沼津中(現県立沼津東高)の恩師で、私たち夫婦の媒酌人だった前田千寸先生が「沼中卒の秘書になれる人を探している」と声を掛けてくれたこと。1953年1月から遠藤先生の沼津市の事務所で、書生ら5人ほどの取りまとめ役として働くことになりました。秘書としての始まりでした。
 携わった選挙は3回目から。先輩秘書に教わりながら富士川以東の支援者回りなどを続け、血の小便が出たこともあったほど。遠藤先生が建設相として入閣して大臣秘書官を務めるなど選挙や秘書の仕事から多くの人脈ができました。二階俊博先生もその一人。中央大卒業後に秘書に加わり、選挙区にも頻繁に訪れてくれました。
 秘書同士が立場を超えてまとまる場として「初心会」を発足しました。保守合同前の民主党幹事長だった岸信介氏が筆頭副幹事長の遠藤先生に贈った「初心忘るべからず」の一幅に由来しています。遠藤先生の命日12月27日を中心に集まって、しのんできました。
 りーダーの資質学ぶ
 遠藤先生は寡黙で地元のために献身した人でした。高速道路をめぐり東名か中央かどちらを先に着工するかという問題では意見を言いませんでした。土地を取られる農家に配慮した行動です。やると決断した時、決断後の行動は迅速でした。リーダーとして機を見るタイミング、決断すれば一気に動く行動力などを肌で学びました。
 好きな書葉に「即離即覚(そくりそっかく)」があります。選挙に負けてもとちわれずに次を考える。くよくよしても仕方がないという意味です。遠藤先生の長兄が裾野市長選で敗れた時の言葉で、選挙の戦訓が万事に当てはまると自戒しています。遠藤先生は首都高速建設も力を注ぎ、首都高速道路公団が設立されると、私は秘書から公団調査役になり、遠藤先生の支援者でつくる遠藤会の原精一氏が沼津市長に当選した年からは、先生に言われて市企画部長として勤務しました。御用邸の払い下げ、東海大誘致などの課題を抱えていました。どれもこれまでに得た人脈が生き、実現や解決につながったと思います。
 絶え間ない縁
 書店の小僧から始まった人生を振り返ると、何回職業を変えたことか。行きたいという自分の意思で行ったところは一つもありません。次から次へと絶え間ない縁を与えてもらい、縁に従って生きた、いわば「随縁」です。縁は不思議です。どこでもここで一生働く気持ちで懸命に取り組んだ結果が次の縁につながってきたのではと思ったりもしますが、分かりません。
 戦後70年です。真実を伝えることが生き残った人間の役目ですが難しい。近衛歩兵第2連隊に入隊し、翌年二・二六事件に巻き込まれました。戒厳令下鎮圧部隊の日々は忘れられない。その後は中国で第27師団支那駐屯歩兵第2連隊に転属し、師団司令部参謀部の作戦教育所属として打通作戦(大陸縦断作戦)にも参加しました。敗戦は広東から転進する途中で聞き、復員したのは31歳でした。
 平和追求の努力を
 仲間とともに戦後の郷土のために未来の道筋を考える場として「沼津自由大学講座」を企画しました。芹沢光治良や林芙美子、美濃部亮吉など各界を代表する人を講師に迎え、文化運動として結実しました。
 「戦争はないほうが良い」。
誰もがそう思うでしょう。戦争をなくすためには、平素から皆で話し合い、英知を尽くして順序を踏んで平和を追求する努力をしなければならない。立派な政治家を輩出し、世界各国と話し、国内的には大同団結しないといけないでしょう。非常の時には非常の人が出てこないと非常を突破できません。
 富士山に登るにもいくつもの道があります。一つの道でつっかえたら別の道を進む。道は一つではありません。お互いに助け合って良い方向を目指してほしい。同じ時代を生きているのだから。
『 遠藤三郎(1904-1971年)裾野市(旧富岡村)出身。旧制沼津中、第一高等学校、東京帝国大法律学科卒。農林省に進み食糧庁企画課長、和歌山県経済部長、農林省畜産局長などを歴任。1949年の総選挙で旧静岡2区より立候補して初当選し、衆院議員を連続9期務めた。大蔵政務次官や建設相のほか、自民党では副幹事長や政調副会長などの重職に就き、国土開発や農林水産業振興などに力を注いだ。狩野川台風の復旧には建設相として陣頭に立って対応した。』
(東部総局・杉山武博・宮崎隆男)
【静新平成27年5月1日「生きる」】


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Posted by パイプ親父 at 06:05│Comments(0)人物紹介
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